ミーナは糸を紡ぐ

田原更

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中編 ミーナは糸を染める

第41話 ミーナの旅(4)

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 老人は頭を抱え込み、視線を低く落として、話を続けた。
「儂はずっと、後悔していた。クラーラが商売の旅に出る際に、たとえ古くさいと笑われようとも、口うるさいと嫌われようとも、止めればよかったと。…しかし、それも過ぎたことじゃ。今、ここに、お前さんがいるということは、クラーラは誰かと結婚して、幸せな生涯を送ったのじゃろう?」
 老人は笑った。すがるような笑みだった。ミーナはしばらくの間、何も言えなかった。しかし、勇気を振り絞って口を開いた。
「お母さまは、貴族の妾として暮らしていました。わたしは妾の子として育ちました。ですが、その貴族とお母さまの間には、何もなかったと、あとになって知らされました。教えてください。誰か、心当たりはいませんか。わたしのお父さまは、いったい誰なのですか?」
 老人は目を閉じ、じっと考え込んでいた。長い、長い間沈黙が流れていった。ミーナは沈黙に耐えられず、残ったお茶を飲み干した。
「すまんのう、ミーナ。心当たりがありすぎて、答えようがないのじゃ」
 老人の意外な言葉に、ミーナは思わずむせてしまった。
「こ、心当たりがありすぎるとは、どういうことでしょうか?」
「この家を出たクラーラは恋多き娘になった。なにせ、あの顔じゃろう?あの、笑顔じゃろう?それで『クラーラは』なんて言って男に甘えるんじゃ。誰も彼もがクラーラを好きになった。クラーラは男から男へ、まるで蜜を求める蝶のように飛び回って、遊んでおったよ。男遊びはいい加減にしろと叱ったこともあるが、言うことを聞かなかった。
 じゃが、先ほどのお前さんの話を聞いて思ったのじゃ。クラーラは、儂の知らないところで、真に愛する男を見つけたのじゃろう。お前さんから察するに、赤毛の男かのう?じゃから、記憶を失い、貴族の男に拾われても、操を通したのじゃろうな。のう、聞かせておくれ、お前さんの知っているクラーラは、どんな母親だったのじゃ?」
 ミーナは微笑みながらこう答えた。
「お母さまは、とても優しくて、物語が大好きで、まるで女神のようなかたでした。わたしのことを、心から愛してくださいました」
 それを聞いた老人は、つっと涙を流した。
「おお、お前さんが、お前さんが、クラーラを元の優しいクラーラに戻してくれたのじゃ。ありがとう、ミーナ。お前さんが来てくれてよかった。お前さんの笑顔は、微笑みは、幼い頃の優しいクラーラにそっくりじゃった。もう日が暮れるから、帰りなさい。そしてまたいつの日にか、今度はお前さんの夫を連れて、ここに来ておくれ」

 こうして、ブラーヴァ国への旅は終わった。商売上では、何も得るもののない旅だった。しかし、ミーナにとって、人生で大切な宝物を得た旅だった。

 ビルング城が目の前に迫り、ミーナは馬車を降りた。フバードも馬車を降りた。
「若奥様、申し訳ありませんでした。結局、私は、あなたの商売の役には立てませんでした」
「何を言っているの、フバード。また、ブラーヴァ国に連れていってちょうだい。あなたが知っている街や店を、もっと見てみたいの」
 ミーナは少し甘えるような口調で言った。しかし、フバードは首を横に振った。
「若奥様。私はもう、行商人をやめ、故郷へ帰ろうと思っております。織物商の父の手伝いをしようと思うのです」
「そんな、どうして?ビルング城の皆が、あなたが持ってきてくれる商品を楽しみにしているのよ?」
 少し怒ったように話すミーナに対して、フバードは寂しそうに微笑みながら、話を続けた。
「若奥様、私も若奥様と同じように、商売人が直接生産者から物を仕入れ、販売するのがよいと考えていたのです。だから、親元を離れ、行商人になったのです。ですが、もう、疲れました。この、紙切れ一枚入る隙間もないような、商売人の世界の中で、たった一人で戦うのは。若奥様、あなたは本当に、人に頼るのが上手な方だ。あなたが笑うと、誰もがあなたの味方をしたくなる」
 今度はミーナが首を横に振った。
「私は、自分の力で何かを成したいのよ。何もできない子どもだと思われたくないの」
 それに、いくら私が微笑んだって、本当に頼りたい人は、振り向いてさえくれないのよ、という言葉を、ミーナはなんとか飲み込んだ。
「だったら、私だって何も出来ない子どもだ。若奥様は私のことをそう言って笑うのですか?」
「笑わないわ」
 ミーナは真っ直ぐにフバードを見つめた。フバードはいつぞや見せたような、作り物ではない笑顔を見せた。
「若奥様。世の中には色々な人がいて、それぞれが自分の立場を守って、頑張っているのです。物を売るにしても、何にしても、様々な立場の者が関わっているから、より大きなことを成せるのですよ。それをお伝えしたかったのです」
「…わかったわ。商売のことは、もう一度考えてみる。今までどうもありがとう。おかげでいい旅ができたわ」
 ミーナはフバードに手を差し出した。フバードはミーナの手をそっと握りしめた。ヘリガは見ないふりをしていた。
「さようなら、若奥様。どうぞお元気で」
 フバードは馬車に乗って、去っていった。ミーナは馬車が見えなくなるまで、その姿を見送った。

 フバードがいなくなったあと、入れ替わるように、ビルング城に新しい行商人がやってきた。ミーナは早速、その行商人に空色の布を売ろうとした。しかし、その行商人は、ミーナたちの布を一目見ただけで、こんな安っぽい色の布には、金貨一枚の価値もない、と決めつけた。ミーナはそれに激怒し、行商人を追い出してしまった。
 あの商人は、私たちの布を安っぽいと言って馬鹿にしたわ。もし、フバードの言うとおりに、コンラートお兄さまに布を売ったとしたら、きっと同じ反応が返ってくるわ。私はそんな人たちに、この布を、絶対に渡さないわ!
「でも、誰に売ればいいの?どこにそんなあてがあるというの?」
 ミーナは自室で一人頭を抱えた。
「なんだか、もう、疲れたわ…」
 ミーナは寝台に倒れ込んだ。ミーナがあの布に託した誇りは、道ばたの草のように踏みにじられ、ミーナは商売へのやる気を失ってしまったのだ。
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