37 / 63
中編 ミーナは糸を染める
第37話 空をまとって踊る(2)
しおりを挟む
ミーナは早速、ティベルダを呼んで、藍染めの方法を教えようとした。ところが、大きな問題が二つ起こった。一つは、ティベルダが藍染め小屋の悪臭に耐えられなかったことだ。
「若奥さま。あんまりですわ。確かに、わたくしはイェルクさまにあこがれておりました。でも、それは城じゅうの女たちが、多かれ少なかれ抱いていた気持ちでございます。わたくし一人だけを罰しようとお考えなのですか…」
ティベルダはさめざめと泣いた。もちろん、ミーナはティベルダを罰するつもりはなかった。このにおいに耐えられないというティベルダの気持ちも理解できた。このにおいが染みついたら、イェルクの側仕えはできそうにない。メイドたちの仕事に差し支えるようなことはさせたくなかった。
それに、藍を発酵させる際に尿を入れる現場に女たちが居合わせたら、とんでもないもめごとが起こりそうだと、ミーナは想像していた。ここで、女たちと男たちが棍棒でも持って争われたら城じゅうが大騒ぎになるだろう。ミーナは、染める仕事は藍染め職人たちに任せることにした。女だけがこの布づくりに携わるのではなく、男たちの力も借りて、ともに作り上げたほうが、よりよい布になると思ったのだ。
しかし、二つ目の問題が起きた。男たちはミーナの意見をはなから否定したのだ。薄い青の布や糸は、貧乏人の色だというのだ。
「若奥様、俺達ゃ、いかに濃い藍色を染めるかに力を注いできたんですぜ。若奥様は毎日見てらっしゃるはずですぜ?大旦那様や大奥様のお召し物の、深い、濃い色を」
染め物職人の親方が言うとおり、マルクスやカタリーナの服は深くて濃い藍色だ。はじめて会った日に見た、美しい色をミーナはよく覚えていた。それが家令や家臣たち、ヘリガのような身分の高いメイドや一般騎士たち、一般の使用人たちと下るにつれて、色が薄くなっていくのだ。色が濃いというのは、完成までに何度も染めているということで、つまりは手間がかかって高級なのだ。イェルクは黒髪の騎士の名のとおりに黒い服を着ていて、ミーナは内心、修道士のようでつまらないと思っていた。ミーナは赤い服や、ヘリガがあつらえてくれたような緑色の服を好んで着ていた。まだ若いので好きな服を着るというわがままが許されるのだ。
「それは理解しています。ですが、わたしはどこにもない布を作ろうとしているのです。こんな空色の服は、イメディング家の衣装入れにもありませんでした。若い女たちは、今にこの色のとりこになるでしょう。だって、素敵ではありませんか?空をまとって踊れるのですよ!」
ミーナはくるりと一回転してみせた。お義理の拍手すら起こらなかった。
「とにかく、お願いします。一度の染めで売れる布ができれば、手間も、時間も、藍玉も少なくてすみます。少ない費用で高く売れれば、それだけビルング家のためになります。どうか力を貸してください」
ミーナは微笑んだ。以前のように、若奥さまとしての誇りをかけて。しかし、親方は怒り出した。
「冗談じゃねぇ!俺達には、誇りがあるんだ!手間と時間と藍玉をたっぷり使って、いい色に染めることが、俺達職人の誇りなんだ!そんなけち臭いことはやってられねぇ!たとえそれがビルング家のためでも、だ!」
ミーナは職人たちの頑固さを思い知った。しかし、負けてはいられなかった。ミーナは目を伏せて、しばらく考えこんだ。
「わかりました。ではあなたたちは、その誇りにかけて今までどおり濃い藍色を染めてください。わたしたちが作る糸や布は、わたし自身が染めましょう。これからはこの小屋がわたしの部屋です。大丈夫です。あなたたちがここで何をしようと、わたしは気にしませんから」
ミーナは目を細めて、カタリーナのような慈愛の笑みを浮かべた。本心では、男たちがほとんど裸に近いような格好で、尿やらなにやら入れて藍玉を作る現場に居合わせるなど、卒倒しそうな思いがするのだ。
「ミーナお嬢さま、なんてことを…」
ヘリガがわなわな震えだすのを、ミーナは手で制した。そして、口元を崩さないように注意しながら目を見開き、染め物職人の親方の目をじっと見つめた。親方は困った顔をして、目線をあちこちに移し、やがてため息をついた。
「若奥様は強情っぱりなお人ですな。ちょろちょろされたら、こっちが落ちつかねぇ。わかりやした。若奥様がおっしゃる通りの色を染めてみやしょう。よく考えてみたら、俺達の誇りをかけた一発勝負の色を出せるのも、面白いかもしれねぇ。それに…」
ミーナは期待して親方の言葉を待ったが、親方は、ミーナが染めたおままごとの色が、ビルング家の色として出回るのは、職人の誇りにかけて許せないと言って、大声で笑い出したのだ。
こうして出来上がった空色の麻布は、今まで貧相とされた薄い青とは違う色味を持つ、どこでも見たことのない布となった。
「素晴らしいわ。これが貧相だなんて、誰にも言わせはしないわ」
ミーナはその布を可愛い我が子のように抱きしめ、頬ずりしてみせた。そして、多くの貴婦人たちが、空をまとって踊る姿を想像した。それはまるで、幼い頃に聞いた物語のように美しい光景だった。
「若奥さま。あんまりですわ。確かに、わたくしはイェルクさまにあこがれておりました。でも、それは城じゅうの女たちが、多かれ少なかれ抱いていた気持ちでございます。わたくし一人だけを罰しようとお考えなのですか…」
ティベルダはさめざめと泣いた。もちろん、ミーナはティベルダを罰するつもりはなかった。このにおいに耐えられないというティベルダの気持ちも理解できた。このにおいが染みついたら、イェルクの側仕えはできそうにない。メイドたちの仕事に差し支えるようなことはさせたくなかった。
それに、藍を発酵させる際に尿を入れる現場に女たちが居合わせたら、とんでもないもめごとが起こりそうだと、ミーナは想像していた。ここで、女たちと男たちが棍棒でも持って争われたら城じゅうが大騒ぎになるだろう。ミーナは、染める仕事は藍染め職人たちに任せることにした。女だけがこの布づくりに携わるのではなく、男たちの力も借りて、ともに作り上げたほうが、よりよい布になると思ったのだ。
しかし、二つ目の問題が起きた。男たちはミーナの意見をはなから否定したのだ。薄い青の布や糸は、貧乏人の色だというのだ。
「若奥様、俺達ゃ、いかに濃い藍色を染めるかに力を注いできたんですぜ。若奥様は毎日見てらっしゃるはずですぜ?大旦那様や大奥様のお召し物の、深い、濃い色を」
染め物職人の親方が言うとおり、マルクスやカタリーナの服は深くて濃い藍色だ。はじめて会った日に見た、美しい色をミーナはよく覚えていた。それが家令や家臣たち、ヘリガのような身分の高いメイドや一般騎士たち、一般の使用人たちと下るにつれて、色が薄くなっていくのだ。色が濃いというのは、完成までに何度も染めているということで、つまりは手間がかかって高級なのだ。イェルクは黒髪の騎士の名のとおりに黒い服を着ていて、ミーナは内心、修道士のようでつまらないと思っていた。ミーナは赤い服や、ヘリガがあつらえてくれたような緑色の服を好んで着ていた。まだ若いので好きな服を着るというわがままが許されるのだ。
「それは理解しています。ですが、わたしはどこにもない布を作ろうとしているのです。こんな空色の服は、イメディング家の衣装入れにもありませんでした。若い女たちは、今にこの色のとりこになるでしょう。だって、素敵ではありませんか?空をまとって踊れるのですよ!」
ミーナはくるりと一回転してみせた。お義理の拍手すら起こらなかった。
「とにかく、お願いします。一度の染めで売れる布ができれば、手間も、時間も、藍玉も少なくてすみます。少ない費用で高く売れれば、それだけビルング家のためになります。どうか力を貸してください」
ミーナは微笑んだ。以前のように、若奥さまとしての誇りをかけて。しかし、親方は怒り出した。
「冗談じゃねぇ!俺達には、誇りがあるんだ!手間と時間と藍玉をたっぷり使って、いい色に染めることが、俺達職人の誇りなんだ!そんなけち臭いことはやってられねぇ!たとえそれがビルング家のためでも、だ!」
ミーナは職人たちの頑固さを思い知った。しかし、負けてはいられなかった。ミーナは目を伏せて、しばらく考えこんだ。
「わかりました。ではあなたたちは、その誇りにかけて今までどおり濃い藍色を染めてください。わたしたちが作る糸や布は、わたし自身が染めましょう。これからはこの小屋がわたしの部屋です。大丈夫です。あなたたちがここで何をしようと、わたしは気にしませんから」
ミーナは目を細めて、カタリーナのような慈愛の笑みを浮かべた。本心では、男たちがほとんど裸に近いような格好で、尿やらなにやら入れて藍玉を作る現場に居合わせるなど、卒倒しそうな思いがするのだ。
「ミーナお嬢さま、なんてことを…」
ヘリガがわなわな震えだすのを、ミーナは手で制した。そして、口元を崩さないように注意しながら目を見開き、染め物職人の親方の目をじっと見つめた。親方は困った顔をして、目線をあちこちに移し、やがてため息をついた。
「若奥様は強情っぱりなお人ですな。ちょろちょろされたら、こっちが落ちつかねぇ。わかりやした。若奥様がおっしゃる通りの色を染めてみやしょう。よく考えてみたら、俺達の誇りをかけた一発勝負の色を出せるのも、面白いかもしれねぇ。それに…」
ミーナは期待して親方の言葉を待ったが、親方は、ミーナが染めたおままごとの色が、ビルング家の色として出回るのは、職人の誇りにかけて許せないと言って、大声で笑い出したのだ。
こうして出来上がった空色の麻布は、今まで貧相とされた薄い青とは違う色味を持つ、どこでも見たことのない布となった。
「素晴らしいわ。これが貧相だなんて、誰にも言わせはしないわ」
ミーナはその布を可愛い我が子のように抱きしめ、頬ずりしてみせた。そして、多くの貴婦人たちが、空をまとって踊る姿を想像した。それはまるで、幼い頃に聞いた物語のように美しい光景だった。
0
お気に入りに追加
31
あなたにおすすめの小説
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
【完結】365日後の花言葉
Ringo
恋愛
許せなかった。
幼い頃からの婚約者でもあり、誰よりも大好きで愛していたあなただからこそ。
あなたの裏切りを知った翌朝、私の元に届いたのはゼラニウムの花束。
“ごめんなさい”
言い訳もせず、拒絶し続ける私の元に通い続けるあなたの愛情を、私はもう一度信じてもいいの?
※勢いよく本編完結しまして、番外編ではイチャイチャするふたりのその後をお届けします。

【完結】彼を幸せにする十の方法
玉響なつめ
恋愛
貴族令嬢のフィリアには婚約者がいる。
フィリアが望んで結ばれた婚約、その相手であるキリアンはいつだって冷静だ。
婚約者としての義務は果たしてくれるし常に彼女を尊重してくれる。
しかし、フィリアが望まなければキリアンは動かない。
婚約したのだからいつかは心を開いてくれて、距離も縮まる――そう信じていたフィリアの心は、とある夜会での事件でぽっきり折れてしまった。
婚約を解消することは難しいが、少なくともこれ以上迷惑をかけずに夫婦としてどうあるべきか……フィリアは悩みながらも、キリアンが一番幸せになれる方法を探すために行動を起こすのだった。
※小説家になろう・カクヨムにも掲載しています。

【完結】お姉様の婚約者
七瀬菜々
恋愛
姉が失踪した。それは結婚式当日の朝のことだった。
残された私は家族のため、ひいては祖国のため、姉の婚約者と結婚した。
サイズの合わない純白のドレスを身に纏い、すまないと啜り泣く父に手を引かれ、困惑と同情と侮蔑の視線が交差するバージンロードを歩き、彼の手を取る。
誰が見ても哀れで、惨めで、不幸な結婚。
けれど私の心は晴れやかだった。
だって、ずっと片思いを続けていた人の隣に立てるのだから。
ーーーーーそう、だから私は、誰がなんと言おうと、シアワセだ。

忙しい男
菅井群青
恋愛
付き合っていた彼氏に別れを告げた。忙しいという彼を信じていたけれど、私から別れを告げる前に……きっと私は半分捨てられていたんだ。
「私のことなんてもうなんとも思ってないくせに」
「お前は一体俺の何を見て言ってる──お前は、俺を知らな過ぎる」
すれ違う想いはどうしてこうも上手くいかないのか。いつだって思うことはただ一つ、愛おしいという気持ちだ。
※ハッピーエンドです
かなりやきもきさせてしまうと思います。
どうか温かい目でみてやってくださいね。
※本編完結しました(2019/07/15)
スピンオフ &番外編
【泣く背中】 菊田夫妻のストーリーを追加しました(2019/08/19)
改稿 (2020/01/01)
本編のみカクヨムさんでも公開しました。
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中

夫は私を愛してくれない
はくまいキャベツ
恋愛
「今までお世話になりました」
「…ああ。ご苦労様」
彼はまるで長年勤めて退職する部下を労うかのように、妻である私にそう言った。いや、妻で“あった”私に。
二十数年間すれ違い続けた夫婦が別れを決めて、もう一度向き合う話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる