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前編 ハジミとクジャ
第5話
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王宮に着き、ぞろぞろと立ち並ぶ家臣団や、騎士や、貴族たち、それに召使いたちの波を抜け、誰もいない部屋に通されたハジミは、胸がどきどきと高鳴っていた。
(王宮はすごいわ。うちよりたくさんの人がいるんだもの)
リグノア教徒もシュトノク教徒も、六歳になるまでは神殿にお参りに行くことが許されない。学び舎に通うこともできない。だからハジミは、家から出たことがほとんどなかった。彼女にとっては、家が世界のすべてだった。
フィオガハは人波を堂々と歩いていた。ハジミはやっと、フィオガハに敬意を抱いた。
「さあ、ハジミ。この、星見の部屋でしばらく待っていましょう。ハイルも、新しい龍神の化身、龍の少年を連れてくるでしょう」
しかし、しばらく待っても、誰も来なかった。フィオガハは心配そうな顔をし、ハジミはだんだんいらいらしてきた。
「どうしたのかしら……」
フィオガハは赤い帽子を被った頭を傾けたあと、窓を覗きにいった。王宮の最上階であるこの部屋には、大きな窓は一つもなく、小さな飾り窓しかなかった。ハジミも退屈なので、窓から外を覗きにいった。窓の外に見える大きなお屋敷。それがハジミの家だった。
「本当にフィオは、窓の外を眺めるのが好きだな」
背後から男の人の声がした。ハジミが振り返ると、十八歳くらいの、堂々とした体格の青年が、青白い顔をした、細っこい男の子を連れて、部屋の真ん中に立っていた。青年は、フィオガハと同じような帽子と、同じような服を身につけていた。ただし、その色は緑色だった。
「ハイル! 遅いわよ、どうしたの?」
フィオガハは親しげに、ハイルと呼ばれた青年の元へ駆けていった。
「いやあ、こいつが、あまりの人の多さに酔ってしまって、吐いたのさ。支度を整え直すのに、時間がかかったってわけだ」
ハイルは、男の子の肩をばんばん叩いて、大笑いしていた。
「ハイル、よしなさい。かわいそうに、具合が悪くなるくらい、緊張したのね。わかるわ。わたしも、初めてここに来たときは、緊張してお腹が痛くなって……」
「そうか? 俺は、ずいぶん偉くなったもんだって、誇らしく思ったぞ!」
ハイルは豪快に笑った。その間も、男の子はずっと、青白い顔をしてうつむいていた。ハジミはこの男の子のことを、かわいい、守ってやりたいと思った。まるで、弟ができたように思ったのだ。
「大丈夫?」
ハジミは男の子に駆け寄り、その顔をのぞき込んだ。表情がよくわからなかった。ハジミは男の子の頬に手を当てて、そっと顔を持ち上げた。背丈も、ハジミより小さいようだ。ハジミはこの男の子のことを、またしても守ってやりたいと思った。
男の子はハジミと目が合うと、目をぱちくりとさせた。ハジミがにこやかに笑うと、男の子はますます目をぱちくりさせた。
「だ、大丈夫……」
「よかった。はじめまして。わたしはハジミ。ひなぎくっていう意味よ。もっと綺麗な花の名前がついていればよかったのだけど。あなたの名前を教えて?」
男の子はどぎまぎしていた。ハジミはじれったさと、愛おしさのちょうど真ん中の気持ちを、しばらくの間、口の中であめ玉みたいに転がしていた。
「クジャ……」
「月桂樹ね! いいなあ、立派な名前で」
ハジミはクジャを抱きしめた。後ろで、俺の名前は、黒鷲って意味だぞ、と、ハイルが笑っているのを、ハジミは完全に無視した。
ハジミの腕の中で、クジャはかかしのように突っ立っていた。
「大丈夫?」
クジャは戸惑った顔をしていた。やがて意を決したように、口を開いた。
「花の香りがする人なんて、いると思っていなかったから、びっくりした」
ハジミの身体に染みついているのは、フーガジェミの花の香り……ハジミの母さんの香水の香りだ。ハジミは、首をかしげた。
「あなたのお母さまは、香水を使わないの?」
「母さんはいない。僕を産んですぐに、死んだ」
「そう……ごめんなさい。じゃあ、お姉さまは?」
「僕の家には、女の人はいない」
「じゃあ、わたしがあなたの姉さまになってあげる」
ハジミは誇らしげに笑った。
「嬉しいな、ありがとう」
クジャは、やっと笑った。
**
ハジミは、前をゆくクジャの背中をじっと見つめた。いつの間にかその背中は大きくなり、この間、身長も抜かれた 。
(王宮はすごいわ。うちよりたくさんの人がいるんだもの)
リグノア教徒もシュトノク教徒も、六歳になるまでは神殿にお参りに行くことが許されない。学び舎に通うこともできない。だからハジミは、家から出たことがほとんどなかった。彼女にとっては、家が世界のすべてだった。
フィオガハは人波を堂々と歩いていた。ハジミはやっと、フィオガハに敬意を抱いた。
「さあ、ハジミ。この、星見の部屋でしばらく待っていましょう。ハイルも、新しい龍神の化身、龍の少年を連れてくるでしょう」
しかし、しばらく待っても、誰も来なかった。フィオガハは心配そうな顔をし、ハジミはだんだんいらいらしてきた。
「どうしたのかしら……」
フィオガハは赤い帽子を被った頭を傾けたあと、窓を覗きにいった。王宮の最上階であるこの部屋には、大きな窓は一つもなく、小さな飾り窓しかなかった。ハジミも退屈なので、窓から外を覗きにいった。窓の外に見える大きなお屋敷。それがハジミの家だった。
「本当にフィオは、窓の外を眺めるのが好きだな」
背後から男の人の声がした。ハジミが振り返ると、十八歳くらいの、堂々とした体格の青年が、青白い顔をした、細っこい男の子を連れて、部屋の真ん中に立っていた。青年は、フィオガハと同じような帽子と、同じような服を身につけていた。ただし、その色は緑色だった。
「ハイル! 遅いわよ、どうしたの?」
フィオガハは親しげに、ハイルと呼ばれた青年の元へ駆けていった。
「いやあ、こいつが、あまりの人の多さに酔ってしまって、吐いたのさ。支度を整え直すのに、時間がかかったってわけだ」
ハイルは、男の子の肩をばんばん叩いて、大笑いしていた。
「ハイル、よしなさい。かわいそうに、具合が悪くなるくらい、緊張したのね。わかるわ。わたしも、初めてここに来たときは、緊張してお腹が痛くなって……」
「そうか? 俺は、ずいぶん偉くなったもんだって、誇らしく思ったぞ!」
ハイルは豪快に笑った。その間も、男の子はずっと、青白い顔をしてうつむいていた。ハジミはこの男の子のことを、かわいい、守ってやりたいと思った。まるで、弟ができたように思ったのだ。
「大丈夫?」
ハジミは男の子に駆け寄り、その顔をのぞき込んだ。表情がよくわからなかった。ハジミは男の子の頬に手を当てて、そっと顔を持ち上げた。背丈も、ハジミより小さいようだ。ハジミはこの男の子のことを、またしても守ってやりたいと思った。
男の子はハジミと目が合うと、目をぱちくりとさせた。ハジミがにこやかに笑うと、男の子はますます目をぱちくりさせた。
「だ、大丈夫……」
「よかった。はじめまして。わたしはハジミ。ひなぎくっていう意味よ。もっと綺麗な花の名前がついていればよかったのだけど。あなたの名前を教えて?」
男の子はどぎまぎしていた。ハジミはじれったさと、愛おしさのちょうど真ん中の気持ちを、しばらくの間、口の中であめ玉みたいに転がしていた。
「クジャ……」
「月桂樹ね! いいなあ、立派な名前で」
ハジミはクジャを抱きしめた。後ろで、俺の名前は、黒鷲って意味だぞ、と、ハイルが笑っているのを、ハジミは完全に無視した。
ハジミの腕の中で、クジャはかかしのように突っ立っていた。
「大丈夫?」
クジャは戸惑った顔をしていた。やがて意を決したように、口を開いた。
「花の香りがする人なんて、いると思っていなかったから、びっくりした」
ハジミの身体に染みついているのは、フーガジェミの花の香り……ハジミの母さんの香水の香りだ。ハジミは、首をかしげた。
「あなたのお母さまは、香水を使わないの?」
「母さんはいない。僕を産んですぐに、死んだ」
「そう……ごめんなさい。じゃあ、お姉さまは?」
「僕の家には、女の人はいない」
「じゃあ、わたしがあなたの姉さまになってあげる」
ハジミは誇らしげに笑った。
「嬉しいな、ありがとう」
クジャは、やっと笑った。
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ハジミは、前をゆくクジャの背中をじっと見つめた。いつの間にかその背中は大きくなり、この間、身長も抜かれた 。
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