ミーナは糸を紡ぐ

田原更

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中編 ミーナは糸を染める

第27話 二つの女神像(1)

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 吟遊詩人がやってきた二日後、イェルクが帰ってきた。ミーナはあの日の真夜中から頭痛が治らず、部屋で休んでいた。イェルクの帰宅を知ると出迎えにあがろうとしたが、ヘリガに休んでいるように言われ、横になっていた。
 正餐の時間の前に、イェルクが部屋を訪ねてきた。ミーナは手ぐしで髪をさっと整えると、寝台に寝転んだままイェルクを出迎えた。このときばかりは、ミーナは自分の赤い顔を好ましく思った。赤い顔で寝込む自分を見たら、心配してしばらく城にいてくれると思ったのだ。
「イェルク、おかえりなさい」
 ミーナは身体を起こし、あえて弱々しい声を出した。
「無理して起き上がることはない。休んでいろ」
 イェルクはぶっきらぼうに答えた。
「大丈夫です。ヘリガが大げさなのです。わたしは出迎えに行くと言ったのに」
 そう言うとミーナは、わざとらしく咳をした。
「休んでいろと言っただろう」
 イェルクはミーナに近寄り、ミーナの身体をそっと横たえた。心臓が破裂しそうなほど脈打った。こんなに二人が近づいたのはいつ以来だろう。
「胸の鼓動が速すぎる。医者を呼ぶから待っていろ」
「待って!」
 ミーナはイェルクの服の裾をつかんで呼び止めた。
「待ってください。贈り物は?贈り物をください。わたし、楽しみにしていたのです」
「そんなことより、医者を…」
 部屋を出ようとするイェルクの背中にミーナは抱きついた。
「…熱でもあるのかと思ったが、元気そうだな」
 ミーナはいたずらっぽく笑って、イェルクの背中をさらにきつく抱きしめた。
「熱はありません。咳は嘘です。でも頭痛がするのは本当です」
 イェルクはため息をついた。
「贈り物は持ってきてやるから、その手を離せ」
 ミーナは喜んで手を離した。そして、イェルクが部屋を出て再び戻ってくるまでの間、その手で自分自身を抱きしめていた。

 ミーナの部屋に戻ったイェルクは、テーブルの上に二つの置き物を置いた。女神像のようだった。
「これは…?」
 ミーナは二つの女神像を見比べた。女神像は寸分違わずとはいえないが、同じもののようだった。女神は楽器を抱えていた。
「先日訪ねた町で、東からの交易品を集めた市が開かれていた。そこでこれを見つけてな。お前に贈るなら、これだと思ったのだ。よく見てみろ」
 ミーナは女神像を手に取り、その顔をよく見てみた。長い髪を垂らし、まるで我が子のように楽器を抱きしめている女神は、白い肌にさっと赤みがさし、春の空のように温かい目をもち、柔らかな笑みを浮かべた、とても美しい顔をしていた。
「お母さま…」
 ミーナは思わず涙を流した。女神像の顔は、髪の色や目の色を除けば、クラーラに瓜二つだった。
「この女神は、遙か東の国の、音楽と物語を司る女神らしい。まさにクラーラ様そっくりだろう?」
 ミーナはうなずいた。
「ええ。…そういえば、どうして二つあるのですか?」
 イェルクは、ミーナが手に取っていないほうの女神像を自身に引き寄せた。
「これは私のものだ。お前と私で、一つずつ持っていよう」
「つまり、お揃いということですか?」
 ミーナはあまりの嬉しさに女神像を抱きしめた。
「また明日、私は立たねばならぬ。今度は別の町の視察だ。お前には寂しい思いをさせるだろう。揃いのものを持てば、寂しい思いも紛らわせるだろうと思ってな」
「イェルク!」
 ミーナは今度は真正面からイェルクに飛びついた。
「ありがとうございます。そんなにわたしのことを思ってくださって」
 そう言い終わると、ミーナはついでに、今まで聞きたかったことを聞いてみた。今日はなぜこんなに大胆になれるのだろうと、心の中で思いつつ。
「あの…わたしが幼いころ、いつか修道院にお迎えに来てほしいと頼んだことを、今でも覚えていらっしゃいますか?」
「ああ」
 イェルクはなんとなく気まずそうに視線をそらしたが、浮かれたミーナはそれに気づかなかった。
「そのとき、イェルクはどう思ったのですか?」
 イェルクはしばし考え込んだ様子を見せた。言おうか言うまいか迷っている様子だった。やがて口を開いた。
「白昼夢でも見ているのかと思った。夢魔が私に取り憑いて、おかしなものを見せているのだと思った。五歳の子どもが、こんなことを言うはずがないと思っていた。ましてや、お前が…」
 あまりの言いように、ミーナは顔を引きつらせた。その顔に気づいたイェルクは、話を打ち切り、こほん、と咳払いをしたのちに、話を続けた。
「だが、新鮮でもあった」
「新鮮?」
 ミーナは首をかしげた。
「あの頃は、敵を討ったあとの人生など、考えたこともなかった。誰も…父上も、母上でさえ、そんなことはおっしゃらなかった。だがお前は、私の未来を信じて疑わない様子だった。それが、新鮮だった」
 イェルクは改めてミーナに向き合った。こんなに近くで見つめ合ったのは、結婚式以来だった。
「もし、そのような未来が訪れるのなら、お前と一緒に暮らすのも悪くないと思った。だから迎えに行くと約束した。それに…」
「それに?」
 ミーナはその続きをわくわくと期待した。
「そうとでも言わなければ、この白昼夢から覚めないと思ったのだ」
「まあ、ひどい言い草」
 ミーナはぷうっと頬を膨らませた。だけど嬉しかった。幼い、無力な自分が、イェルクの未来を照らしたなどとは夢にも思っていなかったからだ。
「逆に聞きたいが、なぜお前は私のことをそんなに気に入ったのだ?」
 そんなことを聞かれるとは思っていなかったミーナは目をしばたたせた。
「拾ってくださったではないですか、あの鞠を。わざわざ池に飛び込んでまで」
「たったそれだけのことではないか」
「たった、ではありません!それだけのことをしてくださったのです!」
 ミーナは熱っぽく話を続けた。
「それまで、お城のたいていの人は優しくしてくれました。でも、ゲルトルート奥さまの不興を買う恐れをおかしてまで、私たちのことを助けようとしてくれた人はいませんでした。お父さまでさえ、いつも奥さまの顔色をうかがってばかりでした。でもイェルクは、お母さまが忠告しても、全く恐れずに、池に飛び込んだ。わたしにはそれでじゅうぶんでした。あのときのあなたは、確かに英雄でした。わたしが助けを求めて伸ばした手を、あなたはしっかりとつかんでくださったのです」
 ミーナは微笑み、それから熱っぽい目でイェルクを見つめた。イェルクはもう目をそらさなかった。ミーナは女神像をそっとテーブルに置いた。二人の顔が、少しずつ、でも確実に近づいていった、そのときだった。

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