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番外編 往復書簡
第6話 誇りと弱み(2)
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あの日以来、コンラートは夜更けまで執務室にこもるのをやめた。ゾフィーアは安心したのか、それ以上追求してくることはなかった。
コンラートは、集中して考えたいことがあると周囲に言いつけて、日中に一人の時間を作った。そして、城内の古い記録とにらめっこしながら、横目でちらちらと手紙を読むことにした。
城内の古い記録は、手紙を読んでいるのをごまかすためだけに用意したわけではない。コンラートは、一つ気になることがあったのだ。
『中部に住むわたしたちとは違い、北部の人々は、昔はデゼルタの人々と仲よくしていたそうです』
オーデラがしたためた手紙の一文だ。コンラートは、ずっと、デゼルタは憎き敵国だと思い込んでいた。それは、デゼルタ国を憎んでいたゲルトルートの影響が大きかった。だから、デゼルタの民との交流記録などを調べようとも思わなかった。
(注目するのが、遅すぎたかもしれんな)
コンラートは二百年程前の記録を読んでいた。そこには、デゼルタのとある貴族の領地と、盛んに交易をしていた記録が残されていた。書面には、いくつかの交易品の名前が並んでいた。
「ほお、黒羊の毛か…」
コンラートは思わず独りごちた。イメディング領は織物工業が盛んな地域だった。とりわけ、羊毛の織物は上質で、東のブラーヴァ国の織物市でも高く売れた。遙か東の国で生産される絹織物と交換できるほどの値打ちもあった。
イメディング領には黒羊はほとんど生息していなかった。それでも特に困ったことはなかった。黒い織物など、修道士くらいしか使わなかったからだ。黒い色は罪の色でもあった。イェルクが黒い服を好んで着ているのを、コンラートは知っていた。あいつが心の内で抱えている罪の意識が、黒をまとわせているのだろう、と、コンラートは思っていたが、さすがのコンラートも口には出さなかった。
しかし、最近では黒い衣装が流行るようになってきた。黒い色は寛大さや飾らない心を示すというのだ。それも、あいつに似合っているな、と、コンラートは思っていた。とにかく、色の流行りとはわからないものだ。今まで誰も注目しなかったような色を、一年後には女優や貴婦人が好んで身につけているのかもしれないのだ。
「例えば、安価な藍染の色を、まるで青玉のような色と表現するとか…」
コンラートはため息をつき、馬鹿馬鹿しいか、と笑った。
一連の調べ物で、コンラートはあることを思いついた。そこで、信頼できる人物に、先程調べたデゼルタ貴族の領地のことと、その貴族の家のことをよく調べさせることにした。
手紙は、というと、単なる一年間の記録のような、素っ気ない内容に変わっていた。領地のこと、作物の取れ高のこと、そして、激しくなった戦況のこと…。オーデラからの返事は、判を押したようなものばかりだった。
(お祖母様からお伝えしたいことは、特にないのだろうか…)
コンラートは、オーデラの妙な素っ気なさが気になっていた。
そんなやりとりは、ある手紙からがらりと変わった。
『親愛なるお母さまへ
お母さま、待望のわが子が産まれました。男の子です。レオポルトがコンラートと名付けました。イメディング家初代当主にあやかってつけた名前です。初代当主はたいそう立派なお方だったそうです。この子もきっと、立派な当主になるでしょう。
子どもが、こんなにかわいいとは思いませんでした。まるで、神さまから授かった贈り物のようです。お母さまが、わたしのことを『天使』とおっしゃるのを、昔は恥ずかしがっていましたが、今ならわかります。わが子はまさに天使です。ですが、人前でそう呼ぶと、今までわたしが築き上げてきた威厳を壊しそうなので、心の中でそう呼んでいます。
レオポルトもコンラートをとてもかわいがっています。先日はみずからコンラートのおしめを替えようとして、周囲を驚かせていました。その振る舞いは当主として適切とは言えないでしょうが、あの人が喜んでいるのを見ると、わたしも嬉しくなります。
私は今、とても幸せです。
光紀一四五十年十二月 あなたのゲルダより』
『わたしの天使、ゲルダへ
ゲルダ、おめでとう。こんなにも喜びにあふれた知らせを受け取って、わたしはとても幸せです。
コンラートという名前には、レオポルトという名前と同じように、『勇敢』という意味が込められているそうです。レオポルトさまはそれも考えて名前をつけたのではないかしら?
きっと、あなたに似て賢く、レオポルトさまに似て優しい男の子に育つでしょう。これからはコンラートが、あなたたち夫婦の結びつきを強くしてくれるでしょう。
レオポルトさまは優しい父として、あなたは厳しい母として、コンラートを育てるのでしょうね。子育ては親自身をも育てるものです。コンラートはあなたに優しさを、レオポルトさまに厳しさを授けることでしょう。それはまさに、神さまからの贈り物なのです。
今まで以上に、身体を大事にするのですよ。
光紀一四五一年一月 オーデラより』
(今まで生きてきて、こんなにも温かな気持ちになったことが、果たしてあっただろうか…)
コンラートは手紙からあふれる温かさにひたっていた。しかし、ひたりきることはできなかった。
(俺は、息子たちが産まれたときに、こんなに喜んだか?父上のように、惜しみない愛を注いだか?)
その疑問は、彼が人間として決定的に欠けている部分を、まざまざと見せつけてきた。
愛。
彼は妻を大切にしているが、愛してはいない。父親のことは憎んでいる。友人のことは利用した。息子たちのことも利用しようとしている。その他の人間のことは、便利だと思うか、くだらないと思うか、眼中にないかのいずれかだ。
(母上…)
コンラートが唯一愛しているのは、母ゲルトルートだけかもしれない。だが、彼は、母の秘め事を、まるで娯楽のように消費している。
(俺は…)
冷酷な男だ。誰もが皆そう思うだろう。
コンラートは、自身の冷酷さは、貴族として人の上に立つために身につけた、後天的なものだと思っていた。必要だから会得したものだと思っていた。
(だが、俺は、五歳の子どものころから、自分の好奇心のために、他人が大事にしているものを平気で壊して、平然と笑っていた…。母上は、こう思われたのではないか?)
「悪魔だ…」
コンラートは両手で顔を覆った。そして手紙を、執務机の鍵付きの引き出しにしまい込んだ。
その晩、コンラートは夢を見た。
五歳のコンラートは、領主夫妻の部屋からこそこそと出ていった父レオポルトの背中を追いかけていった。
レオポルトは、外庭の隅にある、城内の家具を作る職人が暮らす小屋へと入っていった。コンラートはその小屋の扉を、父に見つからないように少しだけ開けて、中をのぞき込んだ。中にいるのは、レオポルト一人だった。職人は不在なのだろう。
レオポルトの側には、高級そうな黒檀の板を組み合わせてできた、小さな机があった。寝台の側に置く、脇机だろう。まわりには、もっと安そうな木材で、大小の引き出しのようなものが並んでいた。コンラートは中をもっとよく見てみたいと思った。そのときだった。
「コンラート、そこにいるんだろう?」
「あれ、見つかっちゃった?」
コンラートは無邪気に笑って、扉を大きく開き、作業中の父親に飛びついた。
「こらこら、この、いたずら坊主。危ないだろう?」
レオポルトは、まわりの危険なものをしまい込むと、今度は自分から息子を抱きしめた。
「私の天使、ついにこの秘密に気づいてしまったんだね。そうだよ、私は家具職人に弟子入りしたのだよ。どうしても作りたいものがあって」
レオポルトの表情はとても生き生きとしていた。いつもは、なんとなく決まり悪そうな笑みを浮かべていることが多いのに。
「何を作りたいの?お部屋で木箱に花の模様を彫っているのは、よく見かけるけど」
手先が器用なレオポルトの趣味は彫刻だった。それを、ゲルトルートが、おがくずが飛び散るからやめてください、と、冷たい口調で文句を言うのを、コンラートはよく聞いていた。
「そうだな。一つ話を聞かせてやろう」
レオポルトは腹を震わせて、朗々とした声で語り出した。
『昔々、人々が魔法を使えたころ、一人の金持ちがおりました。金持ちは大層高価な宝石を十個持っていました。その一つ一つに、お城が建つほどの値打ちがありました。金持ちは、その宝石を金庫に入れることはしませんでした。金庫番が盗みを働くことを恐れたからです。金持ちは、家から一歩も出ずに、常に宝石を抱えて暮らしていましたが、眠っているときだけは手放したいと思いました。
そこで、金持ちは、寝台の側に置くための、粗末な脇机を作りました。誰もが目もくれないような、何の変哲もない脇机です。金持ちは大小十個の引き出しも作りました。金持ちはその脇机と引き出しに魔法をかけ、十個の引き出しを一つの脇机に収めました。外からは、引き出しがあるようには見えませんでした…』
「そんなこと、本当にできるの?」
コンラートは口を挟んだ。
「それを可能にするのが、魔法なんだろうね。今でも魔法が使えたら、世の中はどんなに豊かだろう。人々は満足して暮らして、戦なんかする必要もないかもしれない。人は、より豊かに生きるために戦をするんだよ。だけど、いつの頃からか、戦をするために生きているような人が増えてしまった。悲しいことだね」
レオポルトはため息をついた。
「私は、この話の脇机を作ろうと思っているんだよ。魔法なしでね。だから、家具職人に弟子入りして、机の作り方を学ぼうとした。そうしたら…
『いくらレオポルト様でも、弟子入りするって言うなら他の奴と同じだ。まず十年、十年は、家具を作ることはならねえ。まずは鉋の使い方を覚えるところからだ』
と、親方に言われてしまったよ。ここにある黒檀の机は、私ではなく、親方が作ったものだよ」
コンラートは黒檀の机を改めて見てみた。確かに、素人が作ったにしては美しすぎた。
「だから、ゲルトルートには黙っていてくれ。怒られてしまうからな」
レオポルトは目配せしてみせた。
「わかった。お母さんには言わないよ。お父さんが怒られるの、嫌だから」
幼いコンラートは、幼いなりに、父母の仲の悪さを感じ取っていた。コンラートには不思議だった。お父さんもお母さんも優しいのに、どうして仲よくできないのだろう、と。
「私のことはいいんだ。親方が怒られては、気の毒だから」
レオポルトはため息をついた。そしてこう続けた。
「ゲルトルートは親方を鞭で打つかもしれない。貴族に対して、無礼だと言ってね。ゲルトルートは、無礼者は鞭打つべきだと、信じて疑わない。誇りを傷つけられることは、身体を傷つけられるよりもはるかに痛いのだと、口癖のように言っている。ただ、ゲルトルートは、無礼者にも誇りがあることをわかっていない。鞭を打たれた者は、その誇りもまた、打ち砕かれるのだよ。誇りを打ち砕かれた者が、打ち砕いた者を尊重するなど、あるわけがない。そんなのは見せかけに過ぎない。そこにあるのは、憎しみか、諦めだけだよ。ゲルトルートは、自分がしたことによって、他人の心が離れていくことを、わかっていない」
そこまで言うと、レオポルトは目を伏せて、うつむき、小さな声でつぶやいた。
「いや、ゲルトルートはそれをよくわかっているのかもしれない。あれは、一人でいるのが好きな女だ。たった一人で戦い続ける、孤高の戦士のような女だ」
おそらく、レオポルトはその一言までコンラートに聞かせるつもりはなかったのだろう。しかし、コンラートはそれをしっかりと聞き取っていた。
コンラートは、集中して考えたいことがあると周囲に言いつけて、日中に一人の時間を作った。そして、城内の古い記録とにらめっこしながら、横目でちらちらと手紙を読むことにした。
城内の古い記録は、手紙を読んでいるのをごまかすためだけに用意したわけではない。コンラートは、一つ気になることがあったのだ。
『中部に住むわたしたちとは違い、北部の人々は、昔はデゼルタの人々と仲よくしていたそうです』
オーデラがしたためた手紙の一文だ。コンラートは、ずっと、デゼルタは憎き敵国だと思い込んでいた。それは、デゼルタ国を憎んでいたゲルトルートの影響が大きかった。だから、デゼルタの民との交流記録などを調べようとも思わなかった。
(注目するのが、遅すぎたかもしれんな)
コンラートは二百年程前の記録を読んでいた。そこには、デゼルタのとある貴族の領地と、盛んに交易をしていた記録が残されていた。書面には、いくつかの交易品の名前が並んでいた。
「ほお、黒羊の毛か…」
コンラートは思わず独りごちた。イメディング領は織物工業が盛んな地域だった。とりわけ、羊毛の織物は上質で、東のブラーヴァ国の織物市でも高く売れた。遙か東の国で生産される絹織物と交換できるほどの値打ちもあった。
イメディング領には黒羊はほとんど生息していなかった。それでも特に困ったことはなかった。黒い織物など、修道士くらいしか使わなかったからだ。黒い色は罪の色でもあった。イェルクが黒い服を好んで着ているのを、コンラートは知っていた。あいつが心の内で抱えている罪の意識が、黒をまとわせているのだろう、と、コンラートは思っていたが、さすがのコンラートも口には出さなかった。
しかし、最近では黒い衣装が流行るようになってきた。黒い色は寛大さや飾らない心を示すというのだ。それも、あいつに似合っているな、と、コンラートは思っていた。とにかく、色の流行りとはわからないものだ。今まで誰も注目しなかったような色を、一年後には女優や貴婦人が好んで身につけているのかもしれないのだ。
「例えば、安価な藍染の色を、まるで青玉のような色と表現するとか…」
コンラートはため息をつき、馬鹿馬鹿しいか、と笑った。
一連の調べ物で、コンラートはあることを思いついた。そこで、信頼できる人物に、先程調べたデゼルタ貴族の領地のことと、その貴族の家のことをよく調べさせることにした。
手紙は、というと、単なる一年間の記録のような、素っ気ない内容に変わっていた。領地のこと、作物の取れ高のこと、そして、激しくなった戦況のこと…。オーデラからの返事は、判を押したようなものばかりだった。
(お祖母様からお伝えしたいことは、特にないのだろうか…)
コンラートは、オーデラの妙な素っ気なさが気になっていた。
そんなやりとりは、ある手紙からがらりと変わった。
『親愛なるお母さまへ
お母さま、待望のわが子が産まれました。男の子です。レオポルトがコンラートと名付けました。イメディング家初代当主にあやかってつけた名前です。初代当主はたいそう立派なお方だったそうです。この子もきっと、立派な当主になるでしょう。
子どもが、こんなにかわいいとは思いませんでした。まるで、神さまから授かった贈り物のようです。お母さまが、わたしのことを『天使』とおっしゃるのを、昔は恥ずかしがっていましたが、今ならわかります。わが子はまさに天使です。ですが、人前でそう呼ぶと、今までわたしが築き上げてきた威厳を壊しそうなので、心の中でそう呼んでいます。
レオポルトもコンラートをとてもかわいがっています。先日はみずからコンラートのおしめを替えようとして、周囲を驚かせていました。その振る舞いは当主として適切とは言えないでしょうが、あの人が喜んでいるのを見ると、わたしも嬉しくなります。
私は今、とても幸せです。
光紀一四五十年十二月 あなたのゲルダより』
『わたしの天使、ゲルダへ
ゲルダ、おめでとう。こんなにも喜びにあふれた知らせを受け取って、わたしはとても幸せです。
コンラートという名前には、レオポルトという名前と同じように、『勇敢』という意味が込められているそうです。レオポルトさまはそれも考えて名前をつけたのではないかしら?
きっと、あなたに似て賢く、レオポルトさまに似て優しい男の子に育つでしょう。これからはコンラートが、あなたたち夫婦の結びつきを強くしてくれるでしょう。
レオポルトさまは優しい父として、あなたは厳しい母として、コンラートを育てるのでしょうね。子育ては親自身をも育てるものです。コンラートはあなたに優しさを、レオポルトさまに厳しさを授けることでしょう。それはまさに、神さまからの贈り物なのです。
今まで以上に、身体を大事にするのですよ。
光紀一四五一年一月 オーデラより』
(今まで生きてきて、こんなにも温かな気持ちになったことが、果たしてあっただろうか…)
コンラートは手紙からあふれる温かさにひたっていた。しかし、ひたりきることはできなかった。
(俺は、息子たちが産まれたときに、こんなに喜んだか?父上のように、惜しみない愛を注いだか?)
その疑問は、彼が人間として決定的に欠けている部分を、まざまざと見せつけてきた。
愛。
彼は妻を大切にしているが、愛してはいない。父親のことは憎んでいる。友人のことは利用した。息子たちのことも利用しようとしている。その他の人間のことは、便利だと思うか、くだらないと思うか、眼中にないかのいずれかだ。
(母上…)
コンラートが唯一愛しているのは、母ゲルトルートだけかもしれない。だが、彼は、母の秘め事を、まるで娯楽のように消費している。
(俺は…)
冷酷な男だ。誰もが皆そう思うだろう。
コンラートは、自身の冷酷さは、貴族として人の上に立つために身につけた、後天的なものだと思っていた。必要だから会得したものだと思っていた。
(だが、俺は、五歳の子どものころから、自分の好奇心のために、他人が大事にしているものを平気で壊して、平然と笑っていた…。母上は、こう思われたのではないか?)
「悪魔だ…」
コンラートは両手で顔を覆った。そして手紙を、執務机の鍵付きの引き出しにしまい込んだ。
その晩、コンラートは夢を見た。
五歳のコンラートは、領主夫妻の部屋からこそこそと出ていった父レオポルトの背中を追いかけていった。
レオポルトは、外庭の隅にある、城内の家具を作る職人が暮らす小屋へと入っていった。コンラートはその小屋の扉を、父に見つからないように少しだけ開けて、中をのぞき込んだ。中にいるのは、レオポルト一人だった。職人は不在なのだろう。
レオポルトの側には、高級そうな黒檀の板を組み合わせてできた、小さな机があった。寝台の側に置く、脇机だろう。まわりには、もっと安そうな木材で、大小の引き出しのようなものが並んでいた。コンラートは中をもっとよく見てみたいと思った。そのときだった。
「コンラート、そこにいるんだろう?」
「あれ、見つかっちゃった?」
コンラートは無邪気に笑って、扉を大きく開き、作業中の父親に飛びついた。
「こらこら、この、いたずら坊主。危ないだろう?」
レオポルトは、まわりの危険なものをしまい込むと、今度は自分から息子を抱きしめた。
「私の天使、ついにこの秘密に気づいてしまったんだね。そうだよ、私は家具職人に弟子入りしたのだよ。どうしても作りたいものがあって」
レオポルトの表情はとても生き生きとしていた。いつもは、なんとなく決まり悪そうな笑みを浮かべていることが多いのに。
「何を作りたいの?お部屋で木箱に花の模様を彫っているのは、よく見かけるけど」
手先が器用なレオポルトの趣味は彫刻だった。それを、ゲルトルートが、おがくずが飛び散るからやめてください、と、冷たい口調で文句を言うのを、コンラートはよく聞いていた。
「そうだな。一つ話を聞かせてやろう」
レオポルトは腹を震わせて、朗々とした声で語り出した。
『昔々、人々が魔法を使えたころ、一人の金持ちがおりました。金持ちは大層高価な宝石を十個持っていました。その一つ一つに、お城が建つほどの値打ちがありました。金持ちは、その宝石を金庫に入れることはしませんでした。金庫番が盗みを働くことを恐れたからです。金持ちは、家から一歩も出ずに、常に宝石を抱えて暮らしていましたが、眠っているときだけは手放したいと思いました。
そこで、金持ちは、寝台の側に置くための、粗末な脇机を作りました。誰もが目もくれないような、何の変哲もない脇机です。金持ちは大小十個の引き出しも作りました。金持ちはその脇机と引き出しに魔法をかけ、十個の引き出しを一つの脇机に収めました。外からは、引き出しがあるようには見えませんでした…』
「そんなこと、本当にできるの?」
コンラートは口を挟んだ。
「それを可能にするのが、魔法なんだろうね。今でも魔法が使えたら、世の中はどんなに豊かだろう。人々は満足して暮らして、戦なんかする必要もないかもしれない。人は、より豊かに生きるために戦をするんだよ。だけど、いつの頃からか、戦をするために生きているような人が増えてしまった。悲しいことだね」
レオポルトはため息をついた。
「私は、この話の脇机を作ろうと思っているんだよ。魔法なしでね。だから、家具職人に弟子入りして、机の作り方を学ぼうとした。そうしたら…
『いくらレオポルト様でも、弟子入りするって言うなら他の奴と同じだ。まず十年、十年は、家具を作ることはならねえ。まずは鉋の使い方を覚えるところからだ』
と、親方に言われてしまったよ。ここにある黒檀の机は、私ではなく、親方が作ったものだよ」
コンラートは黒檀の机を改めて見てみた。確かに、素人が作ったにしては美しすぎた。
「だから、ゲルトルートには黙っていてくれ。怒られてしまうからな」
レオポルトは目配せしてみせた。
「わかった。お母さんには言わないよ。お父さんが怒られるの、嫌だから」
幼いコンラートは、幼いなりに、父母の仲の悪さを感じ取っていた。コンラートには不思議だった。お父さんもお母さんも優しいのに、どうして仲よくできないのだろう、と。
「私のことはいいんだ。親方が怒られては、気の毒だから」
レオポルトはため息をついた。そしてこう続けた。
「ゲルトルートは親方を鞭で打つかもしれない。貴族に対して、無礼だと言ってね。ゲルトルートは、無礼者は鞭打つべきだと、信じて疑わない。誇りを傷つけられることは、身体を傷つけられるよりもはるかに痛いのだと、口癖のように言っている。ただ、ゲルトルートは、無礼者にも誇りがあることをわかっていない。鞭を打たれた者は、その誇りもまた、打ち砕かれるのだよ。誇りを打ち砕かれた者が、打ち砕いた者を尊重するなど、あるわけがない。そんなのは見せかけに過ぎない。そこにあるのは、憎しみか、諦めだけだよ。ゲルトルートは、自分がしたことによって、他人の心が離れていくことを、わかっていない」
そこまで言うと、レオポルトは目を伏せて、うつむき、小さな声でつぶやいた。
「いや、ゲルトルートはそれをよくわかっているのかもしれない。あれは、一人でいるのが好きな女だ。たった一人で戦い続ける、孤高の戦士のような女だ」
おそらく、レオポルトはその一言までコンラートに聞かせるつもりはなかったのだろう。しかし、コンラートはそれをしっかりと聞き取っていた。
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