19 / 63
前編 ミーナは糸を紡ぐ
第19話 女の務め(5)
しおりを挟む
夏の盛りのある日、正餐の時間の前、イェルクは再びビルング城に戻ってきた。ミーナは農作業を早めに終え、部屋で刺繍をしていたが、彼の帰宅を耳にすると驚いて指に針を刺してしまった。ミーナは、今度は城内で彼を出迎えることにした。
「ただいま戻った」
「お帰りなさいませ」
「留守中変わりないか」
「いいえ、何もございません」
ミーナはつんけんした態度をとった。指笛を吹けば飛んでくる鷹のように扱われたくなかったのだ。自分にだって感情があるし、機嫌も損ねる。鷹ならば優しくなでてくれるのに、自分に触れたことは、結婚以来一度もない。そのことへの抗議の思いを表明したかったのだ。しかしイェルクがミーナの態度に注意を払う様子はなかった。
「父上が猪狩りを計画なさっていると聞いたが」
イェルクは珍しく困惑している様子を見せた。
「詳しくは存じません。家令に聞いてはいかがですか」
ミーナはつんけんした態度を崩さないように気をつけながら答えた。内心では、ミーナははらはらしていた。イェルクに泣きついて、どうかお義父さまを止めてくださいと言いたかった。
数日前に、マルクスは突然、猪狩りを思いついた。猪を狩るのはうさぎや鹿を狩るのとはわけが違った。場合によっては、死人が出かねないのだ。よりによって、マルクスは、自分が猪を仕留めると言って聞かなかった。家令も医者もマルクスの高齢を理由に止めたが、かえってマルクスの心に火をつけてしまった。
「儂は戦いの中で生きてきた男じゃ、幾つになっても戦い続けられると証明せねばならん」
意気込むマルクスを止められる者はいなかった。こういうときに、彼を上手にあしらうカタリーナは、イェルクが城を立ってまもなく、再び寝込むようになってしまったのだ。
「儂は戦うことで、女達を養ってきたのじゃ。カタリーナが倒れた今こそ、戦わねばならんのじゃ。猪の肉を食べさせれば、カタリーナも元気を取り戻すじゃろうて」
そう言われると誰も言い返せなくなってしまったのだ。それでもミーナは懇願した。
「お義父さまに何かあれば、一番悲しむのはお義母さまです。どうかおやめください。それに、伏せっている人に、猪肉は、ちょっと…」
「お主のためでもあるのじゃ、ミーナ。精をつけて、早く子を作らねばならん」
その言葉に、ミーナは凍りついた。至極当たり前の言葉であった。城内の者なら誰でも…もちろん、伏せっているカタリーナも、イメディング城でふんぞり返っているコンラートでさえも、それを望んでいるのだ。
「ありがとうございます、お義父さま。ミーナは楽しみにしております。ご武運をお祈りいたしますわ」
そう言って笑うほかになかった。
イェルクは正餐の時間に父上を直接問いただすと言って、部屋に戻った。ミーナは自室に戻り、やりかけの刺繍を再開して、また指に針を刺した。
「儂は戦いの中で生きてきた男じゃ、幾つになっても戦い続けられると証明せねばならん。
儂は戦うことで、女達を養ってきたのじゃ。カタリーナが倒れた今こそ、戦わねばならんのじゃ。猪の肉を食べさせれば、カタリーナも元気を取り戻すじゃろうて」
正餐の場では、繰り返し同じ話になり、イェルクとマルクス以外の人物はうんざりしていた。
「父上に何かあれば、一番悲しむのは母上です。考え直してください」
ミーナは嫌な予感がして、それを打ち消すように蜂蜜入りワインを口にした。
「お前のためでもあるのじゃ、イェルク。精をつけて、早く子を作らねばならん。いつまでもたもたしておるか」
飲み込んだ蜂蜜入りワインが、とんでもなく不味く感じられて、ミーナは咳き込んだ。メイドや下働きの男たちの噂話が、いよいよマルクスの耳にも入ったのだろう。しかしイェルクは凍りつくことなく、父親に反論した。
「それは我々が決めることです。いかに父上といえども口出し無用です。皆の前でこのようなことをおっしゃって、我々に恥をかかせるおつもりですか」
イェルクの気迫にマルクスは口をもごもごさせた。ミーナはイェルクのはっきりした態度を頼もしく感じたが、その一方でどこか満たされない思いがして、唇を震わせた。
気まずい正餐の時間が終わった。各々が持ち場に戻った。ミーナは食事をろくにとることができず、ため息をついて座っていた。隣のイェルクはきれいに平らげていた。
「食事を部屋に運ばせるか?」
ミーナは首を横に振った。
「父上がおっしゃったことは気にするな。母上が伏せっておられるから気が急いているだけだ」
イェルクは優しい口調で言ったが、ミーナの気持ちは晴れなかった。
「お義父さまのおっしゃることはもっともですわ」
ミーナはイェルクを見つめながら話し続けた。
「先ほど、あなたは『我々』とおっしゃったけど、その中にわたしはいるのかしら?」
イェルクはぽかんとした顔をした。
「何を言っている?」
ミーナは再び大きなため息をついた。
「わたしの気持ちは、どこにあるとお思いですか?」
ミーナは怒りと悲しみの熱を帯びた目でイェルクを見つめた。イェルクはミーナから顔を背けた。ミーナは無言で席を立ち、静かに部屋に戻っていった。
「ただいま戻った」
「お帰りなさいませ」
「留守中変わりないか」
「いいえ、何もございません」
ミーナはつんけんした態度をとった。指笛を吹けば飛んでくる鷹のように扱われたくなかったのだ。自分にだって感情があるし、機嫌も損ねる。鷹ならば優しくなでてくれるのに、自分に触れたことは、結婚以来一度もない。そのことへの抗議の思いを表明したかったのだ。しかしイェルクがミーナの態度に注意を払う様子はなかった。
「父上が猪狩りを計画なさっていると聞いたが」
イェルクは珍しく困惑している様子を見せた。
「詳しくは存じません。家令に聞いてはいかがですか」
ミーナはつんけんした態度を崩さないように気をつけながら答えた。内心では、ミーナははらはらしていた。イェルクに泣きついて、どうかお義父さまを止めてくださいと言いたかった。
数日前に、マルクスは突然、猪狩りを思いついた。猪を狩るのはうさぎや鹿を狩るのとはわけが違った。場合によっては、死人が出かねないのだ。よりによって、マルクスは、自分が猪を仕留めると言って聞かなかった。家令も医者もマルクスの高齢を理由に止めたが、かえってマルクスの心に火をつけてしまった。
「儂は戦いの中で生きてきた男じゃ、幾つになっても戦い続けられると証明せねばならん」
意気込むマルクスを止められる者はいなかった。こういうときに、彼を上手にあしらうカタリーナは、イェルクが城を立ってまもなく、再び寝込むようになってしまったのだ。
「儂は戦うことで、女達を養ってきたのじゃ。カタリーナが倒れた今こそ、戦わねばならんのじゃ。猪の肉を食べさせれば、カタリーナも元気を取り戻すじゃろうて」
そう言われると誰も言い返せなくなってしまったのだ。それでもミーナは懇願した。
「お義父さまに何かあれば、一番悲しむのはお義母さまです。どうかおやめください。それに、伏せっている人に、猪肉は、ちょっと…」
「お主のためでもあるのじゃ、ミーナ。精をつけて、早く子を作らねばならん」
その言葉に、ミーナは凍りついた。至極当たり前の言葉であった。城内の者なら誰でも…もちろん、伏せっているカタリーナも、イメディング城でふんぞり返っているコンラートでさえも、それを望んでいるのだ。
「ありがとうございます、お義父さま。ミーナは楽しみにしております。ご武運をお祈りいたしますわ」
そう言って笑うほかになかった。
イェルクは正餐の時間に父上を直接問いただすと言って、部屋に戻った。ミーナは自室に戻り、やりかけの刺繍を再開して、また指に針を刺した。
「儂は戦いの中で生きてきた男じゃ、幾つになっても戦い続けられると証明せねばならん。
儂は戦うことで、女達を養ってきたのじゃ。カタリーナが倒れた今こそ、戦わねばならんのじゃ。猪の肉を食べさせれば、カタリーナも元気を取り戻すじゃろうて」
正餐の場では、繰り返し同じ話になり、イェルクとマルクス以外の人物はうんざりしていた。
「父上に何かあれば、一番悲しむのは母上です。考え直してください」
ミーナは嫌な予感がして、それを打ち消すように蜂蜜入りワインを口にした。
「お前のためでもあるのじゃ、イェルク。精をつけて、早く子を作らねばならん。いつまでもたもたしておるか」
飲み込んだ蜂蜜入りワインが、とんでもなく不味く感じられて、ミーナは咳き込んだ。メイドや下働きの男たちの噂話が、いよいよマルクスの耳にも入ったのだろう。しかしイェルクは凍りつくことなく、父親に反論した。
「それは我々が決めることです。いかに父上といえども口出し無用です。皆の前でこのようなことをおっしゃって、我々に恥をかかせるおつもりですか」
イェルクの気迫にマルクスは口をもごもごさせた。ミーナはイェルクのはっきりした態度を頼もしく感じたが、その一方でどこか満たされない思いがして、唇を震わせた。
気まずい正餐の時間が終わった。各々が持ち場に戻った。ミーナは食事をろくにとることができず、ため息をついて座っていた。隣のイェルクはきれいに平らげていた。
「食事を部屋に運ばせるか?」
ミーナは首を横に振った。
「父上がおっしゃったことは気にするな。母上が伏せっておられるから気が急いているだけだ」
イェルクは優しい口調で言ったが、ミーナの気持ちは晴れなかった。
「お義父さまのおっしゃることはもっともですわ」
ミーナはイェルクを見つめながら話し続けた。
「先ほど、あなたは『我々』とおっしゃったけど、その中にわたしはいるのかしら?」
イェルクはぽかんとした顔をした。
「何を言っている?」
ミーナは再び大きなため息をついた。
「わたしの気持ちは、どこにあるとお思いですか?」
ミーナは怒りと悲しみの熱を帯びた目でイェルクを見つめた。イェルクはミーナから顔を背けた。ミーナは無言で席を立ち、静かに部屋に戻っていった。
0
お気に入りに追加
31
あなたにおすすめの小説
15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~
深冬 芽以
恋愛
交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。
2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。
愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。
「その時計、気に入ってるのね」
「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」
『お揃いで』ね?
夫は知らない。
私が知っていることを。
結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?
私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?
今も私を好きですか?
後悔していませんか?
私は今もあなたが好きです。
だから、ずっと、後悔しているの……。
妻になり、強くなった。
母になり、逞しくなった。
だけど、傷つかないわけじゃない。
【完結】365日後の花言葉
Ringo
恋愛
許せなかった。
幼い頃からの婚約者でもあり、誰よりも大好きで愛していたあなただからこそ。
あなたの裏切りを知った翌朝、私の元に届いたのはゼラニウムの花束。
“ごめんなさい”
言い訳もせず、拒絶し続ける私の元に通い続けるあなたの愛情を、私はもう一度信じてもいいの?
※勢いよく本編完結しまして、番外編ではイチャイチャするふたりのその後をお届けします。

【完結】彼を幸せにする十の方法
玉響なつめ
恋愛
貴族令嬢のフィリアには婚約者がいる。
フィリアが望んで結ばれた婚約、その相手であるキリアンはいつだって冷静だ。
婚約者としての義務は果たしてくれるし常に彼女を尊重してくれる。
しかし、フィリアが望まなければキリアンは動かない。
婚約したのだからいつかは心を開いてくれて、距離も縮まる――そう信じていたフィリアの心は、とある夜会での事件でぽっきり折れてしまった。
婚約を解消することは難しいが、少なくともこれ以上迷惑をかけずに夫婦としてどうあるべきか……フィリアは悩みながらも、キリアンが一番幸せになれる方法を探すために行動を起こすのだった。
※小説家になろう・カクヨムにも掲載しています。

【完結】お姉様の婚約者
七瀬菜々
恋愛
姉が失踪した。それは結婚式当日の朝のことだった。
残された私は家族のため、ひいては祖国のため、姉の婚約者と結婚した。
サイズの合わない純白のドレスを身に纏い、すまないと啜り泣く父に手を引かれ、困惑と同情と侮蔑の視線が交差するバージンロードを歩き、彼の手を取る。
誰が見ても哀れで、惨めで、不幸な結婚。
けれど私の心は晴れやかだった。
だって、ずっと片思いを続けていた人の隣に立てるのだから。
ーーーーーそう、だから私は、誰がなんと言おうと、シアワセだ。

忙しい男
菅井群青
恋愛
付き合っていた彼氏に別れを告げた。忙しいという彼を信じていたけれど、私から別れを告げる前に……きっと私は半分捨てられていたんだ。
「私のことなんてもうなんとも思ってないくせに」
「お前は一体俺の何を見て言ってる──お前は、俺を知らな過ぎる」
すれ違う想いはどうしてこうも上手くいかないのか。いつだって思うことはただ一つ、愛おしいという気持ちだ。
※ハッピーエンドです
かなりやきもきさせてしまうと思います。
どうか温かい目でみてやってくださいね。
※本編完結しました(2019/07/15)
スピンオフ &番外編
【泣く背中】 菊田夫妻のストーリーを追加しました(2019/08/19)
改稿 (2020/01/01)
本編のみカクヨムさんでも公開しました。
挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました
結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】
今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。
「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」
そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。
そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。
けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。
その真意を知った時、私は―。
※暫く鬱展開が続きます
※他サイトでも投稿中

夫は私を愛してくれない
はくまいキャベツ
恋愛
「今までお世話になりました」
「…ああ。ご苦労様」
彼はまるで長年勤めて退職する部下を労うかのように、妻である私にそう言った。いや、妻で“あった”私に。
二十数年間すれ違い続けた夫婦が別れを決めて、もう一度向き合う話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる