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彼の想い

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 不気味に微笑む俊介の瞳からは異様な光が放たれている。
 息遣いは荒く、どこか普通ではない気配がした。

「空良、よくもやってくれたな。
 ……もう終わりだ、おまえのせいで!」

 興奮して叫ぶ俊介をまっすぐ見据える空良。
 雅人は緊迫したこの空気に圧倒され、二人を見守ることしかできなかった。

「はじめから、わかってたんだろ? 俺に復讐しにきたんだろ?
 よかったな、復讐できて」

 ニタっと薄気味悪い笑みを浮かべる俊介に、空良は悲しい表情をする。

「俊介……おまえは変わらないのか?」

 空良のその瞳からは同情やあわれみなどではない、俊介への何か切実な気持ちが込められているように感じられた。
 
 俊介は首をひねる。
 その目は血走り虚ろだった。視線が定まらず正常な状態には見えない。

「何わけのわかんないこと言ってんだ。
 もうどうでもいい! ……俺も、復讐しにきた」

 俊介は嬉しそうに微笑むと、空良に勢いよく突っ込んでいった。

 ドンッと鈍い音がして、空良が低くうめいた。

「おまえが悪い……おまえが悪いんだ。
 …………俺から、すべて奪うから」

 俊介はゆっくりと空良から離れていく。
 その手には血だらけの包丁が握られていた。

 由紀の叫びが病室に響いた。

 空良の腹部がだんだん赤く染まっていく。

 俊介の手から滑り落ちた包丁が床に落ちると、辺りに金属音が虚しく鳴り響く。

 空良は壁にもたれかかり、辛そうに顔を歪める。

「俊介……おまえはっ、本当に、バカだなっ」

 ずるずると床に座り込んだ空良の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。
 こんなときでも空良はその顔を歪めながら優しく微笑んだ。

 空良の瞳と俊介の瞳が重なる。

 その瞬間、突然俊介は笑い出した。
 額に手をついて、可笑しそうに腹を抱え、狂ったように笑い出す。
 ひとしきり笑い終えると、今度は発狂し奇声をあげながら病室から飛び出していった。

 由紀はナースコールを押し続ける。

「早くきて、お願いっ」

 由紀は泣きながら何度も叫び続ける。

 空良の腹部からは大量の血が流れ出ていた。
 彼の下にはもう既に血だまりができていたが、まだ血は止まりそうになかった。

 雅人はこの状況についていくことができず、ただ茫然と眺めていることしかできない。あまりの出来事に脳が停止し、思考が働かない。

 どうした? 何が起きた? 誰がどうなった?

 だんだんともやが晴れていき、視界と思考が戻ってくる。
 そうすると今度は目の前の血だらけの空良を見て、どうしていいのかわからず雅人は取り乱しはじめた。

「そ、空良、ど、どうしよう!」

 雅人は頭を抱え、涙目になりわめき散らす。まるで小さな子どものように。
 パニックにおちいる雅人に向かって、空良が弱々しいその声を懸命にふりしぼり想いを伝えようとする。

「雅人……ごめん、な。
 長い間、苦しかった、……よなあっ。
 ……っ苦しめて、ごめ、……ん」

 空良は苦しそうに息を吐きながら、懸命にか細い声を出す。

「な、なんで空良が謝るんだよ、謝るのは僕だろ」

 雅人は空良へ近づくと、虚ろに弱々しく開くその目をしっかりと見つめた。

「ごめん、空良。……僕、間違ってた。
 俊介の脅しに負けたことも、火を放ったことも、そのあと逃げたことも、ずっと隠し続けていたことも。
 どれも……僕が選んだんだ。この僕が……」

 悔しそうに歪んだ顔から大粒の涙がこぼれ落ちる。
 雅人は今までずっと目を逸らし、逃げ続けてきたこととはじめて向き合った。

 それは空良が今までずっと望んできたことだった。
 空良が嬉しそうに目を細めると、その頬を涙が伝っていく。

「どれも僕がしっかり自分の意思をもって行動していれば防げたかもしれない。
 こんなことだって、起きなかったかもしれないのに……。
 僕、悔しいよ……自分が。
 本当に情けなくて、みっともなくて……」

 雅人の目から涙が次々溢れてくる。
 声をあげて泣き叫びたくなる衝動を必死で押さえるため、雅人は歯を食いしばって耐えた。
 涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔を空良に向ける。

 空良は雅人に優しく笑った。そして、最後の力を振り絞って口を開く。

「雅人……俺は、……おまえが、好き……だったよ。
 ……ずっと、……友達、だと……思、ってた。
 強く、なれ。……ゆき、さんの……ために。
 そして、……わら……って、……くれ。
 お、れは、……おまえ、の……え、が……お……が……」

 身体から力が抜け、空良はそれ以上口を開くことはなかった。

「空良、空良! しっかりしろ!」

 そのとき、ナースコールで駆けつけた看護師がやってきた。

「どいてください、大丈夫ですか?」

 その惨状を見て驚いていた様子だったが、さすが看護師、テキパキと仕事をこなしていく。
 他の看護師もすぐに駆けつけ、空良は運ばれていった。

「空良……ごめん、空良!……空良っ!!」

 雅人は泣き崩れた。
 もうそこにはいない空良を何度も何度も呼び続けながら。





 俊介は空良を刺したあとすぐに捕まった。
 病院内で奇声を発し彷徨っていた彼を、通報で駆けつけた警察官が捕まえたらしい。

 雅人はあれから警察に行き20年前のことを正直に話した。

 放火は重い罪だ、他人に脅されたからといって免除されない。
 しかし、雅人が当時家族を人質に取られ恐喝きょうかつされていた事実と自首してきたこと。
 そして何より空良が残した日記のおかげで、雅人には執行猶予がついた。

 空良はあの日からずっと日記をつけていた。

 その日記には雅人への想いがたくさんつづられており、それは空良が雅人を恨んでいないという立派な証拠になる内容だった。

 日記に目を通した雅人は涙が止まらなかった。

 この20年間にわたる、空良の深い悲しみや苦しみがそこにはあった。

 自分ではどうしようもない恨みや憎しみの感情。その感情が暴走し、自分が悪魔や獣になってしまうのではないかという不安や恐怖。
 自分がどれだけ非道な考えを持てる人間なのかという嘆き。
 暗い迷路の中を彷徨い深い闇の中で迷子になってしまったような孤独。

 それらと真剣に向き合い、葛藤する日々が記されていた。
 絶望のような日々の中で彼は自分の心と向き合い、一人で闘い続けていたのだ。

 彼ほどの優しい人間だからこそ、どれほどの苦悩を味わい、どれだけ絶望し、打ちひしがれたことだろう。
 途方もない自分との闘いを繰り広げていたのだろうか。
 きっと誰にも想像できない道を彼は一人歩いていたのだ。

 そして、さらに驚くべき事実がそこには記されていた。

 彼は雅人を恨むどころか、心配していたのだ。
 また誰かに流されて間違った方向へ進んでいないか。いじめられて辛い思いはしていないか。
 少しずつでも自分の意志で強く生きていって欲しいという願いが記されていた。

 あんなに酷いことをしたのに、なんでそんな風に思えるんだ?
 普通は恨むだろ、許せないだろ。
 ……なんで、そんなに、優しいんだよ。

 空良は本当に馬鹿だよ。馬鹿がつくお人好しだ。

 日記の最後には俊介のことを心配する記述があった。

 もちろん、許せないし恨んでいたのだろう。
 日記のはじめの方では彼への辛辣な言葉や表現が溢れていた。きっと殺したいほど憎む日々だったに違いない。
 しかし日記が進むにつれ、彼への想いに少しずつ変化が垣間見れるようになった。

 それは俊介自身の成長や変化を願う想いだった。
 
 絶対に許せるはずはないし、一生恨みや憎しみが消えることはないだろう。

 でも、空良はきっと、ほんの少しの希望を抱いていたんだ。
 あんなどうしようもない奴でも、いつか変わるんじゃないかって。

 期待していたんだ。

「……ったく、どこまで、お人好しなんだよ」


 雅人はその日記を大切そうに抱きしめる。

 頬から伝った涙がそっと日記を濡らしていった。




 由紀はあれから調子がよく、今は退院してリハビリ代わりにアルバイトを始めた。
 よく仕事の愚痴をこぼしているが、それは元気な証拠だ。
 
 雅人はそんな彼女の笑顔を近くで見ていられることに、毎日幸せを感じている。
 こんな幸せで穏やかな毎日を送れるのは、空良のおかげだった。

 空良が由紀の主治医になっていた間、病気を親身になって治療してくれていたおかげで、病状が前より良くなっていたらしい。

「このままだと、もう入院しなくてもいいかもしれないね」

 と笑顔で語る由紀。

 空良は僕を救い、そして由紀も救ってくれた。

 本当に空良には頭があがらないことばかりだった。



 現在、雅人は秘書の仕事を辞め、医者を目指すために大学に通い直している。
 34にもなって今さら何考えてるって自分でもあきれる。
 周りの目も冷たかった。心折れそうなときもある。
 でも由紀が励ましてくれるからなんとか続けていられる。
 
 それに、僕には空良がくれた想いや言葉があるから、ちょっとやそっとじゃへこたれない。

 僕はもともと人を助ける仕事がしたかった。中学の頃、医者になりたいと思った時期だってある。
 もちろん、由紀の病気の役に立ちたいという気持ちも大きい。

 でも、一番の理由は……。





 気持ちのいい太陽の光が注ぐ中、二人は霊園の中を歩いていた。
 小高い丘の上にあるここは、周りには草木があり、とても自然豊かな場所だった。
 遠くには海が見え、潮の香りが鼻をくすぐっていく。
 地面には芝生のように細かい草花が生えていて、風が吹き抜けていくたびに軽やかに揺れていた。

 雅人と由紀は目的のお墓の前に辿り着くと、一礼してから掃除をはじめた。
 掃除を終えると持ってきた花を飾る。線香をいて、お墓に手を合わした。

 ゆっくりと目を開けると、雅人が静かに語りかける。

「空良……これ君の大切なものなんだろ?」

 雅人はネックレスを墓前にそっと置いた。

 このネックレスは空良がずっと身に着けていたようで、あの事件のあと看護師さんから渡された。
 そういえば、空良の首にはいつもネックレスが見えていたように思う。

 きっと家族の誰かの大切なものをいつも肌身離さず持っていたんだよな?
 空良ならきっとそうする。

「空良……僕、自分の人生と君の人生、二人分生きるよ」
「空良先生、雅人のこと見守ってあげてね」

 そのとき、ザアッと強い風が吹き抜けていった。


 君に言われたように、これからは自分をしっかり持ち、自分で選んだ人生を、自分の足で歩いていこうと思う。

 由紀と一緒に。


 二人は手を繋いで、幸せそうに笑った。


 きっと見守っていてくれるんだろ? 空良



 空良のネックレスがキラッと光った。
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