41 / 63
中編 ミーナは糸を染める
第41話 ミーナの旅(4)
しおりを挟む
老人は頭を抱え込み、視線を低く落として、話を続けた。
「儂はずっと、後悔していた。クラーラが商売の旅に出る際に、たとえ古くさいと笑われようとも、口うるさいと嫌われようとも、止めればよかったと。…しかし、それも過ぎたことじゃ。今、ここに、お前さんがいるということは、クラーラは誰かと結婚して、幸せな生涯を送ったのじゃろう?」
老人は笑った。すがるような笑みだった。ミーナはしばらくの間、何も言えなかった。しかし、勇気を振り絞って口を開いた。
「お母さまは、貴族の妾として暮らしていました。わたしは妾の子として育ちました。ですが、その貴族とお母さまの間には、何もなかったと、あとになって知らされました。教えてください。誰か、心当たりはいませんか。わたしのお父さまは、いったい誰なのですか?」
老人は目を閉じ、じっと考え込んでいた。長い、長い間沈黙が流れていった。ミーナは沈黙に耐えられず、残ったお茶を飲み干した。
「すまんのう、ミーナ。心当たりがありすぎて、答えようがないのじゃ」
老人の意外な言葉に、ミーナは思わずむせてしまった。
「こ、心当たりがありすぎるとは、どういうことでしょうか?」
「この家を出たクラーラは恋多き娘になった。なにせ、あの顔じゃろう?あの、笑顔じゃろう?それで『クラーラは』なんて言って男に甘えるんじゃ。誰も彼もがクラーラを好きになった。クラーラは男から男へ、まるで蜜を求める蝶のように飛び回って、遊んでおったよ。男遊びはいい加減にしろと叱ったこともあるが、言うことを聞かなかった。
じゃが、先ほどのお前さんの話を聞いて思ったのじゃ。クラーラは、儂の知らないところで、真に愛する男を見つけたのじゃろう。お前さんから察するに、赤毛の男かのう?じゃから、記憶を失い、貴族の男に拾われても、操を通したのじゃろうな。のう、聞かせておくれ、お前さんの知っているクラーラは、どんな母親だったのじゃ?」
ミーナは微笑みながらこう答えた。
「お母さまは、とても優しくて、物語が大好きで、まるで女神のようなかたでした。わたしのことを、心から愛してくださいました」
それを聞いた老人は、つっと涙を流した。
「おお、お前さんが、お前さんが、クラーラを元の優しいクラーラに戻してくれたのじゃ。ありがとう、ミーナ。お前さんが来てくれてよかった。お前さんの笑顔は、微笑みは、幼い頃の優しいクラーラにそっくりじゃった。もう日が暮れるから、帰りなさい。そしてまたいつの日にか、今度はお前さんの夫を連れて、ここに来ておくれ」
こうして、ブラーヴァ国への旅は終わった。商売上では、何も得るもののない旅だった。しかし、ミーナにとって、人生で大切な宝物を得た旅だった。
ビルング城が目の前に迫り、ミーナは馬車を降りた。フバードも馬車を降りた。
「若奥様、申し訳ありませんでした。結局、私は、あなたの商売の役には立てませんでした」
「何を言っているの、フバード。また、ブラーヴァ国に連れていってちょうだい。あなたが知っている街や店を、もっと見てみたいの」
ミーナは少し甘えるような口調で言った。しかし、フバードは首を横に振った。
「若奥様。私はもう、行商人をやめ、故郷へ帰ろうと思っております。織物商の父の手伝いをしようと思うのです」
「そんな、どうして?ビルング城の皆が、あなたが持ってきてくれる商品を楽しみにしているのよ?」
少し怒ったように話すミーナに対して、フバードは寂しそうに微笑みながら、話を続けた。
「若奥様、私も若奥様と同じように、商売人が直接生産者から物を仕入れ、販売するのがよいと考えていたのです。だから、親元を離れ、行商人になったのです。ですが、もう、疲れました。この、紙切れ一枚入る隙間もないような、商売人の世界の中で、たった一人で戦うのは。若奥様、あなたは本当に、人に頼るのが上手な方だ。あなたが笑うと、誰もがあなたの味方をしたくなる」
今度はミーナが首を横に振った。
「私は、自分の力で何かを成したいのよ。何もできない子どもだと思われたくないの」
それに、いくら私が微笑んだって、本当に頼りたい人は、振り向いてさえくれないのよ、という言葉を、ミーナはなんとか飲み込んだ。
「だったら、私だって何も出来ない子どもだ。若奥様は私のことをそう言って笑うのですか?」
「笑わないわ」
ミーナは真っ直ぐにフバードを見つめた。フバードはいつぞや見せたような、作り物ではない笑顔を見せた。
「若奥様。世の中には色々な人がいて、それぞれが自分の立場を守って、頑張っているのです。物を売るにしても、何にしても、様々な立場の者が関わっているから、より大きなことを成せるのですよ。それをお伝えしたかったのです」
「…わかったわ。商売のことは、もう一度考えてみる。今までどうもありがとう。おかげでいい旅ができたわ」
ミーナはフバードに手を差し出した。フバードはミーナの手をそっと握りしめた。ヘリガは見ないふりをしていた。
「さようなら、若奥様。どうぞお元気で」
フバードは馬車に乗って、去っていった。ミーナは馬車が見えなくなるまで、その姿を見送った。
フバードがいなくなったあと、入れ替わるように、ビルング城に新しい行商人がやってきた。ミーナは早速、その行商人に空色の布を売ろうとした。しかし、その行商人は、ミーナたちの布を一目見ただけで、こんな安っぽい色の布には、金貨一枚の価値もない、と決めつけた。ミーナはそれに激怒し、行商人を追い出してしまった。
あの商人は、私たちの布を安っぽいと言って馬鹿にしたわ。もし、フバードの言うとおりに、コンラートお兄さまに布を売ったとしたら、きっと同じ反応が返ってくるわ。私はそんな人たちに、この布を、絶対に渡さないわ!
「でも、誰に売ればいいの?どこにそんなあてがあるというの?」
ミーナは自室で一人頭を抱えた。
「なんだか、もう、疲れたわ…」
ミーナは寝台に倒れ込んだ。ミーナがあの布に託した誇りは、道ばたの草のように踏みにじられ、ミーナは商売へのやる気を失ってしまったのだ。
「儂はずっと、後悔していた。クラーラが商売の旅に出る際に、たとえ古くさいと笑われようとも、口うるさいと嫌われようとも、止めればよかったと。…しかし、それも過ぎたことじゃ。今、ここに、お前さんがいるということは、クラーラは誰かと結婚して、幸せな生涯を送ったのじゃろう?」
老人は笑った。すがるような笑みだった。ミーナはしばらくの間、何も言えなかった。しかし、勇気を振り絞って口を開いた。
「お母さまは、貴族の妾として暮らしていました。わたしは妾の子として育ちました。ですが、その貴族とお母さまの間には、何もなかったと、あとになって知らされました。教えてください。誰か、心当たりはいませんか。わたしのお父さまは、いったい誰なのですか?」
老人は目を閉じ、じっと考え込んでいた。長い、長い間沈黙が流れていった。ミーナは沈黙に耐えられず、残ったお茶を飲み干した。
「すまんのう、ミーナ。心当たりがありすぎて、答えようがないのじゃ」
老人の意外な言葉に、ミーナは思わずむせてしまった。
「こ、心当たりがありすぎるとは、どういうことでしょうか?」
「この家を出たクラーラは恋多き娘になった。なにせ、あの顔じゃろう?あの、笑顔じゃろう?それで『クラーラは』なんて言って男に甘えるんじゃ。誰も彼もがクラーラを好きになった。クラーラは男から男へ、まるで蜜を求める蝶のように飛び回って、遊んでおったよ。男遊びはいい加減にしろと叱ったこともあるが、言うことを聞かなかった。
じゃが、先ほどのお前さんの話を聞いて思ったのじゃ。クラーラは、儂の知らないところで、真に愛する男を見つけたのじゃろう。お前さんから察するに、赤毛の男かのう?じゃから、記憶を失い、貴族の男に拾われても、操を通したのじゃろうな。のう、聞かせておくれ、お前さんの知っているクラーラは、どんな母親だったのじゃ?」
ミーナは微笑みながらこう答えた。
「お母さまは、とても優しくて、物語が大好きで、まるで女神のようなかたでした。わたしのことを、心から愛してくださいました」
それを聞いた老人は、つっと涙を流した。
「おお、お前さんが、お前さんが、クラーラを元の優しいクラーラに戻してくれたのじゃ。ありがとう、ミーナ。お前さんが来てくれてよかった。お前さんの笑顔は、微笑みは、幼い頃の優しいクラーラにそっくりじゃった。もう日が暮れるから、帰りなさい。そしてまたいつの日にか、今度はお前さんの夫を連れて、ここに来ておくれ」
こうして、ブラーヴァ国への旅は終わった。商売上では、何も得るもののない旅だった。しかし、ミーナにとって、人生で大切な宝物を得た旅だった。
ビルング城が目の前に迫り、ミーナは馬車を降りた。フバードも馬車を降りた。
「若奥様、申し訳ありませんでした。結局、私は、あなたの商売の役には立てませんでした」
「何を言っているの、フバード。また、ブラーヴァ国に連れていってちょうだい。あなたが知っている街や店を、もっと見てみたいの」
ミーナは少し甘えるような口調で言った。しかし、フバードは首を横に振った。
「若奥様。私はもう、行商人をやめ、故郷へ帰ろうと思っております。織物商の父の手伝いをしようと思うのです」
「そんな、どうして?ビルング城の皆が、あなたが持ってきてくれる商品を楽しみにしているのよ?」
少し怒ったように話すミーナに対して、フバードは寂しそうに微笑みながら、話を続けた。
「若奥様、私も若奥様と同じように、商売人が直接生産者から物を仕入れ、販売するのがよいと考えていたのです。だから、親元を離れ、行商人になったのです。ですが、もう、疲れました。この、紙切れ一枚入る隙間もないような、商売人の世界の中で、たった一人で戦うのは。若奥様、あなたは本当に、人に頼るのが上手な方だ。あなたが笑うと、誰もがあなたの味方をしたくなる」
今度はミーナが首を横に振った。
「私は、自分の力で何かを成したいのよ。何もできない子どもだと思われたくないの」
それに、いくら私が微笑んだって、本当に頼りたい人は、振り向いてさえくれないのよ、という言葉を、ミーナはなんとか飲み込んだ。
「だったら、私だって何も出来ない子どもだ。若奥様は私のことをそう言って笑うのですか?」
「笑わないわ」
ミーナは真っ直ぐにフバードを見つめた。フバードはいつぞや見せたような、作り物ではない笑顔を見せた。
「若奥様。世の中には色々な人がいて、それぞれが自分の立場を守って、頑張っているのです。物を売るにしても、何にしても、様々な立場の者が関わっているから、より大きなことを成せるのですよ。それをお伝えしたかったのです」
「…わかったわ。商売のことは、もう一度考えてみる。今までどうもありがとう。おかげでいい旅ができたわ」
ミーナはフバードに手を差し出した。フバードはミーナの手をそっと握りしめた。ヘリガは見ないふりをしていた。
「さようなら、若奥様。どうぞお元気で」
フバードは馬車に乗って、去っていった。ミーナは馬車が見えなくなるまで、その姿を見送った。
フバードがいなくなったあと、入れ替わるように、ビルング城に新しい行商人がやってきた。ミーナは早速、その行商人に空色の布を売ろうとした。しかし、その行商人は、ミーナたちの布を一目見ただけで、こんな安っぽい色の布には、金貨一枚の価値もない、と決めつけた。ミーナはそれに激怒し、行商人を追い出してしまった。
あの商人は、私たちの布を安っぽいと言って馬鹿にしたわ。もし、フバードの言うとおりに、コンラートお兄さまに布を売ったとしたら、きっと同じ反応が返ってくるわ。私はそんな人たちに、この布を、絶対に渡さないわ!
「でも、誰に売ればいいの?どこにそんなあてがあるというの?」
ミーナは自室で一人頭を抱えた。
「なんだか、もう、疲れたわ…」
ミーナは寝台に倒れ込んだ。ミーナがあの布に託した誇りは、道ばたの草のように踏みにじられ、ミーナは商売へのやる気を失ってしまったのだ。
0
お気に入りに追加
31
あなたにおすすめの小説
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
【完結】365日後の花言葉
Ringo
恋愛
許せなかった。
幼い頃からの婚約者でもあり、誰よりも大好きで愛していたあなただからこそ。
あなたの裏切りを知った翌朝、私の元に届いたのはゼラニウムの花束。
“ごめんなさい”
言い訳もせず、拒絶し続ける私の元に通い続けるあなたの愛情を、私はもう一度信じてもいいの?
※勢いよく本編完結しまして、番外編ではイチャイチャするふたりのその後をお届けします。

【完結】彼を幸せにする十の方法
玉響なつめ
恋愛
貴族令嬢のフィリアには婚約者がいる。
フィリアが望んで結ばれた婚約、その相手であるキリアンはいつだって冷静だ。
婚約者としての義務は果たしてくれるし常に彼女を尊重してくれる。
しかし、フィリアが望まなければキリアンは動かない。
婚約したのだからいつかは心を開いてくれて、距離も縮まる――そう信じていたフィリアの心は、とある夜会での事件でぽっきり折れてしまった。
婚約を解消することは難しいが、少なくともこれ以上迷惑をかけずに夫婦としてどうあるべきか……フィリアは悩みながらも、キリアンが一番幸せになれる方法を探すために行動を起こすのだった。
※小説家になろう・カクヨムにも掲載しています。

【完結】お姉様の婚約者
七瀬菜々
恋愛
姉が失踪した。それは結婚式当日の朝のことだった。
残された私は家族のため、ひいては祖国のため、姉の婚約者と結婚した。
サイズの合わない純白のドレスを身に纏い、すまないと啜り泣く父に手を引かれ、困惑と同情と侮蔑の視線が交差するバージンロードを歩き、彼の手を取る。
誰が見ても哀れで、惨めで、不幸な結婚。
けれど私の心は晴れやかだった。
だって、ずっと片思いを続けていた人の隣に立てるのだから。
ーーーーーそう、だから私は、誰がなんと言おうと、シアワセだ。

忙しい男
菅井群青
恋愛
付き合っていた彼氏に別れを告げた。忙しいという彼を信じていたけれど、私から別れを告げる前に……きっと私は半分捨てられていたんだ。
「私のことなんてもうなんとも思ってないくせに」
「お前は一体俺の何を見て言ってる──お前は、俺を知らな過ぎる」
すれ違う想いはどうしてこうも上手くいかないのか。いつだって思うことはただ一つ、愛おしいという気持ちだ。
※ハッピーエンドです
かなりやきもきさせてしまうと思います。
どうか温かい目でみてやってくださいね。
※本編完結しました(2019/07/15)
スピンオフ &番外編
【泣く背中】 菊田夫妻のストーリーを追加しました(2019/08/19)
改稿 (2020/01/01)
本編のみカクヨムさんでも公開しました。
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中

夫は私を愛してくれない
はくまいキャベツ
恋愛
「今までお世話になりました」
「…ああ。ご苦労様」
彼はまるで長年勤めて退職する部下を労うかのように、妻である私にそう言った。いや、妻で“あった”私に。
二十数年間すれ違い続けた夫婦が別れを決めて、もう一度向き合う話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる