29 / 63
中編 ミーナは糸を染める
第29話 希望を染める(1)
しおりを挟む
湯がしゅわしゅわと沸いた。ミーナは熱湯を、今朝摘んだばかりの早咲きのカモミールを入れた器に注いだ。りんごのような甘い香りがふわりと漂った。その香りは過ぎ去っていった冬を思わせた。
ミーナがビルング家に嫁いでから一年が経ち、二度目の春がやってきた。憧れていた暮らしとはかけ離れた日々を送るうちに、ミーナの胸に諦めの気持ちがわいてきた。
「どちらにしても、私の暮らしに人の愛など存在しないのだわ」
ミーナはため息をついた。毎日が退屈でたまらなかった。糸を紡ぐのは、冬のうちに終わってしまった。他の娘がやったならもっと早く終わるのだから仕方がないが。最近は畑を軽く耕し、カモミールなどの香草を摘み、朝昼晩薬湯を作り、午後からはヘリガと語らうだけの日々だ。これだったら、修道女になったほうが退屈しなかったかもしれない、とミーナは考えていた。修道女と言ってもただ祈るだけの日々ではない。やることはたくさんあるし、楽しいこともたくさんあった。今ではあのアラリケのことさえ懐かしいとまで感じるようになった。
ミーナは先ほど淹れた薬湯が人肌に冷めるまで待っていた。この薬湯はカタリーナに飲ませるのだ。昨年の秋に元気を取り戻したカタリーナは、この冬の寒さでまた体調を悪くした。医者は、大奥様はもうお年を召しているから、これからよくなったり悪くなったりを繰り返すうちに、だんだん体調のよい時期が短くなっていくだろうと、マルクスやミーナに語った。マルクスはまた、猪狩りをすると息巻いたが、勢い余って腰を痛めてしまい、大人しくなった。彼もまた老いが進んでいるのだ。
ミーナは老いた義両親を見て焦りを感じていた。ミーナはこの義両親を深く愛していた。なにしろ、夫のイェルクよりはるかに長い時間を、この城でともに過ごしているからだ。最近、ミーナはこの家に嫁いだのではなく、この家の養女になったのだと思うようになっていた。
「あちらでも、こちらでも、冷たいお兄さまを持ったものだわ」
ミーナは皮肉にもそう考えるようになっていた。コンラートお兄さまはもちろん冷たいけど、あの優しかったイェルクお兄さまも、今ではすっかり冷たくなって、帰ってすらこなくなったわ。わたしはいったい何なのかしらと、ミーナは毎日自分に問いかけた。金の鞠も、女神像も、鏡台の引き出しにしまいこんだままだ。ミーナは厚手の布では飽き足らず、あのイメディング家の部屋の鏡台のように、鏡に扉をつけてしまった。
「あ、いけない。このままだと、薬湯まで冷め切ってしまうわ」
ミーナは薬湯を持ってカタリーナの部屋に急いだ。
「お義母さま、薬湯をお持ちしました」
「ミーナ、来てくれたのね」
カタリーナは身体を起こし、ミーナを出迎えた。無理して起き上がっているのがわかるので、ミーナは少し辛かった。
「どうぞ、ゆっくりお召し上がりください」
ミーナはカタリーナに薬湯を差し出した。カタリーナはゆっくり薬湯を飲み込んだ。
「おいしいわ。あなたの薬湯は、お医者さまの薬よりずっとよく効く気がするわ」
カタリーナは微笑んだ。しかし、それもミーナには辛かった。心優しいカタリーナは、そうやってみんなに、「一番効く」とか「よく効く」と言っているのだ。辛い時でも周囲に気を遣う優しいカタリーナが、だんだん弱っていくのを見るのは堪えるのだ。
「ありがとうございます、お義母さま。さあ、ゆっくりお休みください」
ミーナはカタリーナの身体をそっと横たえた。カタリーナはすぐに目を閉じずに、ミーナのほうを向いた。
「そろそろ、ウォードを収穫する時期ね」
ウォードはもちろん、麻糸を青く染めるために育てている植物のことだ。
「ええ、明日収穫します。これから藍玉(※)作りに取りかかるのですが、どうやらものすごいにおいがするらしいので、しばらくはお義母さまのところに来られないかもしれません。でも、ご安心ください。メイドたちに薬湯の作り方を教えますから」
ミーナが染め物職人に効いたところによると、ウォードで染料を作るには、葉を石臼で挽いてから桶に入れて発酵させるのだが、その過程でものすごいにおいがするというのだ。染め物の職人は、病人がかいでいいにおいとはとても言えない、と話していた。もしミーナの身体ににおいが移ったら、カタリーナに会うわけにはいかなかった。
「ありがとう、ミーナ。あなたきっと、いい領主夫人になるわ」
ミーナは自分がそうなれる気がしないので、なんだか気後れした。
「そうなるには、お義母さまにもっとたくさん教えていただかないと。もうお休みになって、元気になったら、色々教えてくださいね」
ミーナはそう言うと、カタリーナが目を閉じたのを確認してから部屋をあとにした。部屋の外で待っていたカタリーナのメイドが入れ替わりに部屋に入っていった。まずはこのメイドに薬湯作りを教えなくては、とミーナは考えていた。
※藍玉:藍染の中間原料である「すくも」を固めて球状にしたもの。
ミーナがビルング家に嫁いでから一年が経ち、二度目の春がやってきた。憧れていた暮らしとはかけ離れた日々を送るうちに、ミーナの胸に諦めの気持ちがわいてきた。
「どちらにしても、私の暮らしに人の愛など存在しないのだわ」
ミーナはため息をついた。毎日が退屈でたまらなかった。糸を紡ぐのは、冬のうちに終わってしまった。他の娘がやったならもっと早く終わるのだから仕方がないが。最近は畑を軽く耕し、カモミールなどの香草を摘み、朝昼晩薬湯を作り、午後からはヘリガと語らうだけの日々だ。これだったら、修道女になったほうが退屈しなかったかもしれない、とミーナは考えていた。修道女と言ってもただ祈るだけの日々ではない。やることはたくさんあるし、楽しいこともたくさんあった。今ではあのアラリケのことさえ懐かしいとまで感じるようになった。
ミーナは先ほど淹れた薬湯が人肌に冷めるまで待っていた。この薬湯はカタリーナに飲ませるのだ。昨年の秋に元気を取り戻したカタリーナは、この冬の寒さでまた体調を悪くした。医者は、大奥様はもうお年を召しているから、これからよくなったり悪くなったりを繰り返すうちに、だんだん体調のよい時期が短くなっていくだろうと、マルクスやミーナに語った。マルクスはまた、猪狩りをすると息巻いたが、勢い余って腰を痛めてしまい、大人しくなった。彼もまた老いが進んでいるのだ。
ミーナは老いた義両親を見て焦りを感じていた。ミーナはこの義両親を深く愛していた。なにしろ、夫のイェルクよりはるかに長い時間を、この城でともに過ごしているからだ。最近、ミーナはこの家に嫁いだのではなく、この家の養女になったのだと思うようになっていた。
「あちらでも、こちらでも、冷たいお兄さまを持ったものだわ」
ミーナは皮肉にもそう考えるようになっていた。コンラートお兄さまはもちろん冷たいけど、あの優しかったイェルクお兄さまも、今ではすっかり冷たくなって、帰ってすらこなくなったわ。わたしはいったい何なのかしらと、ミーナは毎日自分に問いかけた。金の鞠も、女神像も、鏡台の引き出しにしまいこんだままだ。ミーナは厚手の布では飽き足らず、あのイメディング家の部屋の鏡台のように、鏡に扉をつけてしまった。
「あ、いけない。このままだと、薬湯まで冷め切ってしまうわ」
ミーナは薬湯を持ってカタリーナの部屋に急いだ。
「お義母さま、薬湯をお持ちしました」
「ミーナ、来てくれたのね」
カタリーナは身体を起こし、ミーナを出迎えた。無理して起き上がっているのがわかるので、ミーナは少し辛かった。
「どうぞ、ゆっくりお召し上がりください」
ミーナはカタリーナに薬湯を差し出した。カタリーナはゆっくり薬湯を飲み込んだ。
「おいしいわ。あなたの薬湯は、お医者さまの薬よりずっとよく効く気がするわ」
カタリーナは微笑んだ。しかし、それもミーナには辛かった。心優しいカタリーナは、そうやってみんなに、「一番効く」とか「よく効く」と言っているのだ。辛い時でも周囲に気を遣う優しいカタリーナが、だんだん弱っていくのを見るのは堪えるのだ。
「ありがとうございます、お義母さま。さあ、ゆっくりお休みください」
ミーナはカタリーナの身体をそっと横たえた。カタリーナはすぐに目を閉じずに、ミーナのほうを向いた。
「そろそろ、ウォードを収穫する時期ね」
ウォードはもちろん、麻糸を青く染めるために育てている植物のことだ。
「ええ、明日収穫します。これから藍玉(※)作りに取りかかるのですが、どうやらものすごいにおいがするらしいので、しばらくはお義母さまのところに来られないかもしれません。でも、ご安心ください。メイドたちに薬湯の作り方を教えますから」
ミーナが染め物職人に効いたところによると、ウォードで染料を作るには、葉を石臼で挽いてから桶に入れて発酵させるのだが、その過程でものすごいにおいがするというのだ。染め物の職人は、病人がかいでいいにおいとはとても言えない、と話していた。もしミーナの身体ににおいが移ったら、カタリーナに会うわけにはいかなかった。
「ありがとう、ミーナ。あなたきっと、いい領主夫人になるわ」
ミーナは自分がそうなれる気がしないので、なんだか気後れした。
「そうなるには、お義母さまにもっとたくさん教えていただかないと。もうお休みになって、元気になったら、色々教えてくださいね」
ミーナはそう言うと、カタリーナが目を閉じたのを確認してから部屋をあとにした。部屋の外で待っていたカタリーナのメイドが入れ替わりに部屋に入っていった。まずはこのメイドに薬湯作りを教えなくては、とミーナは考えていた。
※藍玉:藍染の中間原料である「すくも」を固めて球状にしたもの。
0
お気に入りに追加
31
あなたにおすすめの小説
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
【完結】365日後の花言葉
Ringo
恋愛
許せなかった。
幼い頃からの婚約者でもあり、誰よりも大好きで愛していたあなただからこそ。
あなたの裏切りを知った翌朝、私の元に届いたのはゼラニウムの花束。
“ごめんなさい”
言い訳もせず、拒絶し続ける私の元に通い続けるあなたの愛情を、私はもう一度信じてもいいの?
※勢いよく本編完結しまして、番外編ではイチャイチャするふたりのその後をお届けします。

【完結】彼を幸せにする十の方法
玉響なつめ
恋愛
貴族令嬢のフィリアには婚約者がいる。
フィリアが望んで結ばれた婚約、その相手であるキリアンはいつだって冷静だ。
婚約者としての義務は果たしてくれるし常に彼女を尊重してくれる。
しかし、フィリアが望まなければキリアンは動かない。
婚約したのだからいつかは心を開いてくれて、距離も縮まる――そう信じていたフィリアの心は、とある夜会での事件でぽっきり折れてしまった。
婚約を解消することは難しいが、少なくともこれ以上迷惑をかけずに夫婦としてどうあるべきか……フィリアは悩みながらも、キリアンが一番幸せになれる方法を探すために行動を起こすのだった。
※小説家になろう・カクヨムにも掲載しています。

【完結】お姉様の婚約者
七瀬菜々
恋愛
姉が失踪した。それは結婚式当日の朝のことだった。
残された私は家族のため、ひいては祖国のため、姉の婚約者と結婚した。
サイズの合わない純白のドレスを身に纏い、すまないと啜り泣く父に手を引かれ、困惑と同情と侮蔑の視線が交差するバージンロードを歩き、彼の手を取る。
誰が見ても哀れで、惨めで、不幸な結婚。
けれど私の心は晴れやかだった。
だって、ずっと片思いを続けていた人の隣に立てるのだから。
ーーーーーそう、だから私は、誰がなんと言おうと、シアワセだ。

忙しい男
菅井群青
恋愛
付き合っていた彼氏に別れを告げた。忙しいという彼を信じていたけれど、私から別れを告げる前に……きっと私は半分捨てられていたんだ。
「私のことなんてもうなんとも思ってないくせに」
「お前は一体俺の何を見て言ってる──お前は、俺を知らな過ぎる」
すれ違う想いはどうしてこうも上手くいかないのか。いつだって思うことはただ一つ、愛おしいという気持ちだ。
※ハッピーエンドです
かなりやきもきさせてしまうと思います。
どうか温かい目でみてやってくださいね。
※本編完結しました(2019/07/15)
スピンオフ &番外編
【泣く背中】 菊田夫妻のストーリーを追加しました(2019/08/19)
改稿 (2020/01/01)
本編のみカクヨムさんでも公開しました。
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中

夫は私を愛してくれない
はくまいキャベツ
恋愛
「今までお世話になりました」
「…ああ。ご苦労様」
彼はまるで長年勤めて退職する部下を労うかのように、妻である私にそう言った。いや、妻で“あった”私に。
二十数年間すれ違い続けた夫婦が別れを決めて、もう一度向き合う話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる