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番外編 往復書簡
第8話 嫉妬(1)
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コンラートはわずかな隙間を縫うようにして手紙を読み進めた。手紙に綴られているのは、ゲルトルートがコンラートに対して抱く、切ない情ばかりだった。それは一人の母の輪郭だった。対照的に、オーデラは毅然としていた。まるで女王のようだった。コンラートはオーデラにますます興味を持った。
ある日、コンラートは中庭の離れで静かに暮らしている、ハンナのもとを尋ねることにした。たまたま陳情者が途切れ、時間が空いたのだ。
(あまり長居はできない。単刀直入に聞こう)
ハンナが寂しがるのは目に見えてわかるが、コンラートには山ほど仕事があった。ハンナとともに時間を過ごせば、懐かしい気持ちになり、仕事の疲れも癒やされるだろうと思ったが、彼はそれより仕事を片付ける事を優先した。
コンラートも人間だから、疲れを癒やしたい、慰めがほしいと思う事もあった。しかし彼はその慰めを人間には求めなかった。人間に求めれば、その関係はいびつになる。いびつな関係は、周囲もまたゆがませる。それによって生じる不利益を被りたいとは思わなかったのだ。彼にとっては妻ゾフィーアや息子たちの存在も癒やしにはならなかった。彼の唯一の慰めは、年老いた猟犬だった。この猟犬は、十五歳の頃世話していた猟犬の子にあたった。
コンラートは先に犬小屋に行き、猟犬の番をしている男に命じて小屋を開けさせ、猟犬一匹一匹の様子を確かめた。最後に、もう何の役にも立たなくなった、老いた猟犬のもとに行き、その背中をなでてやった。コンラートはこの犬のことを、イメディング領で一番役に立つ犬だと思っていた。なにしろ、領主の心の支えとなっているのだから。
犬小屋から出たコンラートは、優雅な手つきで犬の毛を払い落とし、そのままハンナのもとへ向かった。
「まあまあ、坊ちゃま。こんなところに、わざわざお越しいただいて…」
ハンナはコンラートのことを、坊ちゃまと呼んだ。ゲルトルートが聞いたら、領主に無礼だと怒りそうなものだが、ハンナだけは別だった。ハンナはゲルトルートのはとこにあたるのだ。ハンナはゲルトルートより十歳年上だった。今では七十を越え、少し記憶がまだらになっているが、まだ元気だった。城内では、ゲルトルートの親族として保護されていた。
「ばあや。元気そうで何より。ああ、そんなに気を遣わなくてもいい。少し話がしたいだけだ」
あわてて掃除を始めたハンナの背中に、コンラートは優しく声をかけ、椅子に座るよう促した。ハンナは椅子に腰掛けた。コンラートも座った。
「坊ちゃま、お話しとは何でございましょう?」
ハンナはにこにこと嬉しそうだった。
「私のお祖母様、オーデラ様について聞きたいのだ。生前、母上から伺ったのだが、どうやら大層ご苦労をなさったそうで。そのご苦労を偲ぼうと思うのだ」
コンラートは優しく微笑みながら、少し嘘をついた。ハンナははじめに驚いた顔をしたが、すぐに懐かしそうに語り出した。
「ええ、ええ。オーデラ様はたいそうご苦労をされたお方です。ですが、そのご苦労をご苦労とも思わないような、とてもご立派なお方でした」
コンラートは、ほお、と相槌をうった。
「オーデラさまは旦那さまとの間に、十五年以上もお子さまがいらっしゃいませんでした。旦那さまは、そのう、あのう、結婚してすぐに…外にお子さまをお作りになって、しかもそれが男の子で、その母親は貧しい娼婦でした。他にも幾人か、お妾と、そのお子さまがいらっしゃったのです」
コンラートは先程とは違う口調で、ほお、と相槌をうった。
「ゲルトルートさまがやっとお生まれになって、夫婦の仲もよろしくなったころ、あの大戦がはじまって…旦那さまは、まだ領主にはなっておりませんでしたから、戦に向かわれました。そして、亡くなられました。大旦那さまと大奥さまも、その心痛から亡くなられて…オーデラさまは、五歳のゲルトルートさまを抱えたまま、ひとりぼっちになってしまわれました」
コンラートは黙り込んでしまった。さすがの彼も、言葉が出なかった。
「オーデラさまは旦那さまの最初のお子さまを、ご自身の養子となさいました。その男の子に、ユーリヒ家の跡を継がせたのです。ええ、ええ、今では、そのお方の息子がユーリヒ家のご当主ですよ。娼婦だった母親は苦労から病を得ていましたが、亡くなるまで城内で保護したのも、オーデラさまでした。他のお妾も、そのお子さまたちも、丁重に扱って…お妾たちは死ぬまで何不自由なく暮らし、お子さまたちは修道士や修道女となって、今では多くの見習いたちを教える立場になったお方もいらっしゃるとか」
コンラートは感嘆のため息をついた。
「そうだったのか…なんと立派なお方だろうか」
それは、コンラートの掛け値なしの気持ちだった。
「いえ、オーデラさまの素晴らしいところは、これからです。オーデラさまはゲルトルートさまも、お妾のお子たちと同じ修道院にお預けになったのですよ。オーデラさまは、養子に迎えたお子さまも、実のお子さまも、お妾のお子さまたちも、ユーリヒ家の子どもとして、等しく扱われたのです。もしかしたら、ゲルトルートさまのことも、そのまま修道女になさるおつもりだったのかもしれません」
それにはコンラートも目を丸くした。
「ですが、ゲルトルートさまはあのご気性でございました。オーデラさまは十歳まで待たれてから、ゲルトルートさまを修道院にお預けになりましたが、かえってそれがよくなかったのでしょうか。他の娘たちと協調して働く事を、誇り高きゲルトルートさまはよく思われませんでした。ゲルトルートさまは修道女には向いていらっしゃらないと見なされて、二年でユーリヒ家に戻っていらっしゃいました」
「ははは、それは傑作だ」
コンラートは思わず笑い出した。あの母上が、修道女になるなんて、とんだ笑い話だ。ひょっとしたら、母上のあの誇り高さは、養子や妾の子たちと同じように扱われた事の反発心から生じたのではないか?俺が皮肉屋になったのが、王城でくだらない奴らに使われたせいだったように。
「お祖母様も、子育てには苦労なさったのだろうな」
コンラートは皮肉を言った。しかし、ハンナは首を振った。
「坊ちゃま。誰よりもオーデラさまを尊敬し、誰よりもオーデラさまを愛したのは、他ならぬゲルトルートさまです。だからこそ、あんなに…」
突然、ハンナは顔を覆って泣き出した。
「ばあや、どうした?しっかりしろ」
コンラートはハンナを一言励ますと、鈴を鳴らして若いメイドを呼び、ハンナの面倒を見るよう言いつけて、部屋をあとにした。もう執務室に戻らなければならなかったのだ。
(お祖母様がどのような反応をなさるか、見当がついたな。これで、あのことが書かれた手紙を読むのも、少し楽になるだろう)
中庭を歩きながら考え事をしていたコンラートは、予防線を張った自分に、少し情けなさを感じた。
「私にも、父上に似たところがあったか」
コンラートは子どものように、足下の小石を蹴ってみせた。小石はどこかに転がっていった。
その夜、コンラートは久々に遅くまで起きることにした。ゾフィーアには、どうしても仕事が片付かなかった、心配せずに休んでいてくれ、と声をかけ、優しく口づけをして、寝室に向かう彼女を見送った。
十月ももう終わろうとしていた。あと少しで、冬がやってくる。この秋は平穏だった。だから月のほとんどを城内で過ごすことができた。こんなことは、領主になってからはじめてだった。
執務室には薪がぱちぱちとはぜる音だけが響いていた。コンラートは温めたワインに口を付けた。ワインからは、大変貴重な香辛料の、奥深い香りが漂っていた。十月の初めは、ただ温めただけのワインを飲んでいたが、こう寒くなると、身体を温める効能がある香辛料に頼りたくなった。
ひとときワインを楽しんだあと、コンラートは手紙を読みはじめた。
『親愛なるお母さまへ
お母さま。これから私がここに綴る言葉は、神さまの前では決して口にできないような言葉です。誇り高き貴族が、決して口にしてはいけない言葉です。それでも言葉にしなければ、わたしは壊れてしまいそうです。どうかお許しください。
レオポルトが城内に娘を連れ込みました。まだ十五の小娘です。記憶を失ったので、クラーラという名前しかわからないと申しておりました。レオポルトは、哀れな娘を引き取ることを、どうか許してほしいと、地に頭をこすりつけんばかりの勢いでわたしに頼みました。
そんなレオポルトを見て、わたしは悟ってしまいました。レオポルトはその娘を心底愛しているのだと。その娘は美しい娘でした。その顔を見た男はすべて、この娘を愛してしまうような、そんな顔をしていました。
わたしはまたしても悟りました。この娘は娼婦だと。男をたぶらかし、だめにしてしまう、産まれながらの娼婦だと。娘はわたしを見てがたがたと震えていました。レオポルトは、どうか許してくれ、悪いのは私だ、気が済むまで私を鞭打って構わないから、クラーラには手を出さないでくれ、と言いました。娘はただおびえているだけでした。この娘は、レオポルトを愛してなどいないのです。わたしにはわかります。娘は記憶を失ったふりをして、レオポルトの情けを利用している、恐ろしい魔女です。
わたしは誇り高き貴族の夫人です。娼婦にくれてやる鞭などありません。わたしはこのイメディング家のために、わたしの愛のために鞭を振るうのです。これっぽっちも愛していない夫のために振るう鞭などありません。わたしは城内に娘を置いておくことを許しました。
ですが、わたしは後悔しております。そのときに、二人に激しく鞭を打って、娘を追い出してしまえばよかったと。でなければわたしの誇りは、こんなにもばらばらに砕けることはなかった!
この秋、娘は出産しました。レオポルトは自分の娘だと言い張ります。しかし、そんなことはあり得ません。産まれたのは、あの蛮族どもと同じ、赤毛の女児でした。確信しました。あの女は娼婦です。金のために蛮族どもにまで身体を許した、性根の腐った魔女です!レオポルトは魔女の子を、イメディング家の子どもとして育てるつもりです。かわいいコンラートの異母妹として、育てるつもりです!
二十五年。わたしの二十五年はなんだったのでしょう。二十五年間のわたしの献身はなんだったのでしょう!わたしは何もかも、壊してしまいたい!あの女を、生まれた娘ともども殺してしまいたい!レオポルトのことを、あの裏切り者のことを、殺してしまいたい!あの男は、コンラートのことも裏切ったのです。レオポルトは、生まれた娘を、あろうことか「私の天使」と呼ぶのです。わたしは知っています。レオポルトが、わたしがいないところでは、コンラートのことを「私の天使」と呼んでいたのを。レオポルトは、わたしに隠してまで築いてきたコンラートとの絆を、魔女の娘と育もうとしているのです!そんなひどい裏切りが、この世にあるなんて!
お母さま。わたしの人生も、誇りも、何もかもが音を立てて崩れました。わたしの世界からは光がなくなりました。光は希望です。神さまのいらっしゃる場所です。クラーラという名の魔女は、わたしを光の世界から、暗く悲しい陰の世界へと追いやりました。
この先、どう生きればいいのかわかりません。お母さま、わたしはもう死んでしまいたいです。
光紀一四六十年十二月 あなたのゲルダより』
ある日、コンラートは中庭の離れで静かに暮らしている、ハンナのもとを尋ねることにした。たまたま陳情者が途切れ、時間が空いたのだ。
(あまり長居はできない。単刀直入に聞こう)
ハンナが寂しがるのは目に見えてわかるが、コンラートには山ほど仕事があった。ハンナとともに時間を過ごせば、懐かしい気持ちになり、仕事の疲れも癒やされるだろうと思ったが、彼はそれより仕事を片付ける事を優先した。
コンラートも人間だから、疲れを癒やしたい、慰めがほしいと思う事もあった。しかし彼はその慰めを人間には求めなかった。人間に求めれば、その関係はいびつになる。いびつな関係は、周囲もまたゆがませる。それによって生じる不利益を被りたいとは思わなかったのだ。彼にとっては妻ゾフィーアや息子たちの存在も癒やしにはならなかった。彼の唯一の慰めは、年老いた猟犬だった。この猟犬は、十五歳の頃世話していた猟犬の子にあたった。
コンラートは先に犬小屋に行き、猟犬の番をしている男に命じて小屋を開けさせ、猟犬一匹一匹の様子を確かめた。最後に、もう何の役にも立たなくなった、老いた猟犬のもとに行き、その背中をなでてやった。コンラートはこの犬のことを、イメディング領で一番役に立つ犬だと思っていた。なにしろ、領主の心の支えとなっているのだから。
犬小屋から出たコンラートは、優雅な手つきで犬の毛を払い落とし、そのままハンナのもとへ向かった。
「まあまあ、坊ちゃま。こんなところに、わざわざお越しいただいて…」
ハンナはコンラートのことを、坊ちゃまと呼んだ。ゲルトルートが聞いたら、領主に無礼だと怒りそうなものだが、ハンナだけは別だった。ハンナはゲルトルートのはとこにあたるのだ。ハンナはゲルトルートより十歳年上だった。今では七十を越え、少し記憶がまだらになっているが、まだ元気だった。城内では、ゲルトルートの親族として保護されていた。
「ばあや。元気そうで何より。ああ、そんなに気を遣わなくてもいい。少し話がしたいだけだ」
あわてて掃除を始めたハンナの背中に、コンラートは優しく声をかけ、椅子に座るよう促した。ハンナは椅子に腰掛けた。コンラートも座った。
「坊ちゃま、お話しとは何でございましょう?」
ハンナはにこにこと嬉しそうだった。
「私のお祖母様、オーデラ様について聞きたいのだ。生前、母上から伺ったのだが、どうやら大層ご苦労をなさったそうで。そのご苦労を偲ぼうと思うのだ」
コンラートは優しく微笑みながら、少し嘘をついた。ハンナははじめに驚いた顔をしたが、すぐに懐かしそうに語り出した。
「ええ、ええ。オーデラ様はたいそうご苦労をされたお方です。ですが、そのご苦労をご苦労とも思わないような、とてもご立派なお方でした」
コンラートは、ほお、と相槌をうった。
「オーデラさまは旦那さまとの間に、十五年以上もお子さまがいらっしゃいませんでした。旦那さまは、そのう、あのう、結婚してすぐに…外にお子さまをお作りになって、しかもそれが男の子で、その母親は貧しい娼婦でした。他にも幾人か、お妾と、そのお子さまがいらっしゃったのです」
コンラートは先程とは違う口調で、ほお、と相槌をうった。
「ゲルトルートさまがやっとお生まれになって、夫婦の仲もよろしくなったころ、あの大戦がはじまって…旦那さまは、まだ領主にはなっておりませんでしたから、戦に向かわれました。そして、亡くなられました。大旦那さまと大奥さまも、その心痛から亡くなられて…オーデラさまは、五歳のゲルトルートさまを抱えたまま、ひとりぼっちになってしまわれました」
コンラートは黙り込んでしまった。さすがの彼も、言葉が出なかった。
「オーデラさまは旦那さまの最初のお子さまを、ご自身の養子となさいました。その男の子に、ユーリヒ家の跡を継がせたのです。ええ、ええ、今では、そのお方の息子がユーリヒ家のご当主ですよ。娼婦だった母親は苦労から病を得ていましたが、亡くなるまで城内で保護したのも、オーデラさまでした。他のお妾も、そのお子さまたちも、丁重に扱って…お妾たちは死ぬまで何不自由なく暮らし、お子さまたちは修道士や修道女となって、今では多くの見習いたちを教える立場になったお方もいらっしゃるとか」
コンラートは感嘆のため息をついた。
「そうだったのか…なんと立派なお方だろうか」
それは、コンラートの掛け値なしの気持ちだった。
「いえ、オーデラさまの素晴らしいところは、これからです。オーデラさまはゲルトルートさまも、お妾のお子たちと同じ修道院にお預けになったのですよ。オーデラさまは、養子に迎えたお子さまも、実のお子さまも、お妾のお子さまたちも、ユーリヒ家の子どもとして、等しく扱われたのです。もしかしたら、ゲルトルートさまのことも、そのまま修道女になさるおつもりだったのかもしれません」
それにはコンラートも目を丸くした。
「ですが、ゲルトルートさまはあのご気性でございました。オーデラさまは十歳まで待たれてから、ゲルトルートさまを修道院にお預けになりましたが、かえってそれがよくなかったのでしょうか。他の娘たちと協調して働く事を、誇り高きゲルトルートさまはよく思われませんでした。ゲルトルートさまは修道女には向いていらっしゃらないと見なされて、二年でユーリヒ家に戻っていらっしゃいました」
「ははは、それは傑作だ」
コンラートは思わず笑い出した。あの母上が、修道女になるなんて、とんだ笑い話だ。ひょっとしたら、母上のあの誇り高さは、養子や妾の子たちと同じように扱われた事の反発心から生じたのではないか?俺が皮肉屋になったのが、王城でくだらない奴らに使われたせいだったように。
「お祖母様も、子育てには苦労なさったのだろうな」
コンラートは皮肉を言った。しかし、ハンナは首を振った。
「坊ちゃま。誰よりもオーデラさまを尊敬し、誰よりもオーデラさまを愛したのは、他ならぬゲルトルートさまです。だからこそ、あんなに…」
突然、ハンナは顔を覆って泣き出した。
「ばあや、どうした?しっかりしろ」
コンラートはハンナを一言励ますと、鈴を鳴らして若いメイドを呼び、ハンナの面倒を見るよう言いつけて、部屋をあとにした。もう執務室に戻らなければならなかったのだ。
(お祖母様がどのような反応をなさるか、見当がついたな。これで、あのことが書かれた手紙を読むのも、少し楽になるだろう)
中庭を歩きながら考え事をしていたコンラートは、予防線を張った自分に、少し情けなさを感じた。
「私にも、父上に似たところがあったか」
コンラートは子どものように、足下の小石を蹴ってみせた。小石はどこかに転がっていった。
その夜、コンラートは久々に遅くまで起きることにした。ゾフィーアには、どうしても仕事が片付かなかった、心配せずに休んでいてくれ、と声をかけ、優しく口づけをして、寝室に向かう彼女を見送った。
十月ももう終わろうとしていた。あと少しで、冬がやってくる。この秋は平穏だった。だから月のほとんどを城内で過ごすことができた。こんなことは、領主になってからはじめてだった。
執務室には薪がぱちぱちとはぜる音だけが響いていた。コンラートは温めたワインに口を付けた。ワインからは、大変貴重な香辛料の、奥深い香りが漂っていた。十月の初めは、ただ温めただけのワインを飲んでいたが、こう寒くなると、身体を温める効能がある香辛料に頼りたくなった。
ひとときワインを楽しんだあと、コンラートは手紙を読みはじめた。
『親愛なるお母さまへ
お母さま。これから私がここに綴る言葉は、神さまの前では決して口にできないような言葉です。誇り高き貴族が、決して口にしてはいけない言葉です。それでも言葉にしなければ、わたしは壊れてしまいそうです。どうかお許しください。
レオポルトが城内に娘を連れ込みました。まだ十五の小娘です。記憶を失ったので、クラーラという名前しかわからないと申しておりました。レオポルトは、哀れな娘を引き取ることを、どうか許してほしいと、地に頭をこすりつけんばかりの勢いでわたしに頼みました。
そんなレオポルトを見て、わたしは悟ってしまいました。レオポルトはその娘を心底愛しているのだと。その娘は美しい娘でした。その顔を見た男はすべて、この娘を愛してしまうような、そんな顔をしていました。
わたしはまたしても悟りました。この娘は娼婦だと。男をたぶらかし、だめにしてしまう、産まれながらの娼婦だと。娘はわたしを見てがたがたと震えていました。レオポルトは、どうか許してくれ、悪いのは私だ、気が済むまで私を鞭打って構わないから、クラーラには手を出さないでくれ、と言いました。娘はただおびえているだけでした。この娘は、レオポルトを愛してなどいないのです。わたしにはわかります。娘は記憶を失ったふりをして、レオポルトの情けを利用している、恐ろしい魔女です。
わたしは誇り高き貴族の夫人です。娼婦にくれてやる鞭などありません。わたしはこのイメディング家のために、わたしの愛のために鞭を振るうのです。これっぽっちも愛していない夫のために振るう鞭などありません。わたしは城内に娘を置いておくことを許しました。
ですが、わたしは後悔しております。そのときに、二人に激しく鞭を打って、娘を追い出してしまえばよかったと。でなければわたしの誇りは、こんなにもばらばらに砕けることはなかった!
この秋、娘は出産しました。レオポルトは自分の娘だと言い張ります。しかし、そんなことはあり得ません。産まれたのは、あの蛮族どもと同じ、赤毛の女児でした。確信しました。あの女は娼婦です。金のために蛮族どもにまで身体を許した、性根の腐った魔女です!レオポルトは魔女の子を、イメディング家の子どもとして育てるつもりです。かわいいコンラートの異母妹として、育てるつもりです!
二十五年。わたしの二十五年はなんだったのでしょう。二十五年間のわたしの献身はなんだったのでしょう!わたしは何もかも、壊してしまいたい!あの女を、生まれた娘ともども殺してしまいたい!レオポルトのことを、あの裏切り者のことを、殺してしまいたい!あの男は、コンラートのことも裏切ったのです。レオポルトは、生まれた娘を、あろうことか「私の天使」と呼ぶのです。わたしは知っています。レオポルトが、わたしがいないところでは、コンラートのことを「私の天使」と呼んでいたのを。レオポルトは、わたしに隠してまで築いてきたコンラートとの絆を、魔女の娘と育もうとしているのです!そんなひどい裏切りが、この世にあるなんて!
お母さま。わたしの人生も、誇りも、何もかもが音を立てて崩れました。わたしの世界からは光がなくなりました。光は希望です。神さまのいらっしゃる場所です。クラーラという名の魔女は、わたしを光の世界から、暗く悲しい陰の世界へと追いやりました。
この先、どう生きればいいのかわかりません。お母さま、わたしはもう死んでしまいたいです。
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