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番外編 往復書簡
第1話 誇り高き夫人
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イメディング家九代目当主レオポルトの妻、ゲルトルート夫人は、自他ともに厳しい女性だった。使用人たちは常にゲルトルートの顔色をうかがっていた。ゲルトルートは、使用人を躾けるのに、鞭を用いたからだ。
光紀一四六五年、晩秋のある日、ゲルトルートは激高するあまり、鞭を振るった。周囲は騒然となった。ゲルトルートが鞭を振るった相手は、使用人ではなく、行儀見習いという名目で奉公にやってきた、ほかの貴族の家の少年だったからだ。
「この箱には、決して触れるなと言ったでしょう!」
ゲルトルートはそう叫びながら、少年の手のひらに鞭を打った。
この箱とは、ゲルトルートの鏡台の上に置かれた、木製の箱のことだ。上面にも側面にも美しい細工が施されていて、鍵までついていた。
イメディング家の領主夫妻の部屋の掃除をまかされた者や、領主夫妻の付き人となった者は、奥方から直々に言い渡されることがあった。
「この箱には、決して触れてはなりません」
なぜこの箱に触れてはいけないのか、この箱には何が入っているのか、疑問を差し挟む余地はなかった。その言葉を言われた者は、かしこまりました、と返事するより他なかったのだ。
ゲルトルートの一人息子、コンラート・イメディングは、その様子を横目で見ていた。ちょうど、母親と、りんご酒をたしなんでいたのだ。金色の少し癖のある髪を長く伸ばし、青玉のような瞳を持ったコンラートは、当時十五歳だった。王城での十年間の奉公を終えた彼は、大人の入り口をすでに通り抜けていた。あちらで案山子のように突っ立っている少年は、コンラートと同じ十五歳らしいが、奉公を終えていない少年は、大人の入り口を通る資格はまだないのだ。
馬鹿な奴だ、とコンラートは思っていた。同時に、その根性だけは褒めてやろうと思っていた。少年は、鞭を振るわれても、身じろぎ一つしなかった。今もびくともしない。打たれたところをかばおうともしない。いや、むしろ、痛みを感じていないのでは?
「だとしたら、筋金入りの馬鹿だな」
そうつぶやくと、コンラートはりんご酒をぐいっと飲み干した。
ゲルトルートは少年を何やら怒鳴りつけていた。お前は、いつも、いつも、と言っていることだけは聞き取れた。そのたびに、少年は、申し訳ございません、と答えていた。怒鳴られてもやはり、身じろぎ一つしなかった。少年はその緑色の目を、ゲルトルートから決してそらさなかった。
やがてゲルトルートは疲れたのか、頭を抱えて席に戻った。そのつややかな金髪も乱れてしまった。母上も大変だ、とコンラートは思った。それもこれも、父上が甘いお方だからだ、と思っていた。
コンラートの父、イメディング家現当主レオポルトは、厳しいゲルトルートとは正反対の性格をしていた。人を引きつける魅力にあふれた、明るく、寛大な領主。領民には好かれていた。使用人には、もちろん、好かれていた。給金をあげてやったり、狩りで得た肉を自ら振る舞ったりと、気前のいいご主人だったからだ。
だが、息子コンラートは父親のことを、八方美人で、お気楽で、甘い男だと考えていた。父上は、領主には到底向いていない。そんな父上が名領主だとお世辞を言われる陰で、母上は、父上に会いに来た貴族の夫人たちとくだらないお喋りをしたり、家令とともに家の管理に心を砕いたり、噂好きですぐに手抜きをしたがる使用人たちを厳しく監督したりと、苦労を一身に背負っているのだ。十年前に比べてずいぶん太った父上と違い、母上はずいぶんやつれてしまった。
コンラートは手元にある、麻製の手拭きをにらみつけた。生成りの布だった。上等な品で、手触りは柔らかいが、コンラートはそれを投げ捨ててしまいたかった。
(それもこれも、あの女のせいだ)
あの女とは、レオポルトの妾のことだ。亜麻色の髪をした、クラーラという名の若い女。コンラートは父の妾を恨んでいた。
(俺が奉公先で辛い思いをしていた五年前に、父上はどこかからこの家に女を連れ込んだ。まだ十五の、小娘を。そんな小娘のせいで、顔に泥を塗られた母上はどんなに悔しい思いをしたか。なにしろ、母上は…)
コンラートは使用人に新しいりんご酒の瓶を持ってこさせると、ぐびぐびと飲み干した。
「コンラート」
ゲルトルートはコンラートのことを、息子と同じような青玉の瞳で、いや、冬空のような冷徹な目で見据えた。
「誇り高き貴族の子息が、酒を浴びるように飲むなど、はしたない。以後、慎みなさい」
誇り高き貴族、それはゲルトルートの口癖だった。ゲルトルートは誇り高き貴族の夫人だった。
光紀一四六五年、晩秋のある日、ゲルトルートは激高するあまり、鞭を振るった。周囲は騒然となった。ゲルトルートが鞭を振るった相手は、使用人ではなく、行儀見習いという名目で奉公にやってきた、ほかの貴族の家の少年だったからだ。
「この箱には、決して触れるなと言ったでしょう!」
ゲルトルートはそう叫びながら、少年の手のひらに鞭を打った。
この箱とは、ゲルトルートの鏡台の上に置かれた、木製の箱のことだ。上面にも側面にも美しい細工が施されていて、鍵までついていた。
イメディング家の領主夫妻の部屋の掃除をまかされた者や、領主夫妻の付き人となった者は、奥方から直々に言い渡されることがあった。
「この箱には、決して触れてはなりません」
なぜこの箱に触れてはいけないのか、この箱には何が入っているのか、疑問を差し挟む余地はなかった。その言葉を言われた者は、かしこまりました、と返事するより他なかったのだ。
ゲルトルートの一人息子、コンラート・イメディングは、その様子を横目で見ていた。ちょうど、母親と、りんご酒をたしなんでいたのだ。金色の少し癖のある髪を長く伸ばし、青玉のような瞳を持ったコンラートは、当時十五歳だった。王城での十年間の奉公を終えた彼は、大人の入り口をすでに通り抜けていた。あちらで案山子のように突っ立っている少年は、コンラートと同じ十五歳らしいが、奉公を終えていない少年は、大人の入り口を通る資格はまだないのだ。
馬鹿な奴だ、とコンラートは思っていた。同時に、その根性だけは褒めてやろうと思っていた。少年は、鞭を振るわれても、身じろぎ一つしなかった。今もびくともしない。打たれたところをかばおうともしない。いや、むしろ、痛みを感じていないのでは?
「だとしたら、筋金入りの馬鹿だな」
そうつぶやくと、コンラートはりんご酒をぐいっと飲み干した。
ゲルトルートは少年を何やら怒鳴りつけていた。お前は、いつも、いつも、と言っていることだけは聞き取れた。そのたびに、少年は、申し訳ございません、と答えていた。怒鳴られてもやはり、身じろぎ一つしなかった。少年はその緑色の目を、ゲルトルートから決してそらさなかった。
やがてゲルトルートは疲れたのか、頭を抱えて席に戻った。そのつややかな金髪も乱れてしまった。母上も大変だ、とコンラートは思った。それもこれも、父上が甘いお方だからだ、と思っていた。
コンラートの父、イメディング家現当主レオポルトは、厳しいゲルトルートとは正反対の性格をしていた。人を引きつける魅力にあふれた、明るく、寛大な領主。領民には好かれていた。使用人には、もちろん、好かれていた。給金をあげてやったり、狩りで得た肉を自ら振る舞ったりと、気前のいいご主人だったからだ。
だが、息子コンラートは父親のことを、八方美人で、お気楽で、甘い男だと考えていた。父上は、領主には到底向いていない。そんな父上が名領主だとお世辞を言われる陰で、母上は、父上に会いに来た貴族の夫人たちとくだらないお喋りをしたり、家令とともに家の管理に心を砕いたり、噂好きですぐに手抜きをしたがる使用人たちを厳しく監督したりと、苦労を一身に背負っているのだ。十年前に比べてずいぶん太った父上と違い、母上はずいぶんやつれてしまった。
コンラートは手元にある、麻製の手拭きをにらみつけた。生成りの布だった。上等な品で、手触りは柔らかいが、コンラートはそれを投げ捨ててしまいたかった。
(それもこれも、あの女のせいだ)
あの女とは、レオポルトの妾のことだ。亜麻色の髪をした、クラーラという名の若い女。コンラートは父の妾を恨んでいた。
(俺が奉公先で辛い思いをしていた五年前に、父上はどこかからこの家に女を連れ込んだ。まだ十五の、小娘を。そんな小娘のせいで、顔に泥を塗られた母上はどんなに悔しい思いをしたか。なにしろ、母上は…)
コンラートは使用人に新しいりんご酒の瓶を持ってこさせると、ぐびぐびと飲み干した。
「コンラート」
ゲルトルートはコンラートのことを、息子と同じような青玉の瞳で、いや、冬空のような冷徹な目で見据えた。
「誇り高き貴族の子息が、酒を浴びるように飲むなど、はしたない。以後、慎みなさい」
誇り高き貴族、それはゲルトルートの口癖だった。ゲルトルートは誇り高き貴族の夫人だった。
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