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中編 ミーナは糸を染める
第34話 カタリーナの炎(2)
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カタリーナはミーナを部屋に通してくれた。カタリーナは寝台に腰掛けていたが、よろよろと立ち上がり、ミーナとテーブルごしに向かい合った。
「お義母さま、お昼は軽々しいことを口にして申し訳ありませんでした」
ミーナは頭を下げた。カタリーナは小刻みに首を振った。
「そのことはもういいの。私が悪かったわ」
カタリーナは微笑んだ。でもその微笑みは、明らかにいつもと違っていた。
「お義母さま、わたしは他にも、なにかお義母さまを傷つけるような態度を取ったのでしょうか?もし、そうだとしたら謝ります」
ミーナがそう言うと、カタリーナは震える手を伸ばし、ミーナの手を取った。
「優しい子ね。あなたのせいではないのよ。もちろん、マルクスのせいでもない。ただ、わたしは…わたし自身の過ちを思い出しただけ」
「過ち…」
それが何なのかは、ミーナも薄々わかっていた。ミーナの母クラーラが、残酷と評したことだ。
「燃えさかる炎。確かにそうね。あれはまさに燃えさかる炎のような、どうすることもできない、強い感情だった」
カタリーナはミーナの手を強く握りしめて、唇を震わせた。
「わたしは、次に倒れたら、もう長くないと思うわ。だから、聞いてちょうだい、わたしの懺悔を…」
ミーナは首を振った。
「お義母さま、何をおっしゃるのです。もう長くないだとか、懺悔だとか…」
カタリーナはミーナの手をさらに強い力で握りしめた。ミーナは覚悟を決めた。
「わかりました。曲がりなりにも修道女を目指したわたしに、どうかお話しください」
ミーナが答えると、カタリーナは鏡台に向かい、鏡台の引き出しから、珊瑚でできた美しい首飾りを取り出した。血のように赤い珊瑚を、燃えさかる炎を思わせるような形に削り、ぴかぴかに磨いた、手の込んだ品だった。
「まあ、なんて素敵な。それにこちらは…ずいぶん、高価な品だと思いますが」
少々下品だと思ったが、ミーナは思ったまま口に出した。
「以前、見せてあげると約束したのに、そのまま忘れてしまったわ。これは、マルクスがわたしの誕生日に贈ってくれた品なの」
「ああ、そうでしたね。確か、結婚してから初めて迎えた誕生日に贈った品だと。お義父さまはずいぶん情熱的ですね。この炎が、お義母さまへの思いの形だとおっしゃりたかったのかしら」
ミーナはあの日と同じように、二人を心底うらやましいと思った。カタリーナはくすくすと笑った。
「違うのよ。これは負けず嫌いの炎。マルクスはね、贈り物の豪華さでも、人に負けたくなかったのよ」
「どういうことですか?」
ミーナは不思議そうにカタリーナの顔をのぞき込んだ。カタリーナはまた、いつもと違う悲しげな微笑みをうかべた。
「わたしはね、ここに嫁ぐ前に、別の家に嫁いでいたのよ。そしてそこで女の子を産んだ…。ここからが、わたしの懺悔よ。よく聞いてちょうだい」
「わたしは、行儀見習いに行った家に、そのまま嫁いだの。ここよりもずっといい家柄のところよ。
でも、わたしは少しも幸せではなかったわ。結婚相手は、わたしをいつまでも奉公人のように扱ったわ。もちろん、心のこもった贈り物をもらったこともなかった。今思うと、あの人もただ不器用なだけだったのかもしれないけれど、当時のわたしにそんなことを考える余裕はなかった。ただね、物はいくらでもあったわ。着る物も、食べる物も、美しい宝石も…。でも、何一つとして、わたしの心を満たしてくれる物はなかった。愛していない人と肌をあわせて暮らす日々は、苦痛以外の何物でもなかったの。
だけど、ある日わたしに子どもができた。そのときは嬉しくて、天にも昇る心地がしたわ。この世の中に、わたしの血を分けた存在が産まれてくるのよ。その喜びったら、なかったわ。それにね、これで、わたしもこの家の嫁として受け容れられて、あの人に愛してもらえると思ったの。おかしいでしょう?わたしはあの人を少しも愛していなかったのに。
あの人も子どもができたことを喜んだわ。わたしは、なんとしても跡継ぎを産もうと思った。お腹の子どもを大事にしようと、いつも神経をとがらせていたわ。それでますます、あの人とのあいだに深い溝が走った。
そのころ、デゼルタ国とのあいだで大きな戦が起きたの。当時の国王さまは国中の貴族に息子たちを戦場に出すよう要請されたわ。この国の南の方にあったあの家では、今まで息子を戦に出したことなどなかったのだけど、断ることはできず、ついにあの人は戦に旅立つことになった。そして…二度と帰ってはこなかった。
わたしはあの人を哀れんだわ。若くして亡くなるなんて、かわいそうだと。だけど、それ以上の感情はわいてこなかった。わたしの頭の中にあったのは、なんとしてでも、お腹の子どもを守ることだけだった。そしてわたしは子どもを産んだ。かわいい女の子だったわ。わたしは生まれて初めて、この命に代えても守るべきものができたと思った。跡継ぎが産まれずにがっかりする義家族から、この子を命がけで守らなくては、と思ったの。わたしは部屋にこもり、誰にも子どもを触らせようとしなかった。それは大きな過ちだった。まだ若いわたしは、子どもの小さな異変に気づかないまま、産まれた子どもを死なせてしまった…」
カタリーナはしばらくの間嗚咽した。ミーナは決して口を開かず、ただ、カタリーナの背中をさすり続けた。
「お義母さま、お昼は軽々しいことを口にして申し訳ありませんでした」
ミーナは頭を下げた。カタリーナは小刻みに首を振った。
「そのことはもういいの。私が悪かったわ」
カタリーナは微笑んだ。でもその微笑みは、明らかにいつもと違っていた。
「お義母さま、わたしは他にも、なにかお義母さまを傷つけるような態度を取ったのでしょうか?もし、そうだとしたら謝ります」
ミーナがそう言うと、カタリーナは震える手を伸ばし、ミーナの手を取った。
「優しい子ね。あなたのせいではないのよ。もちろん、マルクスのせいでもない。ただ、わたしは…わたし自身の過ちを思い出しただけ」
「過ち…」
それが何なのかは、ミーナも薄々わかっていた。ミーナの母クラーラが、残酷と評したことだ。
「燃えさかる炎。確かにそうね。あれはまさに燃えさかる炎のような、どうすることもできない、強い感情だった」
カタリーナはミーナの手を強く握りしめて、唇を震わせた。
「わたしは、次に倒れたら、もう長くないと思うわ。だから、聞いてちょうだい、わたしの懺悔を…」
ミーナは首を振った。
「お義母さま、何をおっしゃるのです。もう長くないだとか、懺悔だとか…」
カタリーナはミーナの手をさらに強い力で握りしめた。ミーナは覚悟を決めた。
「わかりました。曲がりなりにも修道女を目指したわたしに、どうかお話しください」
ミーナが答えると、カタリーナは鏡台に向かい、鏡台の引き出しから、珊瑚でできた美しい首飾りを取り出した。血のように赤い珊瑚を、燃えさかる炎を思わせるような形に削り、ぴかぴかに磨いた、手の込んだ品だった。
「まあ、なんて素敵な。それにこちらは…ずいぶん、高価な品だと思いますが」
少々下品だと思ったが、ミーナは思ったまま口に出した。
「以前、見せてあげると約束したのに、そのまま忘れてしまったわ。これは、マルクスがわたしの誕生日に贈ってくれた品なの」
「ああ、そうでしたね。確か、結婚してから初めて迎えた誕生日に贈った品だと。お義父さまはずいぶん情熱的ですね。この炎が、お義母さまへの思いの形だとおっしゃりたかったのかしら」
ミーナはあの日と同じように、二人を心底うらやましいと思った。カタリーナはくすくすと笑った。
「違うのよ。これは負けず嫌いの炎。マルクスはね、贈り物の豪華さでも、人に負けたくなかったのよ」
「どういうことですか?」
ミーナは不思議そうにカタリーナの顔をのぞき込んだ。カタリーナはまた、いつもと違う悲しげな微笑みをうかべた。
「わたしはね、ここに嫁ぐ前に、別の家に嫁いでいたのよ。そしてそこで女の子を産んだ…。ここからが、わたしの懺悔よ。よく聞いてちょうだい」
「わたしは、行儀見習いに行った家に、そのまま嫁いだの。ここよりもずっといい家柄のところよ。
でも、わたしは少しも幸せではなかったわ。結婚相手は、わたしをいつまでも奉公人のように扱ったわ。もちろん、心のこもった贈り物をもらったこともなかった。今思うと、あの人もただ不器用なだけだったのかもしれないけれど、当時のわたしにそんなことを考える余裕はなかった。ただね、物はいくらでもあったわ。着る物も、食べる物も、美しい宝石も…。でも、何一つとして、わたしの心を満たしてくれる物はなかった。愛していない人と肌をあわせて暮らす日々は、苦痛以外の何物でもなかったの。
だけど、ある日わたしに子どもができた。そのときは嬉しくて、天にも昇る心地がしたわ。この世の中に、わたしの血を分けた存在が産まれてくるのよ。その喜びったら、なかったわ。それにね、これで、わたしもこの家の嫁として受け容れられて、あの人に愛してもらえると思ったの。おかしいでしょう?わたしはあの人を少しも愛していなかったのに。
あの人も子どもができたことを喜んだわ。わたしは、なんとしても跡継ぎを産もうと思った。お腹の子どもを大事にしようと、いつも神経をとがらせていたわ。それでますます、あの人とのあいだに深い溝が走った。
そのころ、デゼルタ国とのあいだで大きな戦が起きたの。当時の国王さまは国中の貴族に息子たちを戦場に出すよう要請されたわ。この国の南の方にあったあの家では、今まで息子を戦に出したことなどなかったのだけど、断ることはできず、ついにあの人は戦に旅立つことになった。そして…二度と帰ってはこなかった。
わたしはあの人を哀れんだわ。若くして亡くなるなんて、かわいそうだと。だけど、それ以上の感情はわいてこなかった。わたしの頭の中にあったのは、なんとしてでも、お腹の子どもを守ることだけだった。そしてわたしは子どもを産んだ。かわいい女の子だったわ。わたしは生まれて初めて、この命に代えても守るべきものができたと思った。跡継ぎが産まれずにがっかりする義家族から、この子を命がけで守らなくては、と思ったの。わたしは部屋にこもり、誰にも子どもを触らせようとしなかった。それは大きな過ちだった。まだ若いわたしは、子どもの小さな異変に気づかないまま、産まれた子どもを死なせてしまった…」
カタリーナはしばらくの間嗚咽した。ミーナは決して口を開かず、ただ、カタリーナの背中をさすり続けた。
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