ミーナは糸を紡ぐ

田原更

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番外編 往復書簡

第4話 ゲルトルートの秘密(3)

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 コンラートは、ゾフィーアからさりげなく鍵を受け取り、先に寝室に帰らせると、レオポルトとゲルトルートの遺品を保管した部屋に自らおもむき、思い出の箱を回収した。
 そして、翌日の夜遅く、誰もいない執務室でその箱に鍵を差し込んだ。かちりと音を立てて箱が開いた。中にびっしりと詰まっていたのは、手紙だった。母上が燃やしてくれと言った理由がわかった、と、コンラートは苦笑した。
「母上。約束でしたね。燃やしましょう」
 コンラートは暖炉の前に立った。しかし、彼の生来の好奇心が、その手を止めた。
(この手紙は、誰とかわした手紙なんだ?あの母上に、文通相手でもいたのか?)
 コンラートは手紙の一枚目を取り出した。文頭には、『親愛なるゲルダへ』と書かれていた。
(ゲルダ…?)
 ゲルダとは、ゲルトルートの愛称だ。貴族の夫人である母上が、自分のことをゲルダ、と呼ばせるほど親しい相手とは、いったい誰だろう、父上でさえ、母上のことをゲルダなどと軽々しく呼んだことはない、とコンラートは疑問に思った。
(まさか…)
 コンラートは思わず手紙を読んでしまった。

『親愛なるゲルダへ
 改めて、結婚おめでとう。あなたが幸せそうで何よりです。
 レオポルトさまを選んだことに、間違いがなかったことがわかって、ほっとしております。あの方はとてもお優しい方です。これからも、あなたを大切にしてくださるでしょう』

 コンラートは思わず吹き出した。自分の想像力のやましさにあきれたのだ。
「そうだな。送り主は母親に決まっている。俺は何を考えたのだ?まさか、母上に浮気相手がいたとでも?…馬鹿馬鹿しい」
 そのとき、ふと、コンラートは、自分の祖母の名前を知らないことに気がついた。祖母の名前を知りたくて、コンラートは続きを読んだ。

『それなのに、あなたは、結婚生活に必要なものは何か、愛とは何か、なんていう、難しいことばかり考えているのですか?
 あなたのことだから、きっと、私が何か答えを出さないと納得しないのでしょう。
 結婚生活に必要なものは、忍耐と努力だと、よく言われていますが、わたしは違うと思っています。いえ、忍耐と努力が必要ないとは思っていませんが。
 結婚生活に一番大切なものは、相手を尊重することだと、わたしは思います。ですが、これが一番、あなたにとって難しいことではないかしら?
 あなたはとても頭がいいけれど、少しかたくなで、物事も、他人のことも、すぐに決めつけてしまいますね。そして、どちらが正しくて、どちらが間違っているのか、裁こうとしてしまう。
 あなたはとても誇り高き娘です。ですが、誇り高き者は、他者を尊重せねばなりません。そうしなければ、他者から尊重されることはありません。あなたの誇り高き心を守るためにも、あなたは他者を尊重せねばなりません。
 まずは、レオポルトさまの優しさを尊重しなさい。それが、あなたが本当の愛を得るために必要なことだと思います。
 北部は冬の寒さが厳しいと聞きます。温かくして過ごすのですよ。
 光紀一四三六年一月 オーデラより』

「お祖母様の名前は、オーデラと言うのか…」
 コンラートは手紙をもっと読みたくなった。名前すら知らなかった祖母のことを知りたくなったのだ。
 次の紙は、伏せた状態でしまってあった。それをめくってみて、コンラートは驚いた。
(これは、母上が書いたものだな?なぜ、箱にしまってある?)
 コンラートは疑問に思ったが、その疑問は直ぐに解決した。ゲルトルートは、何でも控えを残したがる性格だったのだ。自分が送った手紙も、控えを残したに違いない。
(若き日の母上は、一体、何を考えておいでだったのだろう…)
 コンラートは母親が書いた手紙に目を通した。

『親愛なるお母さまへ
 お母さま、ゲルダがイメディング家に嫁いで三ヶ月が経ちました。
 レオポルトさまはとてもお優しい方です。優しい方を選んでくださって、ありがとうございます。
 レオポルトさまはとても忙しく働いています。無理もないと思います。昨年、急にご両親を亡くされて、若くして領主となったのですから。
 先日、ひさびさにレオポルトさまとお話ししました。わたしたちの結婚式の前に、レオポルトさまは初陣を迎えられたそうです。そこで、レオポルトさまは危うく命を落とされるところだったそうです。絶体絶命の危機を、となりのビルング領の領主、マルクスさまに救っていただいたそうです。マルクスさまがいたから、わたしたちはいまこうしていられるのだよ、と、レオポルトさまはおっしゃいました。わたしも、マルクスさまに感謝しております。
 けれど、その話を思い出すと、結婚生活とはなんなのだろうと、思ってやまないのです。他のかたの話をするときのレオポルトさまは楽しそうです。ですが、わたしと二人きりでいるときは、そこまで楽しそうになさらないのです。きっと、お城の外にいるときのほうが、楽しいのでしょう。
 お母さま。結婚生活とはなんでしょうか。結婚生活に必要なものはなんでしょうか。そもそもわたしは、愛とはなんだかわかりません。レオポルトさまに抱いている気持ちは、物語に書かれているような気持ちとは、全く違うのです。
 でも、ご心配なさらないでください。わたしは幸せです。
 光紀一四三五年十二月 あなたのゲルダより』

 手紙を読んだあと、コンラートはしばらくの間、何とも表現しがたい思いに駆られていた。ゲルダという名の娘と、彼が知る母ゲルトルートとの間には、大きな隔たりがあった。
(あの、厳しく、賢い母上が、こんな、取るに足らない、子どものようなことを考えておいでだったのか…)
 ただ、その感情は、軽蔑や失望とも異なっていた。コンラートは、生まれて初めて触れた、他者の感情のみずみずしさにひたっていた。
(取るに足らない、子ども、か。今、俺が思ったことを、母上が知ったら…どれだけお怒りになるだろうか)
 コンラートは紙をめくってみた。次の手紙は、ゲルトルートがオーデラにあてたものだった。そこからは、上から下まできっちりと、ゲルトルートが書いた手紙と、オーデラからの返事の順で入っていた。

 悪趣味だとは思った。母上に申し訳ないとも思った。だが、もっと知りたいと思う気持ちは止められなかった。そもそも私は、母上を尊敬していたが、母上のおっしゃることを、ただ素直に聞くような男ではなかったのだ。幼い頃から、ずっと。
 コンラート・イメディングは、のちにそう書き残している。

『親愛なるお母さまへ
 お母さま、ゲルダがイメディング家に嫁いで一年以上たちました。
 レオポルトは相変わらず優しくしてくれます。きっと、わたしは幸せなのでしょう。
 ですが、最近、頭を抱えていることがあります。
 はっきり申し上げると、レオポルトが夢見がちで困っているのです。
 レオポルトはデゼルタ国との和睦を考えているようなのです。
 信じられません。そんな夢物語がありますか。だって、もう何十年も戦っているのですよ。わたしのお父さまは、あの光紀一四二五年の大戦で亡くなられたのですよ。わたしはもう、お父さまのお顔を思い出すことはできませんが、お母さまがたいそう悲しまれたことは覚えております。
 そのうえレオポルトは、自分の意見を広く聞いてもらうために、国中から貴族を招いて、さまざまな会を開いております。そのたびに、お客さまをおもてなしするのはわたしです。
 わたしが人付き合いを苦手としているのを、お母さまはもちろんご存じだと思います。とりわけ、貴族のご夫人方とお話しをすることが、つらくてつらくてたまらないのです。ですが、それをレオポルトに伝えるのはためらわれます。そうしたら、ますます、わたしたちの距離が広がってしまうように思えるからです。
 お母さま、わたしはどう耐えればよいのでしょうか。お教えください。
 光紀一四三六年十二月 あなたのゲルダより』

 その手紙からは、一年目のような初々しさは無くなっていた。そこに書かれていたのは、半分は、コンラートがよく知るゲルトルートで、もう半分は、コンラートの知らないゲルトルートだった。
(母上は、辛い思いをなさっていたのだな…)
 ゲルトルートの息子としてのコンラートは、妻の苦悩をくみ取らなかったレオポルトに憤りを感じていた。しかし、イメディング領主としてのコンラートは、北部中部南部問わず多くの貴族と関わったレオポルトが正しいと思っていた。十五歳の頃とは違い、コンラートは、領主としてのレオポルトを公正に評価できるようになっていた。
 時間がかかりすぎたものの、レオポルトの考えは実を結んだのだ。多くの貴族に、デゼルタ国との戦いがリタラント国の利益にならないと―実際、この戦争で戦前より家を栄えさせたのは、戦を生業としているビルング家くらいしかない―気づかせ、反戦派の貴族団を組んで、国王陛下に談判に行ったのだ。妾が産んだ子を養女に迎えるように談判したのは、ただのついで話だ、とコンラートは考えていた。レオポルトは命をかけて、和睦を訴えた。そのおかげで、戦争は終わったのだ。蛮族どもが最後の抵抗とばかりに暴れなければ、わざわざビルング領の村々に火を放つ必要など、なかったのだ。
「しかし、そうしなければ、イェルクは地の果てまでも赤髭の奴を追いかけていっただろうな」
 コンラートは、情に左右される男は始末が悪いとばかりに苦笑してみせた。

 コンラートはワインに口をつけて、それから先程の手紙の返事を読んだ。
『親愛なるゲルダへ
 お手紙読みました。やはり、わたしはあなたをレオポルトさまのもとへ嫁がせて正解だったと思います。
 デゼルタ国との和睦は、夢物語でしょうか。わたしはそうは思いません。
 中部に住むわたしたちとは違い、北部の人々は、昔はデゼルタの人々と仲よくしていたそうです。それなのに、デゼルタとの戦いで大きな犠牲を払っているのは、北部の人々です。
 そんな悲しいことは、終わらせなければなりません。亡くなったお父さまも、そう願ってらっしゃると思います。
 あなたは、イメディング領主夫人として、レオポルトさまを支えなければなりません。
 たとえあなたにとって理解できないことでも、あなたにはレオポルトさまを支える義務があるのです。そこに理由など、ありません。
 あなたは人付き合いやおしゃべりを嫌っているけれど、それは、あなたが他の人のことを取るに足らない人物だと思っているからではないかしら?他人と関わることを、侮ってはなりませんよ。他人と関わることで、あなたの狭い世界は広がると思います。
 つらいでしょうが、がんばって。わたしはいつでもあなたを見守っています。
 光紀一四三七年一月 オーデラより」

(ほお…)
 コンラートは少し驚いていた。祖母オーデラは、ただ優しいだけでなく、厳しさも持ち合わせていた。しかも、ところどころゲルトルートそっくりな発言をしていた。
(いや、母上がお祖母様の発言を引き継いでいらっしゃるのか。母子は似ると言うが、父と息子はどうなのだろうか…)
 コンラートは目を伏せて考え込んだが、共通点が妻を愛しているわけではないということしか思い浮かばなかった。領主としてのコンラートは、自身の野望や信念のために、ゾフィーアに辛い思いをさせることは厭わないだろう。むしろそれを耐えるのがゾフィーアの義務とさえ思うだろう。長男が五歳になったら手放さなければならない悲しみも、夫がたった二歳の息子を養子に出す画策をしていることへの憤りも、コンラートは無視するつもりでいるのだ。ゾフィーアの夫としてのコンラートも、彼女を慰めはするが、心の底では彼女の悲しみを切り捨てるつもりでいるだろう。
「あなたはなんて人なの…」
 コンラートの脳裏に、義妹の声と、その顔が浮かんだ。コンラートは不快になって、手元のワインをぐっと飲み干した。
(そろそろ、部屋に戻るか)
 コンラートは、ゾフィーアが眠る寝室に戻ることにした。ゾフィーアには、たとえ夫が部屋にいなくとも、定刻どおりに寝るように言いつけていた。その夜もゾフィーアは眠っていた。
 (そういえば、昨晩は何故起きていたのだろうか?あの鍵が余程気になったのか?)
 コンラートは、あの鍵のことも、自分がしていることも、ゾフィーアに、いや、誰にも知られてはならないと思った。コンラートは、ゲルトルートの秘密を知っていいのは、その涙を頬に受けた自分だけだと思っていた。
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