ミーナは糸を紡ぐ

田原更

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中編 ミーナは糸を染める

第26話 英雄イェルクの物語(3)

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 英雄イェルクがドラゴンの姿に変わってしまった。クラーラが語った衝撃的な出来事に、ミーナは思わず悲鳴を上げた。クラーラは目を伏せて話し続けた。
「イェルクは、ドラゴンの血を浴びて、その髪も、髭も、あ…く…」
 クラーラは急に話に詰まり、がたがたと震えだした。ミーナの肩から手を外し、自身の胸を抱え込むように抱きしめて、しゃがみ込んだ。クラーラの顔からは血の気が引き、歯をがちがちとうちならし、やがて耳を塞ぎ、首をぶんぶんと横に振り出した。そんなクラーラを見たミーナは、恐ろしくなって叫び声を上げた。
「誰か来て!お母さまが、お母さまが!」
 午後の休憩を取るために引っ込んでいたメイドたちがやってきた。メイドたちはクラーラの様子を見るなり、お互いに、旦那さまを呼んで、薬湯を持ってきて、などと声を掛け合い、クラーラを寝室に連れて行った。その間ミーナは、ただただ呆然とするよりほかなかった。
 だんだんと日が傾いてきた。ミーナはクラーラが眠る寝台の横に腰掛けていた。家の扉が開いた音がしたので、ミーナはあわてて駆け寄った。玄関にはレオポルトが立っていた。
「お父さま!」
 普段なら、ミーナは愛する父親の胸に飛び込むところだが、その日はそんな気分にはなれず、ただ泣いていた。
「おお、私の天使ミーナよ。泣いているのかい?」
 レオポルトはミーナの涙を優しく拭った。ミーナの気持ちは少し落ち着いた。
「お母さまが、なんだか様子がおかしくて…。急に震えて、座り込んでしまって。なんだかとても苦しそうだった」
「クラーラは今どうしているんだい?」
 レオポルトはミーナに優しく尋ねた。
「あっちの部屋で、お休みに…」
 そこまで言いかけたとき、ミーナの耳に床のきしむ音が聞こえてきた。振り返るとそこに、クラーラが立っていた。クラーラはまだ夢から覚めていないような顔をしていた。ミーナは心配になった。
「お母さま、寝ていなきゃだめよ」
 ミーナが駆け寄っても、クラーラはまるでミーナが見えていないようだった。ふらふらと歩くクラーラは、レオポルトの目の前でよろけた。レオポルトはクラーラをそっと抱きとめ、その顔を心配そうにのぞき込んだ。
「私の天使クラーラ。いったい何があったのだい?」
 人当たりがよくていつも優しいレオポルトは、いつも以上に優しい声をして、クラーラを抱きしめた。するとクラーラは、聞いたこともないような金切り声をあげ、レオポルトを突き飛ばした。女の細腕で、どうしてこんな力が出るのだろうと思うくらいの勢いで突き飛ばされたレオポルトの身体は、したたかに壁に打ちつけられた。
「お父さま!」
 ミーナは思わず駆け寄った。レオポルトは頭から血を流していた。物音に気づいたメイドたちがやってきて、レオポルトを介抱しようとしたが、レオポルトはそれを制してクラーラのもとへ近寄ろうとした。クラーラは棒のように突っ立っていたが、レオポルトが近づくと、寝台の脇机に飾ってある花瓶を持ち上げ、レオポルトの頭めがけて力一杯投げつけた。花瓶は軌道を外れ、ミーナの足下近くに落ちて勢いよく割れた。ミーナの足には水がかかり、ミーナは先ほどより激しく泣き出した。
 ミーナにとって、そのときのクラーラは、ドラゴンよりも恐ろしく感じられた。
「クラーラ、やめるんだ!」
「クラーラさま、どうか、落ち着いてください!」
 レオポルトとメイドたちはクラーラを落ち着かせようとしたが、クラーラは涙を流して抵抗した。とくに、レオポルトが触れようとするとクラーラは激しく暴れた。クラーラはあたりをめちゃくちゃにするまで激しく暴れ続け、やがて、糸が切れたようにばったりと倒れた。
 レオポルトはクラーラを寝台に寝かせると、何も言わずに去って行った。ミーナは追いかけてすがりつきたかったが、去り際の絶望しきったようなレオポルトの顔を見ると何もできなくなった。まるで沈みゆく夕日のようだった。
(お母さまは、どうしてお父さまに、あんなひどいことを)
 めちゃくちゃになった部屋をメイドたちが無言で片付ける間、ミーナは一人泣きながら考えていた。泣きながら、ミーナは恐ろしい考えにたどり着いていた。
(お母さまは、お父さまを愛していない。私は、お父さまの子どもでは、ないんだわ)
 ミーナはよろよろと立ち上がると、寝ているクラーラの顔を見た。クラーラは何かにうなされているようだった。
「助けて…助けて…」
(お母さまは…誰かに助けてほしかったの?だから、傷ついた動物みたいに暴れたの?)
 ミーナはクラーラがしてくれるように、クラーラの乱れた髪をそっとかき上げ、額に優しく手を置いた。やがてクラーラは目を開けた。
「ミーナ…」
 クラーラは震える手をミーナの頭に差しだし、乱れた髪をそっとかき上げ、額に優しく触れた。
「お母さま!」
 ミーナはクラーラの首に抱きついた。そして、その勢いのまま、今まで聞いてはいけないと思ったことを聞いた。
「お母さまは、お父さまのことを愛しているの?」
 クラーラは何も答えなかった。
「わたしは、本当にお父さまの子どもなの?」
 やはり、クラーラは何も答えなかった。今まさに沈もうとしている夕日が、部屋中を赤く染めた。ミーナは絞り出すように声を上げた。
「お母さま、わたしは誰の子なの…?」
 すると、クラーラはミーナをきつく、きつく抱きしめた。そして、こう言った。
「あなたはわたしの子よ。誰がなんと言おうと、たとえ何があろうと。あなただけが、わたしのたった一人の家族。わたしが守るべき、ただ一つの命なのよ」
 クラーラはきつく抱きしめた腕をはがし、ミーナの目を見つめると、優しく微笑んだ。そして、いつもの物語を語るような口調で、ミーナにこう言った。
「ミーナ。怖い話は、もうおしまい。忘れなさい、今日のことは、すべて。何もかも、全部、夢だったのよ…」

 ミーナは毛布をはねのける勢いで、がばりと起き上がった。気がつけば、真夜中のようだった。真っ暗闇で、何も見えない。
「なんだ、わたし。気づいていたのね、あんな小さいころに、もう…」
 ミーナは真っ暗闇の中でくすくすと笑った。悲しい笑い声だった。
「だけど、気づいたことさえ忘れてしまったわ。お母さまの言うとおりに。だって、あのときのわたしからしたら、自分がお父さまの子どもじゃないなんて、耐えられないもの」
 亡くなったレオポルトには気の毒だが、ミーナは、今なら、クラーラがレオポルトを愛していなかったとしても、耐えられた。クラーラがレオポルトを拒絶したのは、きっと本当に愛した人がいるからだ、とミーナは思った。
「お母さまは記憶を無くしても、その人への愛に殉じたのね。わたしはその人の子どもに違いない。だから、わたしをあんなに必死に愛してくださったのだわ」
 そのとき、ミーナの頭がずきっと痛んだ。
「痛い…」
 暗闇の中でミーナは頭を抱えた。あまりの痛さにミーナは横になった。横になってもミーナの頭は殴られたようにずきずきしていた。
「イェルク、助けて…」
 ミーナはすがるように手を伸ばしたが、手はただ虚空をつかむばかりだった。
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