ミーナは糸を紡ぐ

田原更

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後編 ミーナは機を織る

第42話 泉のほとりで(1)

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 商売への誇りとやる気を失ってしまったミーナは部屋にこもり、しくしくと泣き暮らすようになってしまった。ビルング家の女の務めさえ忘れ、引きこもるミーナのために、ヘリガは再び緑色の服を仕立職人に依頼した。
 そうしているうちに、季節は秋に変わった。ある日、ビルング城に知らせが届いた。この年の剣術試合で、イェルクはまたしても優勝だったというのだ。マルクスは誇らしげな態度を取り、カタリーナはイェルクが無事帰ってくることに安堵していた。ミーナは泣きはらして赤くなった目を少しでも治そうと躍起になったり、着る服を念入りに選んだりするようになった。
 数日後、剣術試合で優勝したイェルクが帰ってきた。ミーナは城の前で待っていた。イェルクは堂々たる姿で城に帰ってきた。後ろに控える騎士たちも誇らしげだった。
「ただいま戻った」
「お帰りなさいませ」
「留守中変わりないか」
「いいえ、何もございません」
 ミーナは去年のこの日と同じように微笑みを浮かべてイェルクを出迎えたが、イェルクの顔を間近に見て違和感を覚えた。
(去年と、少し違うような気がする…。やつれたのかしら)
 そのあと、イェルクはずいぶん長い時間をかけて、マルクスにそれまでの視察について報告していた。その夜は宴会となったが、去年はいくらお酒を飲んでも少しも酔わなかったイェルクが、悪酔いしたと言って宴の席を離れてしまった。宴はその時点で解散となった。ミーナは心配になって後を追ったが、ティベルダに入室を断られ、しぶしぶ自室に戻っていった。ティベルダはもしかしたら、ミーナが商売を投げ出したことに憤っていたのかもしれないが、ミーナにそれを慮る余裕はなかった。

 翌日の正餐の時間、カタリーナはイェルクとミーナに一つ提案をした。
「一週間ほど、別荘で静養せよとおっしゃるのですか」
 イェルクは食事の手を止めてカタリーナの顔を見た。ビルング家は、領地の北部、イメディング領にほど近い地域に、小さな別荘を持っていた。もちろんミーナは行ったことがなかった。
「イェルク、なんだか少し顔色がさえないから、たまにはのんびりしてらっしゃい。ミーナと二人でね」
「まあ、お義母さま」
 ミーナは喜びの声を上げた。先日、旅に出たときとは全く違うときめきを感じていた。先日のように、誰かが付き添うことになるだろうが、そんなことは気にしていなかった。
「母上、ご心配にはおよびません」
 イェルクが口を挟んだが、カタリーナはにこにこ微笑むだけだった。そこへマルクスが、もう黙っておれんという感じで口を出した。
「いいから行ってこんか。書類仕事ならほかの者に片付けさせたほうが速いわい。お前は一年半近くも妻をほったらかしにして、何をしておるのじゃ」
「まあ、お義父さま」
 ミーナは恥ずかしげに頬を押さえた。こういうところはマルクスのほうがよほど気が利いた。
「わかりました。では、明朝出発します」
 イェルクは半ば押し切られたような態度で出発を決めた。ミーナは今度こそ、と意気込んで、好物のプディングを口にした。とろけるように甘かった。

 翌朝、二人は馬車に乗って旅立った。馬車にはイェルクとミーナとヘリガ、そして従騎士の少年が乗った。ミーナはヘリガが用意してくれた、緑色の服を着て、円錐形のおしゃれな帽子をかぶっていた。イェルクは相変わらず、黒い服を着ていた。ヘリガと従騎士は気を利かせて、ほとんど口を開かなかった。一方、ミーナははしゃいで、馬車の窓から見える景色を楽しんだ。今回、馬車は先日の旅とは違い、ビルング領では少ない穀倉地帯を走っていた。
「イェルク、あの大きな建物はなにかしら?」
「あれは風車小屋だ」
「あのレンガ造りの建物は?」
「あれはサイロだ」
「イェルク、あの雲を見て!まるで羊の群れみたい…」
 ミーナは幌のない馬車から帽子を落としそうなほど身を乗り出した。イェルクはミーナの身体を馬車内に引き戻した。
「まるで子どものようだな」
 ミーナはふくれっ面をした。せっかく、いい気分になっていたのに。ミーナは抗議した。
「子ども扱いしないでください」
 イェルクはぶっきらぼうな口調で、わかったと言うと、黙り込んでしまった。
 そのときミーナは、収穫期を迎えた麦畑で休んでいる若い夫婦を見かけた。二人は背中を丸め、肩を寄せ合っていた。ミーナは二人を覗き見た。ゆったりと走っている馬車のことが気になっていないようだった。二人の世界に浸っているのだろう。よく見ると、妻のお腹がふくらんでいた。妻の歳は、ミーナと変わらない様子だった。ミーナは慌てて目を背けた。馬車はすぐに、夫婦から離れていった。イェルクは前しか見ていない。夫婦のことなど、眼中にないのだろう。
 ミーナは心底焦っていた。自分と同じ年頃の夫婦でも、当然のように子どもがいるのだ。もたもたしていられない。なんとか、イェルクにその気になってもらうしかない…。
(でも、わたしの顔に、そんな魅力はあるのかしら…)
 ミーナは結婚式の晩に、イェルクが顔を背けたことを思い出し、うつむいてしまった。ヘリガや従騎士の少年はミーナの顔を心配そうにのぞき込んだが、イェルクはそれでも前しか見ていなかった
 その晩は近くの裕福な農家に宿を借りた。その家には若者はいなかった。みな、戦に駆り出されて亡くなったという。ミーナとヘリガは老夫婦とともに泣き、イェルクは息子たちの勇気をたたえて、翌朝、彼らの墓前に花を手向けた。

 正餐の時間前には別荘に着いた。館と言えるか言えないかくらいの大きさだった。別荘には管理人の夫婦がいた。一昨日城から遣いの者を出したが、豪華な食事を出すには間に合わなかった。イェルクは簡素な食事を用意すればよい、と命じ、あてがわれた部屋に入ろうとした。
「イェルク、待ってください。庭に小さな泉があるのです。泉のほとりで食事をとりましょう」
 ミーナはイェルクから離れたくなかった。そもそも、イェルクが二人で話をしようと言ったのよ。七月のことだから、もう忘れたのかしら。ああ、この人は本当に情けない。十五の頃のほうが、よほど紳士的だったわ。ミーナはため息をつきたいのを我慢して、イェルクに提案した。
「わかった。準備ができたら、呼びにこい」
 そう言ってイェルクは、従騎士の少年とともに部屋に入ってしまった。ミーナは頬を風船のようにふくらませた。
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