ミーナは糸を紡ぐ

田原更

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中編 ミーナは糸を染める

第29話 希望を染める(1)

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 湯がしゅわしゅわと沸いた。ミーナは熱湯を、今朝摘んだばかりの早咲きのカモミールを入れた器に注いだ。りんごのような甘い香りがふわりと漂った。その香りは過ぎ去っていった冬を思わせた。
 ミーナがビルング家に嫁いでから一年が経ち、二度目の春がやってきた。憧れていた暮らしとはかけ離れた日々を送るうちに、ミーナの胸に諦めの気持ちがわいてきた。
「どちらにしても、私の暮らしに人の愛など存在しないのだわ」
 ミーナはため息をついた。毎日が退屈でたまらなかった。糸を紡ぐのは、冬のうちに終わってしまった。他の娘がやったならもっと早く終わるのだから仕方がないが。最近は畑を軽く耕し、カモミールなどの香草を摘み、朝昼晩薬湯を作り、午後からはヘリガと語らうだけの日々だ。これだったら、修道女になったほうが退屈しなかったかもしれない、とミーナは考えていた。修道女と言ってもただ祈るだけの日々ではない。やることはたくさんあるし、楽しいこともたくさんあった。今ではあのアラリケのことさえ懐かしいとまで感じるようになった。
 ミーナは先ほど淹れた薬湯が人肌に冷めるまで待っていた。この薬湯はカタリーナに飲ませるのだ。昨年の秋に元気を取り戻したカタリーナは、この冬の寒さでまた体調を悪くした。医者は、大奥様はもうお年を召しているから、これからよくなったり悪くなったりを繰り返すうちに、だんだん体調のよい時期が短くなっていくだろうと、マルクスやミーナに語った。マルクスはまた、猪狩りをすると息巻いたが、勢い余って腰を痛めてしまい、大人しくなった。彼もまた老いが進んでいるのだ。
 ミーナは老いた義両親を見て焦りを感じていた。ミーナはこの義両親を深く愛していた。なにしろ、夫のイェルクよりはるかに長い時間を、この城でともに過ごしているからだ。最近、ミーナはこの家に嫁いだのではなく、この家の養女になったのだと思うようになっていた。
「あちらでも、こちらでも、冷たいお兄さまを持ったものだわ」
 ミーナは皮肉にもそう考えるようになっていた。コンラートお兄さまはもちろん冷たいけど、あの優しかったイェルクお兄さまも、今ではすっかり冷たくなって、帰ってすらこなくなったわ。わたしはいったい何なのかしらと、ミーナは毎日自分に問いかけた。金の鞠も、女神像も、鏡台の引き出しにしまいこんだままだ。ミーナは厚手の布では飽き足らず、あのイメディング家の部屋の鏡台のように、鏡に扉をつけてしまった。
「あ、いけない。このままだと、薬湯まで冷め切ってしまうわ」
 ミーナは薬湯を持ってカタリーナの部屋に急いだ。

「お義母さま、薬湯をお持ちしました」
「ミーナ、来てくれたのね」
 カタリーナは身体を起こし、ミーナを出迎えた。無理して起き上がっているのがわかるので、ミーナは少し辛かった。
「どうぞ、ゆっくりお召し上がりください」
 ミーナはカタリーナに薬湯を差し出した。カタリーナはゆっくり薬湯を飲み込んだ。
「おいしいわ。あなたの薬湯は、お医者さまの薬よりずっとよく効く気がするわ」
 カタリーナは微笑んだ。しかし、それもミーナには辛かった。心優しいカタリーナは、そうやってみんなに、「一番効く」とか「よく効く」と言っているのだ。辛い時でも周囲に気を遣う優しいカタリーナが、だんだん弱っていくのを見るのは堪えるのだ。
「ありがとうございます、お義母さま。さあ、ゆっくりお休みください」
 ミーナはカタリーナの身体をそっと横たえた。カタリーナはすぐに目を閉じずに、ミーナのほうを向いた。
「そろそろ、ウォードを収穫する時期ね」
 ウォードはもちろん、麻糸を青く染めるために育てている植物のことだ。
「ええ、明日収穫します。これから藍玉(※)作りに取りかかるのですが、どうやらものすごいにおいがするらしいので、しばらくはお義母さまのところに来られないかもしれません。でも、ご安心ください。メイドたちに薬湯の作り方を教えますから」
 ミーナが染め物職人に効いたところによると、ウォードで染料を作るには、葉を石臼で挽いてから桶に入れて発酵させるのだが、その過程でものすごいにおいがするというのだ。染め物の職人は、病人がかいでいいにおいとはとても言えない、と話していた。もしミーナの身体ににおいが移ったら、カタリーナに会うわけにはいかなかった。
「ありがとう、ミーナ。あなたきっと、いい領主夫人になるわ」
 ミーナは自分がそうなれる気がしないので、なんだか気後れした。
「そうなるには、お義母さまにもっとたくさん教えていただかないと。もうお休みになって、元気になったら、色々教えてくださいね」
 ミーナはそう言うと、カタリーナが目を閉じたのを確認してから部屋をあとにした。部屋の外で待っていたカタリーナのメイドが入れ替わりに部屋に入っていった。まずはこのメイドに薬湯作りを教えなくては、とミーナは考えていた。

※藍玉:藍染の中間原料である「すくも」を固めて球状にしたもの。
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