ミーナは糸を紡ぐ

田原更

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番外編 往復書簡

第3話 ゲルトルートの秘密(2)

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「コンラート、この箱には触れてはならないと言ったでしょう」
 光紀一四五五年、季節が秋に変わった頃、まだ五歳のコンラートは、母親が大切にしていた木箱を落とし、角を破損させてしまったのだ。コンラートが箱に触れたのは理由があった。箱の中身がなんだか知りたかったからだ。コンラートは母親や使用人たちの目を盗んで領主夫妻の部屋に忍び込み、箱を持ち上げて固い床にたたきつけたのだ。そうすれば箱が開くと思い込んだのだ。今は、そのいたずらがばれて、叱られたところだ。
「ごめんなさい、お母さん。ぼく、どうしても箱の中身を知りたかったんだ」
 幼いコンラートは叱られているというのに、にこにこと笑っていた。ゲルトルートはため息を一つついた。
「申し訳ありません、母上、わたしは、どうしても箱の中身を知りたかったのです、とおっしゃい」
「だって」
 コンラートはゲルトルートに抱きついて話を続けた。
「こういうふうに話すほうが、楽しいんだ!ずいぶん前に、お父さんに、荘園に連れていってもらったんだ。そこで、お父さんが、農民たちとこんなふうに話していたんだよ!お父さんは、とっても楽しそうだった!だからぼくも、農民たちの話し方を教えてもらったんだ。でも、農民たちが言ってたよ。これでもお上品なほうだって!うちのガキどもは、お坊ちゃんみたいに、天使のような口の利き方はしないって!」
 天使。それは、コンラートの父レオポルトが、コンラートを呼ぶときの口癖でもあった。女の子のように愛らしいコンラートを、レオポルトは「私の天使」と呼んでいたのだ。もっとも、そんな呼び方をするのは、ゲルトルートがいないときだけだ。ゲルトルートの前でそんな呼び方をしたら、にらまれてしまうだろう。
 ゲルトルートは額に手を当てて、またため息をついた。あの人にも困ったものだ、と言いたげだった。そして、コンラートの両肩をがっしりつかみ、その冬空のように青い目で、コンラートの目をじっと見つめながら話し始めた。
「いいですか、コンラート。あなたは、誇り高き貴族の子息に生まれたのです。その自覚を持ちなさい。農民たちのまねごとをするなど、あってはなりません」
「どうしてだめなの?」
 コンラートはへらへら笑いながら母親に尋ねた。
「理由など、ありません。ならぬと言ったら、ならぬのです」
 ゲルトルートはコンラートの肩にさらに力を込めた。その目は氷のように冷たくなった。コンラートは、ぼくにだけは優しいお母さんが、他の人を見ているような目でぼくを見ている、と思った。そんな目で見つめられるのは、はじめてだった。
「いいですか。あなたは、これから奉公に出るのです。奉公先で、してはいけないと言われたことを、決してしてはいけません。それは、あなたにそれを命じた人の顔に泥を塗る行為です。誇り高き貴族に生まれた者は、他者を尊重せねばなりません。そうしなければ、他者から尊重されることはありません」
 コンラートには、ゲルトルートの言葉の意味がよくわからなかった。貴族に生まれれば、それだけで、皆が自分をちやほやしてくれると思っていたからだ。
「奉公先では、皆の言うことをよく聞きなさい。取るに足らぬ者の言うことも、侮ってはなりません。ましてや、その家の主や奥方の…あなたの場合は、国王さまや王妃さまのおっしゃることを聞かないなどということは、決して許されないのです」
 ゲルトルートは厳しい目をして、厳しい口調でコンラートに伝えた。さすがのコンラートも、言うことを聞かないといけない、と思った。
「わかりました、お母さん…じゃなくて、母上」
 コンラートがそう言い終わると、突然、ゲルトルートはコンラートを抱きしめた。
「あなたはとても賢い子です。だから、色々なことを試したくなるし、色々なことをしてみたくなるのでしょう。ですが、その好奇心は、奉公先では時折あなたを困らせるでしょう。あなたは自身の振る舞いに、もっと注意を払わねばなりません。決して、うぬぼれてはなりません。これからは、あなたは、自分で自分を守らねばならないのです。自分のことは、自分で律せねばならないのです」
 その時、コンラートは、自分の頬に何か冷たいものが落ちてきたのを感じた。それは涙だった。
「ああ、かわいいコンラート。わたしの天使。何もできない母を、どうか許してちょうだい」
 ゲルトルートが涙を流しているのを、コンラートは初めて見た。コンラートはゲルトルートにしがみつき、わんわんと涙を流した。
 コンラートが奉公に出た日、二人は一滴の涙も流さなかった。二人は、誇り高き貴族の母子として振る舞ったのだ。同じように振る舞うべきだったレオポルトは、涙を流していた。使用人たちは、涙を流したご主人に同情し、涙を流さなかった奥方に対しては、やはり冷たい方だと陰口を言ったのだ。

「あの日、私は母上から、貴族の誇りを教えて頂きました。そのことを忘れたことは、一度もありません」
 コンラートは膝の上に箱を置き、ゲルトルートの手を握りしめた。ひやりと冷たく感じた。
「そうですか。でも、あなたは、わたしが言ったことを、きちんと守ったわけではないのでしょう?」
「お分かりでしたか?母上」
 コンラートは優雅に微笑んだ。コンラートはゲルトルートが言ったように、奉公先でおとなしく振る舞うことなど、できやしなかった。コンラートは王ではなく、王の家臣のもとで働いたが、その相手が言うことを聞くに値する人物でなければおざなりに接した。賢い彼は、そこで人を見る目を養った。何人目かの家臣のもとで、彼は、やっと尊敬に値する人物と出会い、その人物から様々なことを教わった。
「いいのです。あなたは、わたしが考えているような狭い枠に収まりきる人間ではないのですから。これからも、自分を信じなさい」
 そう言うと、ゲルトルートは、今まで天蓋に向けていた顔をコンラートのほうに向け、唇をぶるぶるふるわせながら、息子に頼み事をした。
「わたしが死んだら、その箱を燃やしてほしいのです」
 それにはコンラートも驚いた。頼み事の内容ではない、わたしが死んだら、という、弱気な一言に対してだ。
「そんな弱気なことをおっしゃるなんて、母上らしくない。私がお持ちした薬用酒を飲んで、ゆっくりお休みください。すぐに元気を取り戻しますよ」
 コンラートは立ち上がり、薬用酒の瓶の栓を抜き、器に注いだ。そして、ゲルトルートの口元に薬用酒の器を近づけた。ゲルトルートはそれに目もくれず、話を続けた。
「情けないことに、その箱の鍵をどこにやったのか、思い出せないのです。もし、私の死後に、その箱の中身を誰かが…とりわけ、あの人が見ると思うと、耐えられないのです」
 ゲルトルートは一呼吸置いて、話を続けた。
「自らの手で燃やせば、それで済むことですが、どうしてもその勇気を持てないのです。だから、あなたに頼むのです。どうか、その箱を燃やしてください」
 コンラートは、この箱を燃やしたいとは思わなかった。この箱にはゲルトルートとの思い出があるし、この期に及んでも、箱の中身が何か気になっていたのだ。
「わかりました。ですが、母上。そんな日が来るのは、ずっと先のことですよ」
 コンラートは励ましのつもりで言った。いや、深く考えていなかったというほうが正しかった。彼は、母親がいつか死ぬということを、それまで考えたことがなかったのだ。ありとあらゆることについて策を巡らせる、賢い男だというのに。
 ゲルトルートは安堵のため息を漏らした。
「これで安心できます。あなたは、もう何年も、床に伏しがちな父親を支え、領地をさらに繁栄させたのです。あなたは誰よりも立派な領主になります。ゾフィーアは申し分のない女性です。きっと、あなたの支えとなってくれる…」
 ゲルトルートは震える手をコンラートの長い髪の毛に伸ばした。
「ああ、かわいいコンラート。わたしの天使。何もできなかった母を、どうか許してちょうだい…」
「母上、今日はもうお休みください。そんなに気が弱って、きっとお疲れが出たのでしょう。箱はまだ母上が持っていてください。形見分けなんて、早すぎます」
 コンラートはゲルトルートの手を取り、身体の横にそっと置いた。箱は鏡台の上に戻した。彼は後悔することになる。それが、母とかわした最後のやり取りだったからだ。翌日、彼は職務のためにイメディング城を離れ、生きて再び母と巡り会うことはなかった。
 
 ゲルトルート・イメディングは、夫レオポルトに手を握られたまま天国に旅立った。その激しい気性と厳しさで、使用人たちに恐れられた彼女の死に顔は、今まで誰も見たことがないほど安らかだった。

 コンラートは、最期の最期になって、妻の前でいい顔をした父レオポルトに、激しく嫉妬したと、のちに書き残している。レオポルト・イメディングは、ゲルトルートの死後、体調不良にもかかわらず陳情のために王都に出向いた後、急速に体調が悪化し、光紀一四七三年が明けてまもなく、この世を去った。

 コンラート・イメディングは、イメディング家十代目当主となった。母と父の葬儀を執り行い、領地を、ときには戦場を駆け回るうちに、母親から託された箱のことは、すっかり忘れてしまったのだ。
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