ミーナは糸を紡ぐ

田原更

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番外編 往復書簡

第12話 炎(2)

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 夜になった。
 コンラートは領主夫妻の部屋で、呆然としていた。何も考えられなかった。
 かちり、と音を立てて扉が開いた。ゾフィーアが部屋に入ってきた。ゾフィーアは、厳粛な面持ちをしていた。
「何をしているのです」
 ゾフィーアは厳しく言い放った。コンラートは、ゾフィーアがそんなに冷たい口調で話すのを始めて聞いた。それは、城の女主人としての声であり、また、彼が愛した母親の声にも似ていた。
「家令も、家臣たちも、使用人たちも、あなたが乱心したと言って、たいそうあわてておりました。城の主人であるあなたが、城内の風紀を乱すとは、何事です」
 コンラートは何も答えなかった。
「皆には、あなたが城内のため、領地のため、根をつめて働くうちに、高熱を出され、そのためにお心を乱したのだと説明しました。少し静養したら、ご気分も戻るだろうとも伝えました」
「そうか…すまなかった」
 コンラートは、城内の混乱を上手に収めたゾフィーアに感謝した。ゾフィーアは喜ぶどころか、眉根を吊り上げ、吐き捨てるようにこう言った。
「あなたはなんて人なの…」
 それはウィルヘルミーナの言葉と全く同じだった。
「なぜ、あんなひどいことを!お義父さまが生涯をかけてお作りになったものを、まるで暖炉に薪をくべるように燃やしてしまうなんて!」
 コンラートは眉間にしわを寄せた。
「あなたが、お義父さまを恨んでいらしたことはわかっています。ですが、妾を一人お作りになったくらいで、何をそんなに憎むことがあるのですか。貴族ならば、外に安らぎを求めるなど、当たり前のことではありませんか」
 ゾフィーアはぴしゃりと言い放った。コンラートは、自分の心の一番柔らかいところに、ゾフィーアが土足で上がり込んできたように感じた。
「お前に何がわかる!」
 コンラートは激昂した。
「たった五年、俺と暮らしただけで、わかったような口を利くな!」
 ゾフィーアは少しも動揺した様子を見せなかった。彼女はあきれたように、ふう、とため息をついた。
「あなたこそ、わたしのことなど、何一つご存じないくせに。わたしの父は外にたくさんの女をつくりました。母は城内に男がいました。愛など微塵もない家で育ちました。だからこそ、わたしは、あなたのように、幼い我が子を平気で利用するような、冷たい人との暮らしに耐えられるのです」
 コンラートは驚いた。たおやかなゾフィーアは、穏やかな家庭で何不自由なく暮らしていたと、思い込んでいたのだ。コンラートにはゾフィーアが今までとは全く違う女性に見えてきた。
「ですが…わたしもあなたのことを、何一つわかっていなかったのだと、改めて知りました。あなたのことを冷たい人だと思っていましたが、それは違う。あなたの心の中では、いつでも炎が燃えている。それは野心…嫉妬…そして、愛」
 ゾフィーアはコンラートの目を真っ直ぐに見つめた。
「わたしは嫉妬しています。お義母さまにも、お義父さまにも、そしてあなたにも。わたしはあなたたちがかわすような、そんな強い愛を抱いたことは一度もありません。たとえあなたが他にいくら女を作ろうとも、嫉妬心など抱かないと思っていましたが、あなたたち親子の絆には嫉妬します」
「ゾフィーア…」
 コンラートはゾフィーアの孤独を思い知った。愛を知らぬ、冷たい人間とは、自分ではなく、ゾフィーアだった。
「お義父さまは病床で、いつもあなたのことばかり話していました。コンラートは、一見冷たく見えるが、いい子だと。私の天使だと。お義父さまは病床でいつも練習していらっしゃいました」
「何を…?」
 コンラートはゾフィーアを見つめた。ゾフィーアは少しだけ口元を緩めた。
「飾り文字の練習です。具合がよくなったら、幼いころにあなたに語った、魔法の引き出しがついた脇机に、飾り文字でこう刻むのだとおっしゃっていました」
「何と…?」
 ゾフィーアは少し寂しそうに微笑んだ。
「私の天使へ、思い出の品を捧ぐ、と。それが終わったら、あなたに渡すのだと、いつもにこにこと笑いながらおっしゃった…。あなたがうらやましいですわ」
 ゾフィーアはそう言うと、今日は子どもたちと休む、と言って部屋を出て行った。
 コンラートは父が最期に残した言葉を思い出していた。
 幼い自分を抱きしめた父の温もりを思い出していた。
 優しくも厳しかった父の顔を思い出していた。
「父上…」
 コンラートは一人きりの部屋で、数年ぶりに泣いた。その涙は、恨みも、憎しみも、すべてを洗い流していった。

 翌朝、コンラートはいつもより早く執務室に向かった。彼は毎朝そこで、書類に目を通しながら軽い朝食を摂っていた。家令からは休んでいるよう言われたが、心配いらぬ、と言って、仕事に取りかかった。
 書類を数枚片付けた頃、戸を叩く音がした。
「誰だ?入れ」
 扉が静かに開くと、中にゾフィーアが入ってきた。
「ゾフィーアか。こんな朝早くにどうした?」
 ゾフィーアはいつものようなたおやかな目をしていた。
「あなたに、これを見ていただきたくて…」
 ゾフィーアは手提げ鞄から何かを取り出して、執務机に置いた。そこに置かれたのは、小さな鍵だった。
「これは…?」
 コンラートは驚いてゾフィーアを見つめた。
「この鍵は、どこの鍵かご存じでしょうか?昨日、焼け残りの中から見つけたのです」
 コンラートは、レオポルトの鏡台の引き出しに、便箋とともに入っていた、レオポルトが彫刻をほどこした木箱を思い出した。木箱には鍵がついていた。コンラートは、何故か、そこの鍵だと確信していた。
「ああ、預かろう」
 コンラートは鍵を受け取った。そして妻の薄青色の目を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「ゾフィーア」
「あなた、いかがなさいました?」
 ゾフィーアはいつもと少し違うコンラートの様子に、少し驚いた様子を見せた。コンラートはゆっくりした口調で話を続けた。
「ルートヴィヒの奉公先のことだが。イメディング領の、ひいてはリタラント国のさらなる発展のため、デゼルタ国の貴族に預けようと思うのだ。
 もともと、イメディング領はデゼルタ国と親しく取引していた。先の戦争で、その絆は途絶えたが。しかし、これからは戦の世ではない。商業と工業の時代がくる。私は織物ギルドの総裁として、デゼルタ国特産の黒羊の毛を買い取り、優れた織物を織って、他国に輸出しようと思っている。そのためには黒羊の毛の輸入を独占したい。そこで、ルートヴィヒにはデゼルタ国との架け橋になってもらおうと思う。デゼルタ国は貧しいが、気骨がある。デゼルタ国の貴族には、大国に負けんとする誇りがある。戦った私には、それがわかる。ルートヴィヒにはデゼルタの貴族から、真の誇りを学んでほしいのだ」
 ゾフィーアは黙って聞いていた。
「お前はどう思う?」
 ゾフィーアはしばらく目を伏せたあと、コンラートを真っ直ぐに見つめてこう言った。
「あなたのおっしゃることに間違いはないと思います。あと…」
「何だ?」
 コンラートは少しわくわくした気持ちになって、次の言葉を待った。
「商業と工業の時代の幕開けを告げるにふさわしい、新しい織物をお探しになってはいかがですか。もしかしたら…今までに目もくれなかったものの中に、新しい価値が眠っているかもしれません」
 コンラートはゾフィーアの着眼点に感銘を受けた。
「ゾフィーア。お前の賢明な考え方には、いつも助けられる」
「わたしはあなたの妻です。あなたを支えることが、わたしの誇りです」
 ゾフィーアは微笑んだ。コンラートは、さすが、私の妻は良い妻だ、惚れ惚れする、と思った。もちろん、そんなことは口にも顔にも出さなかったが。

 コンラートはレオポルトとゲルトルートの遺品を保管した部屋に自らおもむき、木箱を回収した。
 夜更けの執務室で、コンラートは温めた蜂蜜入りワインを飲んでいた。芳醇な香りとふくよかな甘みを楽しんだあと、コンラートは鍵穴にそっと鍵を差し込んだ。
(やはり、な)
 鍵は確かに開いた。コンラートは蓋をそっと開けた。箱に張っていたのは、美しい封筒に入った手紙だった。
(父上はどの家具に鍵をしまったのだ?読め、ということか?読むな、ということか?いずれにしても…)
「いたずら坊主の俺が、読まずにいられるとは、父上も思わないだろうな」
 コンラートは皮肉っぽい笑みを浮かべて、封筒から手紙を取り出した。そこには、『親愛なるゲルダへ』と書かれていた。
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