ミーナは糸を紡ぐ

田原更

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後編 ミーナは機を織る

第44話 光と陰(1)

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「それでおめおめと帰ってきたわけか」
 イメディング城、領主の執務室で椅子にふんぞり返っているコンラートは、義理の妹ミーナに対して、心底くだらないとばかりに言い放った。ミーナはヘリガとともに、片膝をつきながら、義理の兄コンラートの冷たい視線に耐えていたが、耐えがたくなって口を挟んだ。
「帰ってきていいとおっしゃったのは、お兄さまですが」
「うるさい。今日は遅いから泊まっていって構わないが、ヘリガ、明朝にはこれを連れて帰れ」
 コンラートが吐き捨てるように言うと、ヘリガは恐る恐る顔を上げた。
「失礼ながら申し上げます。コンラートさま、イェルクさまのミーナお嬢さまに対する態度は、見ているこちらが辛くなるほど冷とうございます。わたくしは、ミーナお嬢さまをビルング城に連れ帰るつもりはございません…」
「うるさい。ウィルヘルミーナを甘やかすな。そう言えば、お前もずいぶん甘やかされて育ったようだが。母上に叱られて、めそめそ泣いてばかりだったな。うっとうしい」
 ヘリガはメイド見習いだった幼い頃を思い出して、小さくなってうなだれた。ミーナはヘリガをかばった。
「お兄さま、そんな昔のこと、蒸し返さなくても。…とにかくわたしは、イェルクのもとに帰るつもりはございません。あのような、恐ろしいことをする人のもとになど」
 するとコンラートは盛大に笑い出した。
「恐ろしい?村に火をつけるよう命じたことが、か。そうか、それならば恐ろしいのはこの私だ。それをイェルクに提案したのは私だからな」
「お兄さまが?」
 そう答えながらも、ミーナはどこかで納得していた。このお兄さまならあり得ることだわ。いつも、人の心など無視して、物事をすっぱり切り捨ててしまうもの。そんなお兄さまなら、一部の人など平気で見捨てるでしょうね。
「そうですか。賢明なお兄さまならではですわ。でも、イェルクは自身の復讐を理由にそう命じたのです。それはあまりにも残酷ではありませんか」
「あの時点で赤髭は相当追い詰められていた。追い詰められた奴らが、何をしでかすかは火を見るよりも明らかだ。イェルクが命じなければ、奴らが先に村に火をつけ、食料を奪い、村人を虐殺しただろう。生きて逃げられただけましだと思ってほしいものだ」
 その言い草にミーナはかちんときた。
「ですが、愛する村や、大切な食料に、自ら火をつけた村人の思いはどうなるのです?あの人たちがどれだけ悔しい思いをしたか!それに、巻き添えをくった村人はどうなるのです?わたしは、ひどく傷つけられてぼろぼろになった娘を見ました。あの娘はおそらく一生苦しみ続けるでしょう。お兄さまたちは、人の気持ちをないがしろにしすぎです!」
「お前は本当に子どもだな。感情でしか物事を量れぬようだ。いいか、よく聞け。あそこでためらって、蛮族どもに食料を奪われ逃げられたならば、この戦はあと何年か延びたろう。それで、何人の女が犯されると思っているのだ。いくつの村が焼かれると思っているのだ。どれほどの人間が死ぬと思っているのだ!修道院で祈っているだけのお前にはわかるまい」
 コンラートはミーナを怒鳴りつけ、しまいには鼻で笑った。ミーナは押し黙るよりほかなかった。
「それにお前は、本当はイェルクの浮気が許せなかっただけだろう?そうだな、イェルクはビルング領やイメディング領の北部を熱心に回っていた。このあたりは、二十数年前からしばしば、蛮族が攻めて来たのだ。父上が、あの女を保護したのも、そのあたりだったらしい」
「イメディング領にまで、蛮族どもは攻めてきたのですか」
「もともと、蛮族どもはイメディング領を狙っていたのだ。作物は豊かで、家畜もたくさん飼っている。人々は収入もあり、のんきに暮らしている。略奪行為を図るなら、ビルング領より好都合だろう?腹立たしい限りだがな」
 コンラートの話を、ミーナは興味深く聞いた。コンラートは、そんなことも知らぬのか、とミーナをあざ笑った。
「お父さまがお母さまを保護したというのは?」
「あの女の話など、この際どうでもいいだろう。ただのついで話だ」
 コンラートは顔をゆがめた。ミーナは、コンラートがクラーラをひどく嫌っていることをわかっていたので、これ以上話を蒸し返すのはやめにした。
「イェルクはここしばらく、そうした地域を周り、民を慰めているようだ。悪名高い赤髭を倒したイェルクは、どうやら大層歓迎されているそうだ。そこで女の一人や二人作っても、全く不思議ではないな」
 コンラートは意地悪く笑って、話を続けた。
「結婚生活など、退屈なものだ。すぐに刺激が欲しくなる。あるいは、窮屈かもしれんな。すぐに身動きが取れなくなる。そういうときに、ふと、他の女に目移りしたくなるものだ。私の妻は良い妻だ。お前と違って、賢くて、政治や経済にも関心があって、立ち居振る舞いも、顔立ちも美しい。その上決して出しゃばらない。さすが母上が見立てた女だ。だからこそ窮屈でたまらなくなるときがある。今なら、父上の気持ちもわかる。窮屈で窮屈でたまらないときに、あんな、何も知らない、何も出来ない、そのくせ顔だけは良い女が現れたら…心を奪われる気持ちもわかるものだ。ああいうのを、庇護欲を掻き立てると言うのか」
「お兄さま、なんてことをおっしゃるの。あんなに素晴らしい奥さまをお持ちなのに、あまりにも不誠実だわ」
 ミーナはぷんぷん怒った。対照的にコンラートは笑った。
「女だってそうだろう。どんなに素晴らしい男と結ばれようとも、退屈で、あるいは窮屈で仕方がなくなる。そして、他の男に目移りする。城の使用人、お付きの騎士、出入りの商人…妻だって、どこの誰とよろしくやっているか、本当のことは私にもわからない。だが、それがどうしたというのだ」
「お兄さまは、本気でそんなことをおっしゃるのですか?そんなお考えで、寂しくはないのですか?」
 ミーナはコンラートを哀れみの目で見つめた。コンラートは歯牙にもかけない様子だった。
「とにかく、離婚は許さん。お前は貴族の娘だ。家と家の利益のために結婚するのがお前の義務だ。お前とイェルクの結婚で、イメディング家とビルング家は繋がりを持ったのだ。では、今から、ここだけの話を聞かせてやろう。…その前に、ヘリガ、お前にはこの部屋を出て行ってもらう。ウィルヘルミーナが使っていた部屋の掃除でもして、待っていろ」
「…かしこまりました」
 ヘリガはミーナと離れがたい様子を見せたが、大人しく執務室を出て行った。ミーナは腹心の友と離れ、すこし不安になった。
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