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番外編 往復書簡
第7話 誇りと弱み(3)
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コンラートは父が母を批判することに居心地の悪さを感じた。そこで、話題を変えることにした。
「お父さんは、その引き出しに何を入れるの?」
「私の秘密をしまっておこうと考えているんだ」
レオポルトは笑っていた。
「秘密って、何?」
コンラートは無邪気に訪ねた。
「人にはね、誰にも知られたくないことがあるんだよ」
レオポルトは諭すように言ったが、コンラートはそんなことを大人しく聞くような子ではなかった。
「どうして?どうして教えてくれないの?お母さんもそうだ。大事な箱の中に、何か隠している。メイドたちが『あの箱の中には奥さまの秘密が入っている』って、うわさしていたよ。隠し事をするな、本当のことを言いなさい、そのほうが楽になれるって、前に、お父さんもお母さんも言ったよね?」
「参ったな…」
レオポルトは頭をかいた。少し前に、コンラートが、斧を使ってみたいと思い立ち、庭の若い木を一本切り倒したことがあった。ゲルトルートは烈火のごとく怒った。大広間に全ての使用人を集め、名乗り出なければ全員を鞭で打つとわめいたのだ。
それを目にしたコンラートはおびえた。あんなに恐ろしい顔をしたゲルトルートを見たことがなかったのだ。青白い顔で震えているコンラートを見て、大人たちはすぐに察した。レオポルトは使用人たちの目の前でコンラートに「隠し事をするな、本当のことを言いなさい」と言った。ゲルトルートは珍しくおろおろして「そのほうが楽になれますよ」と言った。しかし、コンラートにも誇りがあった。使用人たちの前で、自らの過ちを認めたくはなかった。「私は存じません」と、貴族の子らしく答えたら、レオポルトはゲルトルートの手から鞭を奪い取って、コンラートの肩を鞭で打ったのだ。
後にも先にも、レオポルトから体罰を受けたことはそれだけだった。
ちなみにその木は、コンラートの誕生を祝って、レオポルトとゲルトルートの手で植えられた記念樹だった。コンラートはそれを知っていた。自分の木だから、切ってもいいと思ったのだ。
「お前の言うとおりだ。この引き出しに、誰にも言えない秘密をしまい込むのはやめる。でも、それだと作る意味がなくなってしまうな…」
「じゃあ、ぼくにちょうだいよ。お母さんや、教育係に見つかったら捨てられそうな宝物をしまっておきたいから」
「あはは。コンラート、お父さんがこの脇机を完成させるまで、最低十年はかかるぞ。そのころには、宝物は全く違う物になるだろうな。だけど、脇机はお前にやろう。そのときは『私の天使へ』って刻銘しておくよ」
「やったあ」
コンラートは飛び跳ねて喜んだ。
「ゲルトルートの箱には、何が入っているのだろうか…」
レオポルトはこれも、コンラートに聞かせるつもりはなかったのだろう。しかし、耳のいいコンラートは聞き取った。
「今度、確かめてみようと思うんだ。中身がわかったら教えてあげるよ」
コンラートは無邪気に笑った。箱を落としてみれば、きっと開くだろうと思っているのだ。先日、いたずらして叱られたことが、まるでこたえていないようだった。もっとも、本人はいたずらした、というつもりなどないのだが。
「いや、私には教えてくれなくていい。ゲルトルートは私には言いたくないのだろう。コンラート、ゲルトルートのかたくなな、閉ざされた心を開いてやってくれないか。きっと、お前になら、真実を打ち明けるだろうから。ずっと、誰にも言えない秘密を抱えるなど、しんどいだろうからな…」
「おしゃべり好きなお父さんには、とてもしんどいだろうね」
コンラートは笑って、そこら中を駆け回った。レオポルトは、まて、この、いたずら天使!と言いながら、コンラートのことをいつまでも追いかけ回していた。
朝焼けのなか、コンラートは目を覚ました。
(幼い日のことを夢に見たのか…)
コンラートは、普段は父親との甘く切ない時間を思い出すことはなかった。思い出せば不愉快になると思っていた。しかし、このときは違っていた。
(母上は、私にだけは真実を打ち明ける、か)
コンラートは窓の外を見つめた。空は燃えるように赤かった。
(母上は、何故私に燃やせと頼んだ?この私が素直に聞くとお思いだったのか?燃やしてほしいなら、ハンナに頼めばいいのでは?あんなに信用しておいでだったのだから)
コンラートは朝焼けにほのかに照らされた自分の両手を見た。平気で記念樹を切り、平気で箱を壊そうとした、いたずら好きの悪魔の手だ。ゲルトルートはこの手のせいで、何度も痛い目にあってきたはずだ。
(母上は、あの手紙に綴られた、本当のご自身のことを、私に知ってほしかったのか)
コンラートは寝間着の首元をぐっと握りしめた。
「母上…」
コンラートは隣で眠るゾフィーアにも聞こえないような、小さな声でつぶやいた。
コンラートは手紙を最後まで読むと決めた。ゲルトルートの本当の望みはわからないが、箱の中身を知りたいと思う自身の気持ちに正直になることに決めたのだ。
(今さら、俺が悪魔かどうかなど悩んだところで、仕方のないことだ)
コンラートはこの性格のまま二十五年以上生きてきた。今さら清廉潔白な人物になど、なれるわけがないし、なるつもりもなかった。
手紙は、コンラートの成長への喜びがぎっしりと綴られていた。そしてそれを我が事のように喜ぶオーデラの言葉であふれていた。コンラートはそれを読むたびに、自分がどれほど母に愛されていたか、そして父にも愛されていたか、ひしひしと実感する事になった。
しかし、喜びであふれた手紙は、たった四通で終わった。
『親愛なるお母さまへ
コンラートは今年五歳になりました。ついこのあいだ産まれたばかりのような気がします。月日の流れは早いものですね。
レオポルトがどうしても、と言うので、コンラートを王城に行儀見習いに出しました。
まだ、たった五歳の男の子を、わたしの天使のことを、こんなに早く手放すとは思ってもいませんでした。
レオポルトは普段あんなにコンラートを甘やかすのに、どうしてこんなひどいことができるのでしょう。
ですが、このような考えは、貴族の夫人としてはあるまじきものです。わたしは自分の弱さを抑え込むように、毎日唇をかみしめて暮らしております。
お母さま、わたしの誇りはばらばらに砕けてしまいそうです。どうかわたしを叱ってください。
光紀一四五五年十二月 あなたのゲルダより』
『わたしの天使、ゲルダへ
ゲルダ、あなたの悲しみがひしひしと伝わってきます。ですが、わたしも、あなたの悲しみを本当に理解することはできないかもしれません。だって、わたしは、たった五歳のこどもを手放したことなどないのですから。
十歳のあなたを修道院に預けたとき、わたしは悲しいとは思いませんでした。それは、あなたを信じていたからです。きっと、あなたは、修道院でさまざまなことを学んで、立派な淑女となって帰ってくると思ったからです。
きっと、レオポルトさまは、コンラートに大きな期待を抱いているのでしょう。もしかしたら、あなたより、コンラートのことをよく理解しているのかもしれませんよ。
コンラートはとても賢い子です。王城でさまざまなことを学んで、立派になって帰ってきます。あなたもコンラートを信じて、待ちなさい。それが、貴族の夫人としての務めです。
あなたなら、きっとこの悲しみに耐えることができるでしょう。わたしはいつでもあなたを信じています。
光紀一四五六年一月 オーデラより』
(お祖母様は、相変わらず厳しいお方だ)
コンラートは苦笑した。どこか皮肉を浮かべて、自身の戸惑いを抑えたかったのだ。手紙にあふれる、母のむき出しの悲しみと、義務感との狭間で揺れる苦しみは、コンラートの良心を射貫いた。
(ゾフィーアも、私に対して同じ気持ちを抱くのだろうな。どうしてこんなひどいことを、と)
しかし、それでもコンラートは、ゾフィーアの情にほだされるつもりはなかった。たとえ、冷血漢、悪魔、と罵られようとも、彼はイメディング領のさらなる発展のために、幼い息子を奉公に出したり、養子に出したりする事をためらうことはないだろう。
(何故、人は、情に流される人物の事を『優しい』と言って、情に流されない人物の事を『冷たい』と言うのだ?)
それはコンラートが常々抱える疑問だった。
(人は、たった一人のために、道を見誤る。とんでもなく残酷な事をする。イェルクは赤髭一人に復讐するために、村々に火をつけたようなものだ。あの時のイェルクは未来の事など考えていなかっただろう。俺はイメディング領とビルング領の未来を、ひいてはリタラント国の未来を考えていた。それが何千何万もの民の幸福に繋がるのだ。数千数百の不幸とは比べるまでもないだろう)
「お兄さまたちは、人の気持ちをないがしろにしすぎです!」
コンラートの脳裏に、自分をなじる義妹ウィルヘルミーナの顔が浮かんだ。
「うるさい」
コンラートは吐き捨てるようにつぶやき、考えを巡らせた。
(そう言えば、あの時もそうだ。イェルクに、あの女は蛮族どもに襲われ、ウィルヘルミーナはそのときにできた子だろうと伝えたときのイェルクの顔は…)
恐ろしかった。こんな恐ろしい顔は見た事がないと言うほど、恐ろしかった。コンラートはこの男を策略にはめた事を、一瞬後悔した。いつかこの表情を浮かべて、自分に復讐してきたらどうしようかと、おびえたのだ。
(戦後に打ち明けてよかったな。もし、戦時中に打ち明けていたら、イェルクは蛮族どもを本気で殲滅しようと思っただろう。優秀な騎士たちを連れて、蛮族どもを地の果てまで追いかけ、死ぬまで戦っただろう。それで何人の兵が死ぬ?兵だけならまだいい。イェルク自身が、あの赤髭と同じ事をしないという保証が、どこにある?)
コンラートは、自分はそんな事をしないという自負があった。単純な理由だった。そんな事をしたら、得るものより、失うもののほうが多いからだ。
(俺は、女一人のために全てを滅ぼすような、馬鹿な真似はしない。父や妻や息子や友を殺した人物に復讐するより、それと手を組んだほうが今後の利益に繋がるなら、喜んで手を組む。だが、人は、そんな俺の事を冷血漢、悪魔と呼ぶのだろうな)
「ならば、俺は、悪魔でいい。喜んで、悪魔と呼ばれようじゃないか」
コンラートはからからと笑った。
のちに、コンラート・イメディングは、もし、それが母だった場合は別だろうと記している。母の存在は自分の誇りであり、弱みでもあると、率直な、人間らしい感情を書き残しているのだ。
「お父さんは、その引き出しに何を入れるの?」
「私の秘密をしまっておこうと考えているんだ」
レオポルトは笑っていた。
「秘密って、何?」
コンラートは無邪気に訪ねた。
「人にはね、誰にも知られたくないことがあるんだよ」
レオポルトは諭すように言ったが、コンラートはそんなことを大人しく聞くような子ではなかった。
「どうして?どうして教えてくれないの?お母さんもそうだ。大事な箱の中に、何か隠している。メイドたちが『あの箱の中には奥さまの秘密が入っている』って、うわさしていたよ。隠し事をするな、本当のことを言いなさい、そのほうが楽になれるって、前に、お父さんもお母さんも言ったよね?」
「参ったな…」
レオポルトは頭をかいた。少し前に、コンラートが、斧を使ってみたいと思い立ち、庭の若い木を一本切り倒したことがあった。ゲルトルートは烈火のごとく怒った。大広間に全ての使用人を集め、名乗り出なければ全員を鞭で打つとわめいたのだ。
それを目にしたコンラートはおびえた。あんなに恐ろしい顔をしたゲルトルートを見たことがなかったのだ。青白い顔で震えているコンラートを見て、大人たちはすぐに察した。レオポルトは使用人たちの目の前でコンラートに「隠し事をするな、本当のことを言いなさい」と言った。ゲルトルートは珍しくおろおろして「そのほうが楽になれますよ」と言った。しかし、コンラートにも誇りがあった。使用人たちの前で、自らの過ちを認めたくはなかった。「私は存じません」と、貴族の子らしく答えたら、レオポルトはゲルトルートの手から鞭を奪い取って、コンラートの肩を鞭で打ったのだ。
後にも先にも、レオポルトから体罰を受けたことはそれだけだった。
ちなみにその木は、コンラートの誕生を祝って、レオポルトとゲルトルートの手で植えられた記念樹だった。コンラートはそれを知っていた。自分の木だから、切ってもいいと思ったのだ。
「お前の言うとおりだ。この引き出しに、誰にも言えない秘密をしまい込むのはやめる。でも、それだと作る意味がなくなってしまうな…」
「じゃあ、ぼくにちょうだいよ。お母さんや、教育係に見つかったら捨てられそうな宝物をしまっておきたいから」
「あはは。コンラート、お父さんがこの脇机を完成させるまで、最低十年はかかるぞ。そのころには、宝物は全く違う物になるだろうな。だけど、脇机はお前にやろう。そのときは『私の天使へ』って刻銘しておくよ」
「やったあ」
コンラートは飛び跳ねて喜んだ。
「ゲルトルートの箱には、何が入っているのだろうか…」
レオポルトはこれも、コンラートに聞かせるつもりはなかったのだろう。しかし、耳のいいコンラートは聞き取った。
「今度、確かめてみようと思うんだ。中身がわかったら教えてあげるよ」
コンラートは無邪気に笑った。箱を落としてみれば、きっと開くだろうと思っているのだ。先日、いたずらして叱られたことが、まるでこたえていないようだった。もっとも、本人はいたずらした、というつもりなどないのだが。
「いや、私には教えてくれなくていい。ゲルトルートは私には言いたくないのだろう。コンラート、ゲルトルートのかたくなな、閉ざされた心を開いてやってくれないか。きっと、お前になら、真実を打ち明けるだろうから。ずっと、誰にも言えない秘密を抱えるなど、しんどいだろうからな…」
「おしゃべり好きなお父さんには、とてもしんどいだろうね」
コンラートは笑って、そこら中を駆け回った。レオポルトは、まて、この、いたずら天使!と言いながら、コンラートのことをいつまでも追いかけ回していた。
朝焼けのなか、コンラートは目を覚ました。
(幼い日のことを夢に見たのか…)
コンラートは、普段は父親との甘く切ない時間を思い出すことはなかった。思い出せば不愉快になると思っていた。しかし、このときは違っていた。
(母上は、私にだけは真実を打ち明ける、か)
コンラートは窓の外を見つめた。空は燃えるように赤かった。
(母上は、何故私に燃やせと頼んだ?この私が素直に聞くとお思いだったのか?燃やしてほしいなら、ハンナに頼めばいいのでは?あんなに信用しておいでだったのだから)
コンラートは朝焼けにほのかに照らされた自分の両手を見た。平気で記念樹を切り、平気で箱を壊そうとした、いたずら好きの悪魔の手だ。ゲルトルートはこの手のせいで、何度も痛い目にあってきたはずだ。
(母上は、あの手紙に綴られた、本当のご自身のことを、私に知ってほしかったのか)
コンラートは寝間着の首元をぐっと握りしめた。
「母上…」
コンラートは隣で眠るゾフィーアにも聞こえないような、小さな声でつぶやいた。
コンラートは手紙を最後まで読むと決めた。ゲルトルートの本当の望みはわからないが、箱の中身を知りたいと思う自身の気持ちに正直になることに決めたのだ。
(今さら、俺が悪魔かどうかなど悩んだところで、仕方のないことだ)
コンラートはこの性格のまま二十五年以上生きてきた。今さら清廉潔白な人物になど、なれるわけがないし、なるつもりもなかった。
手紙は、コンラートの成長への喜びがぎっしりと綴られていた。そしてそれを我が事のように喜ぶオーデラの言葉であふれていた。コンラートはそれを読むたびに、自分がどれほど母に愛されていたか、そして父にも愛されていたか、ひしひしと実感する事になった。
しかし、喜びであふれた手紙は、たった四通で終わった。
『親愛なるお母さまへ
コンラートは今年五歳になりました。ついこのあいだ産まれたばかりのような気がします。月日の流れは早いものですね。
レオポルトがどうしても、と言うので、コンラートを王城に行儀見習いに出しました。
まだ、たった五歳の男の子を、わたしの天使のことを、こんなに早く手放すとは思ってもいませんでした。
レオポルトは普段あんなにコンラートを甘やかすのに、どうしてこんなひどいことができるのでしょう。
ですが、このような考えは、貴族の夫人としてはあるまじきものです。わたしは自分の弱さを抑え込むように、毎日唇をかみしめて暮らしております。
お母さま、わたしの誇りはばらばらに砕けてしまいそうです。どうかわたしを叱ってください。
光紀一四五五年十二月 あなたのゲルダより』
『わたしの天使、ゲルダへ
ゲルダ、あなたの悲しみがひしひしと伝わってきます。ですが、わたしも、あなたの悲しみを本当に理解することはできないかもしれません。だって、わたしは、たった五歳のこどもを手放したことなどないのですから。
十歳のあなたを修道院に預けたとき、わたしは悲しいとは思いませんでした。それは、あなたを信じていたからです。きっと、あなたは、修道院でさまざまなことを学んで、立派な淑女となって帰ってくると思ったからです。
きっと、レオポルトさまは、コンラートに大きな期待を抱いているのでしょう。もしかしたら、あなたより、コンラートのことをよく理解しているのかもしれませんよ。
コンラートはとても賢い子です。王城でさまざまなことを学んで、立派になって帰ってきます。あなたもコンラートを信じて、待ちなさい。それが、貴族の夫人としての務めです。
あなたなら、きっとこの悲しみに耐えることができるでしょう。わたしはいつでもあなたを信じています。
光紀一四五六年一月 オーデラより』
(お祖母様は、相変わらず厳しいお方だ)
コンラートは苦笑した。どこか皮肉を浮かべて、自身の戸惑いを抑えたかったのだ。手紙にあふれる、母のむき出しの悲しみと、義務感との狭間で揺れる苦しみは、コンラートの良心を射貫いた。
(ゾフィーアも、私に対して同じ気持ちを抱くのだろうな。どうしてこんなひどいことを、と)
しかし、それでもコンラートは、ゾフィーアの情にほだされるつもりはなかった。たとえ、冷血漢、悪魔、と罵られようとも、彼はイメディング領のさらなる発展のために、幼い息子を奉公に出したり、養子に出したりする事をためらうことはないだろう。
(何故、人は、情に流される人物の事を『優しい』と言って、情に流されない人物の事を『冷たい』と言うのだ?)
それはコンラートが常々抱える疑問だった。
(人は、たった一人のために、道を見誤る。とんでもなく残酷な事をする。イェルクは赤髭一人に復讐するために、村々に火をつけたようなものだ。あの時のイェルクは未来の事など考えていなかっただろう。俺はイメディング領とビルング領の未来を、ひいてはリタラント国の未来を考えていた。それが何千何万もの民の幸福に繋がるのだ。数千数百の不幸とは比べるまでもないだろう)
「お兄さまたちは、人の気持ちをないがしろにしすぎです!」
コンラートの脳裏に、自分をなじる義妹ウィルヘルミーナの顔が浮かんだ。
「うるさい」
コンラートは吐き捨てるようにつぶやき、考えを巡らせた。
(そう言えば、あの時もそうだ。イェルクに、あの女は蛮族どもに襲われ、ウィルヘルミーナはそのときにできた子だろうと伝えたときのイェルクの顔は…)
恐ろしかった。こんな恐ろしい顔は見た事がないと言うほど、恐ろしかった。コンラートはこの男を策略にはめた事を、一瞬後悔した。いつかこの表情を浮かべて、自分に復讐してきたらどうしようかと、おびえたのだ。
(戦後に打ち明けてよかったな。もし、戦時中に打ち明けていたら、イェルクは蛮族どもを本気で殲滅しようと思っただろう。優秀な騎士たちを連れて、蛮族どもを地の果てまで追いかけ、死ぬまで戦っただろう。それで何人の兵が死ぬ?兵だけならまだいい。イェルク自身が、あの赤髭と同じ事をしないという保証が、どこにある?)
コンラートは、自分はそんな事をしないという自負があった。単純な理由だった。そんな事をしたら、得るものより、失うもののほうが多いからだ。
(俺は、女一人のために全てを滅ぼすような、馬鹿な真似はしない。父や妻や息子や友を殺した人物に復讐するより、それと手を組んだほうが今後の利益に繋がるなら、喜んで手を組む。だが、人は、そんな俺の事を冷血漢、悪魔と呼ぶのだろうな)
「ならば、俺は、悪魔でいい。喜んで、悪魔と呼ばれようじゃないか」
コンラートはからからと笑った。
のちに、コンラート・イメディングは、もし、それが母だった場合は別だろうと記している。母の存在は自分の誇りであり、弱みでもあると、率直な、人間らしい感情を書き残しているのだ。
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