惑いの森と勿忘の花

有村朔

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第一章

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(俺は、何を間違えたんだろう)
雪帆のいない部屋はあまりに広く寂しい。
黙って出て行かれるようなことをした覚えはない。
その事実が春太にはひどく悲しかった。

「身に覚えなしとか、最悪かよ俺…」

頭を抱えるようにテーブルにうなだれる。大事にすると、幸せにすると、そう誓ったはずなのに…その結果がこれか。

「どうして、雪帆」

テーブルの上には雪帆のマグカップが所在なさげにポツンと佇んでいる。
まるで自分みたいだなんて自嘲して、春太はまたひとつ深いため息をつく。

***

それでも時間は止まってくれない。
雪帆がいてもいなくても、今日という日はいつもと変わらず過ぎていく。
春太は仕方なく大学に向かった。
単位は大事だ。
留年なんてするわけにはいかない。
本当は雪帆がいないあの家にいたくない一心だったけれど、わざと違う理由を押し並べて冷静になるべく努めようとした。

「おはよ、ハル」

大学の門のあたり、ぽんと背中を叩かれて春太が振り向くと、そこには基樹もときが立っていた。
もっさんが愛称の高校からの親友である基樹は春太と雪帆の関係を知る唯一の人物だった。そのもっさんに出会い、思わず気を緩める。

「今日は雪帆一緒じゃねえの?めずらしいな。喧嘩でもしてんの?」

出会い頭わずか3秒足らずの間にぐさりと傷を抉られる。

「…出てっちゃった」
「はあ?出てった?なんでまた」
「わかんない…どうしようもっさん」

雪帆との関係性はホイホイと人に話せるものではない。学内の男同士なんて、バレれば噂はあっという間に広がるし、居場所なんてすぐになくなる。だから黙っていた。でもそれは、こういう有事に誰にも頼れないということも意味していた。

本当はずっと不安だったのだ。
誰かに相談したかった。
話を聞いてもらいたかった。

そう自覚した瞬間、緊張の糸が切れたみたいに春太の目からはポロポロと涙が溢れて止まらなくなった。

「え、おい、ハル?」

慌てる基樹に大丈夫だと伝えたくて片手をあげるが、誰がどう見ても今の春太は大丈夫なんかじゃない。
基樹は顔に手を当てて盛大にため息をつき、やれやれといった顔をして春太の手を引いた。大学を背にずんずんと進む。

「え、もっさん、一限はじまる」
「お前その面で講義行くつもりだったの?呆れた」
「どこ行くの」
「俺ん家。ここから歩いて5分以内。お前、とりあえずいっぺん寝ろ。ひどい顔してる。泣いて、寝て、飯食え。話はそっからだ」

大きな手がワシワシと頭をなでる。
春太も決して背が低いというわけではなかったけれど、基樹はそれ以上に高身長だった。
基樹と並んで歩くとその身長差で相対的に春太が小さく見えるから、春太自身いつもそれを気にしてはいた。
しかし今はこの身長差がありがたい。
基樹はそれ以上なにも追求せずに春太がさんざん泣くのを受け止めていた。

春太は基樹の家に着くなり、そのまま小さな子供みたいに泣き疲れて眠ってしまった。
昨日の夜はこのまま眠れる日なんて来ないと思っていたのに、その時の春太は不思議なほどすとんと眠ることができた。

春太が目を覚ますと、基樹は飯食いに行こうと春太を誘った。

「仕方ねえから今日は奢ってやる。感謝しろよーハル」
「本当にありがとう、もっさん」

基樹は調子狂うなぁと笑っていた。
たどり着いたのは基樹の家と学校の間に位置する定食屋だった。

「こんなところに定食屋さんなんてあったんだ」
「おー、美味いぞ。おやじさんいい人だし」

ガラリと引き戸を開けて中に入る。
客は他にいない。

「変な時間だけど、二人いい?」

たしかに昼には早く朝には遅い、なんとも中途半端な時間だった。もしかしたら準備中だったのではないかと春太が懸念していると、店の奥から太い声が返ってくる。

「お、基樹か。なんだおめぇ、彼女の一人でも一丁前に連れて来たのかと思ったのによ」

悪態をつきつつも店主は適当に座れよという。
ニッと笑う顔のすきっ歯が好ましい。

「悪かったなモテなくて」
「いやでもちゃんとダチがいるってわかって安心したわ」
「俺をなんだと思ってんだよ」
「だっておめぇ、いつも一人で来るじゃねえか。人連れてくんの今日がはじめてだろ?心配してんだぜこれでも」

それは春太にとって意外な話だった。
いつも誰かしらとつるんでる基樹にしては珍しい。

「はいはい、ご心配どうも。ほらハル、その辺の席座ろうぜ。おやっさん、いつもの二つ」
「おまえ本当それしか食わねぇな」

呆れたようにしながらも店主は店の奥に消えた。入れ替わるように奥さんらしき女性が湯呑みを盆に乗せて出てくる。

「はじめましてよね。ごめんなさいねぇ、あのひと口が悪くって」
「いえ」

差し出された湯呑みではあたたかいほうじ茶が揺れていた。香ばしい匂いに春太はようやく自分が空腹であることを思い出した。

「そうだ、飯待ってる間に話しておきたいことがあんだけど、いいか?」

顔を上げた先で見た基樹の表情がいつもよりもずっと真剣だったから、思わず春太も身構える。

「なに…?」
「雪帆のこと、思いつく限りに聞いてみた。行き先に思い当たるものがないか、昨日いなくなったとして、最後に会ったのは誰か、最近あいつになにか変化はあったかとか」
「いつのまにそんな…」
「俺の行動力と人脈ネットワークなめんなよ。お前が寝てる間に網張るのなんざなんてことねえんだよ、俺にとっては」

得意そうに笑う基樹を見て、ようやく春太の顔にも笑みが浮かんだ。
基樹はそれでな、と言って話を続ける。

「結論から言うと、あいつ昨日は大学には行ってない」
「え?どういうこと?」
「おまえん家を出てから大学に来る道中で何かがあった、と思うのが普通だろうな。誰に聞いても別にここ最近で雪帆に変わった様子はなかったって答えるし、なにより家にはあいつの私物そのままだったんだろ?」
「うん」

部屋に取り残されたあのマグカップが頭に浮かぶ。雪帆はそもそも物を多く持つ性分ではなかったけれど、さすがに家を出るつもりだったならもう少し荷造りをするなり痕跡を残すだろう。
冷静になってみるとたしかにちょっとおかしい。

「ただな、ひとつだけ引っかかることがあった」
「引っかかること?」
「直接関係するかはまあ、わからねえけど。ハルは最近ちょっと噂になってる都市伝説みたいなの、知ってるか?」
「都市伝説…?いや、知らない」
「俺も詳しくは知らねえんだけど、なんか雪帆、その噂をひどく気にしていたらしい。あいつって普段はあんまり周りのことに関心示さねえじゃん?それが、詳しく聞きたいなんて言ってきたんだと。な?ちょっと変だろ?」

春太もそれは奇妙だと思った。
雪帆はオカルト好きでもないし、特に都市伝説の類に興味を示していた節はない。
それが、一体なぜ?

「必要な者の前にだけ現れる呪われた扉」

基樹が不意にそう言った。

「なにそれ?」
「都市伝説で騒がれているやつの内容。本当に必要な人間の前に現れる扉。その扉を開けると、扉の向こうには『惑いの森』があるんだと」
「惑いの…森?」

困惑をありありと顔に浮かべていると、基樹も破顔して「胡散臭いよな」と言った。

「なんでも、その惑いの森の奥にたどり着けると必要なものが見つかるんだって。でもその森には忘却の呪いがかかっているから、その森に入って戻った者はないんだとか」
「…戻った者がないのになんで噂があるの?」

基樹は肩をすくめる。

「さあ。そこが胡散臭い都市伝説と言われる所以だな」
「でも、雪帆はその噂を信じた」
「ああ。おそらくな」

眉間に皺を寄せながらうーんと唸る。
そこにちょうど頼んでいた定食がやってきた。煮魚の和定食。匂いを嗅ぐと同時に腹が鳴った。

「とりあえず、飯にしようぜ。空腹は人を悲観的にさせる。まずは腹を満たして、考えるのはそれからにしよう」

基樹はいただきます!と両手を合わせ、見事な食べっぷりで食を進める。春太もつられるようにお椀を手にした。
温かな味噌汁の熱がてのひらにじんわりと伝わる。

(この煮魚定食、雪帆好きだろうな)

頭に思い浮かべるだけでまた涙が溢れてしまいそうだった。それを必死に堪えながら春太は目の前の飯をかき込んでいく。
すっかり平らげて店を出るとき、店主は春太に言った。

「あいつのこと、これからもよろしくな」

軽く背中を叩かれて春太は頷いた。
そして「また来いよ」と朗らかな笑顔を向けてくれた店主に対して一礼し、春太は基樹と一緒に一度大学に向かうことにした。
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