ミーナは糸を紡ぐ

田原更

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後編 ミーナは機を織る

第45話 光と陰(2)

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「ここだけの話とは?」
 コンラートと二人きりになった緊張感を味わいながら、ミーナは恐る恐る口を開いた。
「そうだな。それは、ビルング領をイメディング領に併合する計画のことだ」
「なんですって!」
 ミーナはコンラートの側ににじり寄った。
「それを、イェルクは知っているの?」
「無論」
 ミーナは頭がくらっとした。たくましいお義父さまと優しいお義母さまが守ってきたビルング家を、コンラートお兄さまなんかに渡そうとするなんて、イェルクは何を考えているのかしら。
「そんなこと、イェルクが許しても、お義父さまが許さないわよ」
「マルクス殿もいずれ亡くなる。併合はそのあとで十分だ」
 ミーナはコンラートの執務机をばん、と叩いた。
「そんなことは、このわたしが許しません!」
 ミーナはなんとしてでも、ビルング家を守りたいと思った。今まで亜麻を育て、糸を紡ぎ、糸を染めてきたのも、そして、布を売ろうとしたのも、すべて、ビルング家のためだ。
「お前ごときに、何ができる。むしろ、お前自身が、この計画の鍵なのだぞ」
「どういうことですか」
 コンラートはせせら笑うように話し出した。
「お前とイェルクの結婚が、ビルング領併合計画の第一段階だ。先の戦で大損害を被ったビルング領に、多額の持参金を持ったお前が嫁ぐ。お前の持参金を、焼けた村々に寄付する。村人はその金で、種を買い、苗を買い、新たな畑を耕す。焼け野原は畑に変わり、そこで作物を収穫し、やがて村が栄えていく…。村人は感謝するだろう。イメディング家から嫁いできたお前が、身銭を切って村人を助けたと。その感謝は、やがてイメディング家にも向かうだろう。そして村人は、村に火をつけるよう命じたビルング家より、イメディング家に親しみを持つようになるだろう。そこで、お前がもう一度役に立つ」
「わたしが…何の…」
 青白い顔をしたミーナを見て、コンラートはにやりと笑った。
「ビルング城に着いたとき、お前に言ったろう?丈夫な女の子を産めと。お前の娘と、私の息子のいずれかを結婚させる。そのときに、ビルング家をイメディング家に併合させて、イメディング家の分家にする、それが私の計画だ」
 ミーナの足がよろけた。それでもミーナは踏ん張り、コンラートに向き直った。
「その子たちは、いとこどうしではありませんか!」
 ミーナは抗議した。この国では四親等以内での結婚は禁じられているからだ。
「別に、かまわんだろう。血は一滴も繋がっていないのだから。あの女がどこの馬の骨とも知れぬ女でよかった。まあ、そうした声が上がることは想定済みだ。お前が女の子を産んだならば、その結婚相手に選ぶ息子は、どこかに養子にやる。見当も既につけてある」
「あなたはなんて人なの…まさか、村に火をつけるよう、イェルクに入れ知恵したのは…」
「そうだ。すべてはこの計画のためだ」
 ミーナは雷で打たれたような気分になった。
「お兄さま、あなたは、あなたは、たった一人の友であるイェルクのことさえ利用したのですか。イェルクはこのことを知っているのですか!」
「無論」
 コンラートは涼やかな顔をした。
「戦が終わって、すべてを打ち明けたとき、イェルクは苦笑いした。『お前らしい』と。イェルクはこうも言った。
『剣を振るうしか能のない私には、領地の運営は向いていない。できることと言えば、狩りや剣術試合で金を稼ぐことぐらいだ。貧しい農地を耕し、兵役で食いつないできた農民達も、戦が終われば食い扶持を失う。多くの騎士達も同じだ。ビルング領は、このままでは衰退していくだけだ。どうかお前がビルング領の民を救ってくれ。そのためならば、私が悪者になることなど、全く問題にならぬ』と。
 そして、お前との結婚については、こう言っていたぞ。
『多額の持参金を持たせた娘を嫁がせてくれて感謝する』と」
 ミーナは、目の前が真っ暗になった。完全に打ちのめされた気分になった。
「そんな…すべてはお金のためだったのですね。わたしとの結婚には、温かな情すらなかったと!」
 ミーナは崩れ落ちて泣き出した。コンラートは崩れ落ちるミーナの元へやってきて、ミーナを冷たい目で見下ろした。ミーナはその足にしがみつき、涙ながらに頼んだ。
「お兄さま、後生です!わたしたちの離婚をお許しください!わたしには、愛のない結婚生活など、耐えられません!」
「イェルクと離婚したら、お前はどうやって生きていくつもりだ。修道院にでも帰るのか?」
 ミーナは涙と鼻水を流しながら首を振った。惨めだった。それでも、今ここで戦わなければ、もっと惨めなことが待っていると思っていた。
「いいえ。わたしには、人の愛のない暮らしは耐えられません。ここに来るまでの間、ヘリガと話をしたのです。もし、離婚を許していただけたなら、二人で小さな畑を借りて、亜麻を育てて糸を紡いで暮らそうと。そうして、近くで暮らす男たちの誰かと、自然に結ばれようと。もう一度申し上げます。コンラートお兄さま、私たちの離婚をお許しください。たとえ国一番の騎士と結ばれようとも、虚しい結婚生活には耐えられません。わたしは、わたしを真に愛してくれる人と結ばれたいのです」
「滑稽だな」
 コンラートは場違いなほど大きな声で笑い出した。
「もう一度言う。滑稽だな。愛のない結婚生活など耐えられない、だと?馬鹿馬鹿しい。結婚生活に愛など必要あるか」
「お兄さま。愛のない結婚生活など、惨め以外のなにものでもありません。お兄さまにはそれがわからないのですね」
 ミーナの言葉を聞いたコンラートは、氷のように冷たい目をした。悲しい目のようにも思えた。ミーナは、その目をどこかで見たことがあると思った。
「結婚生活に愛など必要はない。必要ないのだ!そんなものがなくとも、結婚生活は成立する。母上は愛のない暮らしの中でずっと努力しておられた!夢見がちな父上を支え、イメディング家の良き領主夫人でおられるように。しかし、母上は決して惨めではなかった。むしろ誇りを持って生きておいでだった!父上が、あの女を連れてくるまでは!」
「お兄さま…」
 ぎりぎりと歯を噛みしめるコンラートを見て、ミーナはおびえて震えだした。
「母上は、父上があの女を本気で愛しているのを一目で悟られたそうだ。そして、あの女が父上を愛してなどいないことも!なぜだ!なぜ父上は、今まで散々尽くしてこられた母上を愛さずに、肌を合わせることさえ許さないような女を愛したのだ!あの女のせいで、母上は心底惨めな思いをされた!
 長い奉公暮らしを耐え、王都から帰ってきたら、知らない女とその娘が暮らしていて、父上からの愛情を一身に受けていた。それを目にした私の惨めさが、お前にわかるのか!
 クラーラ。あの女はその名の通り、光だ。強すぎる光だ!父上の目は眩み、私達は陰に追いやられた。そしてウィルヘルミーナ、お前はあの女に付き従う影に過ぎない。ちょろちょろとうっとうしい、思い切り踏んづけてやろうと、何度思ったか!だが母上は、誇り高き貴族の子息として、弱い娘に手を出してはならないとおっしゃったのだ!」
 そのときミーナは、あの冷たい目はゲルトルート奥さまの目だと思い出した。幼い自分を見下ろした、あの青い、冷たい瞳。その瞳に映っていたのは、深い悲しみの色だった。
(わたしはどうして、そんなことを考えもしなかったの…)
 ミーナは再び打ちのめされた。
「愛のない結婚生活が惨めだと?ならばせいぜい苦しむがいい。これが、お前達母娘と父上への、ささやかな復讐だ」
「お父さまへの…?」
 ミーナは震える声をあげた。
「そうだ。父上が死の床でお前に残した財産を、そっくりそのまま、お前の持参金としてビルング家に差し出したのだ。俺は父上のお前達母娘への愛情を、そっくりそのまま、俺の計画に利用したんだよ!」
 コンラートは「父上」という言葉を、まるで庶民が「親父」と呼ぶような口調で発し、庶民が話すような言葉を使って自身の思いを吐露した。
 ミーナはコンラートの惨めさを、身をもって味わった。それはまるで青白い炎が燃えているように、熱く、冷たく、そして悲しかった。

 翌朝、ミーナはヘリガを伴い、失意のままビルング城へ帰っていった。
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