ミーナは糸を紡ぐ

田原更

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番外編 往復書簡

第9話 嫉妬(2)

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 怒り、嘆き、憎しみ、絶望。コンラートは圧倒された。
 コンラートが母の思いの片鱗を知ったのは、十五のとき、城に帰って間もなくだった。
 コンラートの帰還祝いの宴のとき、レオポルトは宴を抜け出した。コンラートはすぐに気がついて、父親を探しに行った。使用人たちはひどくあわてて止めようとしたが、コンラートは構わずに宴席を離れた。コンラートはレオポルトの行き先を予想していた。コンラートは家具職人の小屋に向かった。そして、その小屋の扉を、父親に気づかれないように、そっと開けた…。
「まあ、お父さま!金の鞠なんて素敵なものを、おみやげにくださるなんて!」
 女の子の声が聞こえた。
(誰だ?親方の娘?それにしては、ずいぶん遅くに生まれた子だな)
 コンラートは扉を可能な限り開けて、中をのぞき込んだ。中にはレオポルトがいた。他にも人が見えた。亜麻色の長い髪の毛を持つ、若く美しい娘だった。
「レオポルトさま、こんな高価なものをいただいてしまって…。ミーナ、お礼を言いなさい」
 コンラートの身体は硬直した。賢いコンラートはすぐに察した。
(ここにいるのは、父上の女だ。そして…その娘だ)
「お父さま、どうもありがとうございます!」
 コンラートは、ぴょんと跳びはねて、レオポルトに飛びついた女の子を見た。赤毛の女の子だった。
(赤毛…あいつは、蛮族の子だ)
 コンラートは歯をぐっと噛みしめた。
「おお、かわいいミーナ。私の天使。どうかそれを大切にしておくれ」
(私の天使…父上、それは俺のことだろう!俺だけのはずだろう!二人だけの秘密じゃなかったのか!)
 怒りと絶望に震えるコンラートの耳に、追い打ちをかけるような父レオポルトの言葉が入ってきた。
「私の天使クラーラ。もう知っていると思うが、息子が…コンラートが帰ってきた。これからは今までよりもここに来られなくなる。コンラートはゲルトルートそっくりで気位の高い子だから、あまり近寄らないように。昔から、酷いいたずら坊主だったから、お前達に何をするかわからない。くれぐれも、気をつけておくれよ」
 そのあとのことを、コンラートは覚えていない。気がついたら、めちゃめちゃに散らかった自室の中にいた。
「コンラートさま、コンラートさま、お部屋を開けてください!」
 部屋付きのメイドが懸命に戸を叩いていたが、コンラートは無視した。様々な人物の声をひたすら無視し続けたあとで、ゲルトルートがやってきた。
「コンラート。何をしているのです。戸を開けなさい」
 ゲルトルートの声は冷たかった。コンラートは大人しく戸を開けた。彼は母に聞きたいことがあった。ゲルトルートは厳粛な面持ちでコンラートの部屋に入った。
「なんです、この部屋は。これが誇り高き貴族の部屋ですか」
 ゲルトルートは厳しく言い放った。コンラートは母をにらみつけた。
「母上。ここはイメディング城。誇り高き貴族の家です。だのになぜ、あのような蛮族の子が住んでいるのですか!」
 ゲルトルートは少しも動揺した様子を見せなかった。
「蛮族の子?コンラート、口を慎みなさい。あの子どもは…ウィルヘルミーナはレオポルトが認知した娘です。コンラート、あなたの異母妹にあたるのですよ」
「では、あの若い娘は、父上の女…」
「口を慎みなさいと申したでしょう。クラーラはレオポルトが認知した妾です。どちらもイメディング城で保護しているのです」
 ゲルトルートはぴしゃりと言い放った。そして話を続けた。
「コンラート、貴族ならば妾の一人二人いて当然です。誇り高く生きる者は、ときに孤独なのです。その孤独を癒やすための存在が必要なのです」
「父上には母上がいらっしゃるではありませんか!誰よりも、何よりも父上に尽くした、母上が!母上では、父上の孤独が癒やせないと?」
 口にしてから、コンラートは後悔した。これではただの八つ当たりだ。自分の惨めさを、母上のせいにしようとしただけだ。母上は何も悪くないのに。
「コンラート。誤解してはなりません。わたしが尽くしているのは、このイメディング家です。わたしは、このイメディング家のために生きているからこそ、あの妾と、その娘を保護しているのです。貴族の家に、子ども一人では少なすぎます。この先、他の貴族の家との繋がりを持ち、この家をさらに栄えさせるために、他にも子どもが必要なのです。あの子どもは、いつかイメディング家の役に立つでしょう。いつか領主となるあなたの、支えとなるでしょう」
 十五のコンラートも、そして、現在のコンラートも、妾の子が支えになるなどという、ゲルトルートの言葉はとんでもない、と思った。
「支え?なんという綺麗事をおっしゃるのですか!妾の子など、いつか邪魔になると決まっています!今に見ていてください、母上。あの女も、その娘も、私が追い出してみせましょう!」
 次の瞬間、コンラートは頬に熱いものを感じた。ゲルトルートは、コンラートの頬を平手で打ったのだ。
「母上!」
 コンラートはゲルトルートをにらみ据えた。彼は、生まれて初めて母親に平手で打たれた。生まれて初めて、母親が憎いと思った。ゲルトルートは厳しい表情でコンラートを見据えていた。しばらくの間、沈黙が流れた。
「お前は、誇り高き貴族の子息です」
 ゲルトルートは冬空のような、厳しい、冷徹な瞳で息子を見つめた。
「弱い娘に手を出すなど、あるまじき行為です。口を慎みなさい!そのようなことを、わたしの前で、わたしの前で…」
 ゲルトルートは、言葉に詰まり、ひざから崩れ落ち、顔を覆って泣き出した。
「ああ、コンラート。わたしは、わたしは、もう、誇り高き貴族ではありません!わたしの誇りなど、五年前にとうに砕け散りました。わたしは今ではただの女です。嫉妬に狂う、ただの惨めな女です。
 わたしは、貴族の夫婦に愛など必要ないと思っていました。むしろ、そのような感情は、家を支えるという立場上、邪魔だとさえ思っていました。わたしは誇りを持って、貴族の夫人としての務めを果たしていると思っていました!
 ですが、わたしは知ってしまったのです。真実の愛というものを!自らの身体をなげうってでも、誇りを捨ててでも、誰かを守りたいという気持ちを!そんな感情を、男女の間で抱くことがあるということを!あの女をかばったレオポルトを一目見て、わかったのです。そして、あの女はレオポルトを愛していないことも…。それを見てから、わたしのすべてが壊れました。わたしの誇りも、わたしの情けも、何もかも、それには敵わないと知り、すべてを失ったのです…」
 崩れ落ちたゲルトルートは、コンラートの足にしがみつき、涙ながらに話し続けた。
「ですが、あなたを見て思い出しました。わたしの誇りは、あなただと。あなたの存在だけが、わたしの支えだと!だから、コンラート…」
 ゲルトルートは涙と鼻水で濡れた顔でコンラートを見つめた。
「あなただけは、誇りを持って生きてほしいのです。あなたは誇り高き貴族の子息です。弱い娘に手を出してはなりません。その手を嫉妬ごときで汚してはなりません!あなたは、わたしの…わたしの天使なのですから」
 ゲルトルートは涙をこらえようとしていた。コンラートはめちゃめちゃに散らかった部屋から、柔らかな毛織物を探し出し、母親の顔を拭いてやった。
「わかりました。母上。私はこれから、あなたの分まで、誇り高き貴族として生きていきます」
 コンラートは母の身体を抱きしめた。
「ああ、かわいいコンラート。わたしの天使。こんな母を、どうか許してちょうだい…」
 ゲルトルートはコンラートをきつく抱きしめた。
 コンラートがゲルトルートの涙を見たのは、これが最後だった。ゲルトルートが貴族の誇りを失ったようなそぶりを見せたのも、これが最初で最後だった。

(私が見たのは、五年間耐えた母上だ…。そのときの思いと、この手紙を書いたときの思いは、やはり異なるのだな)
 殺してしまいたいほどの憎しみを、悲しみを抑えるまでに、どれほどの時間が必要だったのだろうか。そんなことを思いながら、コンラートはオーデラの返事を読んだ。オーデラの返事は、模範的な貴族の生き方を示す言葉であふれていた。あの日、ゲルトルートが語った綺麗事は、すべて、オーデラの手紙から引用したのだ。
 この手紙が、かえってゲルトルートを傷つけたのでは、とコンラートは思った。もし、ハンナの話を聞く前にこの手紙を読んだら、コンラートはオーデラに強い反感を抱いただろう。
(それにしても…乱れている)
 コンラートは、オーデラの文字が、模範的な文章にそぐわないほど乱れていることが気になった。
(この文字の乱れ具合が、お祖母様の本心ではないのか…?)
 オーデラも、公平で、清廉潔白なだけの女性ではないと、コンラートは疑ってかかっていた。コンラートは手紙にもう一度目を通した。

『親愛なるゲルダへ
 あなたの怒り、悲しみ、絶望に、一人の母として胸を痛めています。ですが、一人の貴族の夫人として、あえてあなたに厳しいことを言います。ゲルダ、貴族ならば妾の一人二人いて当然です。誇り高く生きる者は、ときに孤独なのです。その孤独を癒やすための存在が必要なのです。
 あなたの役目は、レオポルトさまと心をかよわすことではなく、イメディング家のために働くことです。イメディング家のために、その女性と、生まれた娘を保護しなさい。貴族の家に、子ども一人では少なすぎます。この先、他の貴族の家との繋がりを持ち、この家をさらに栄えさせるために、他にも子どもが必要なのです。生まれた娘は、いつかイメディング家の役に立つでしょう。いつか領主となるコンラートの、支えとなるでしょう。
 それに、その女性は、言葉にできないようなひどい目にあったのではないかしら?ですが、レオポルトさまが生まれた娘をわが子と言った以上、あなたは従うしかありません。それが、貴族の夫人としての生き方です。十五年も子どもができなかったあなたを、ずっと側に置いてくれたレオポルトさまの優しさに、あなたはこたえなければならないのです。
 情に振り回されてはなりません。目を覚ましなさい。
 光紀一四六一年一月 オーデラより』
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