ミーナは糸を紡ぐ

田原更

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前編 ミーナは糸を紡ぐ

第19話 女の務め(5)

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 夏の盛りのある日、正餐の時間の前、イェルクは再びビルング城に戻ってきた。ミーナは農作業を早めに終え、部屋で刺繍をしていたが、彼の帰宅を耳にすると驚いて指に針を刺してしまった。ミーナは、今度は城内で彼を出迎えることにした。
「ただいま戻った」
「お帰りなさいませ」
「留守中変わりないか」
「いいえ、何もございません」
 ミーナはつんけんした態度をとった。指笛を吹けば飛んでくる鷹のように扱われたくなかったのだ。自分にだって感情があるし、機嫌も損ねる。鷹ならば優しくなでてくれるのに、自分に触れたことは、結婚以来一度もない。そのことへの抗議の思いを表明したかったのだ。しかしイェルクがミーナの態度に注意を払う様子はなかった。
「父上が猪狩りを計画なさっていると聞いたが」
 イェルクは珍しく困惑している様子を見せた。
「詳しくは存じません。家令に聞いてはいかがですか」
 ミーナはつんけんした態度を崩さないように気をつけながら答えた。内心では、ミーナははらはらしていた。イェルクに泣きついて、どうかお義父さまを止めてくださいと言いたかった。
 数日前に、マルクスは突然、猪狩りを思いついた。猪を狩るのはうさぎや鹿を狩るのとはわけが違った。場合によっては、死人が出かねないのだ。よりによって、マルクスは、自分が猪を仕留めると言って聞かなかった。家令も医者もマルクスの高齢を理由に止めたが、かえってマルクスの心に火をつけてしまった。
「儂は戦いの中で生きてきた男じゃ、幾つになっても戦い続けられると証明せねばならん」
 意気込むマルクスを止められる者はいなかった。こういうときに、彼を上手にあしらうカタリーナは、イェルクが城を立ってまもなく、再び寝込むようになってしまったのだ。
「儂は戦うことで、女達を養ってきたのじゃ。カタリーナが倒れた今こそ、戦わねばならんのじゃ。猪の肉を食べさせれば、カタリーナも元気を取り戻すじゃろうて」
 そう言われると誰も言い返せなくなってしまったのだ。それでもミーナは懇願した。
「お義父さまに何かあれば、一番悲しむのはお義母さまです。どうかおやめください。それに、伏せっている人に、猪肉は、ちょっと…」
「お主のためでもあるのじゃ、ミーナ。精をつけて、早く子を作らねばならん」
 その言葉に、ミーナは凍りついた。至極当たり前の言葉であった。城内の者なら誰でも…もちろん、伏せっているカタリーナも、イメディング城でふんぞり返っているコンラートでさえも、それを望んでいるのだ。
「ありがとうございます、お義父さま。ミーナは楽しみにしております。ご武運をお祈りいたしますわ」
 そう言って笑うほかになかった。
 イェルクは正餐の時間に父上を直接問いただすと言って、部屋に戻った。ミーナは自室に戻り、やりかけの刺繍を再開して、また指に針を刺した。

「儂は戦いの中で生きてきた男じゃ、幾つになっても戦い続けられると証明せねばならん。
 儂は戦うことで、女達を養ってきたのじゃ。カタリーナが倒れた今こそ、戦わねばならんのじゃ。猪の肉を食べさせれば、カタリーナも元気を取り戻すじゃろうて」
 正餐の場では、繰り返し同じ話になり、イェルクとマルクス以外の人物はうんざりしていた。
「父上に何かあれば、一番悲しむのは母上です。考え直してください」
 ミーナは嫌な予感がして、それを打ち消すように蜂蜜入りワインを口にした。
「お前のためでもあるのじゃ、イェルク。精をつけて、早く子を作らねばならん。いつまでもたもたしておるか」
 飲み込んだ蜂蜜入りワインが、とんでもなく不味く感じられて、ミーナは咳き込んだ。メイドや下働きの男たちの噂話が、いよいよマルクスの耳にも入ったのだろう。しかしイェルクは凍りつくことなく、父親に反論した。
「それは我々が決めることです。いかに父上といえども口出し無用です。皆の前でこのようなことをおっしゃって、我々に恥をかかせるおつもりですか」
 イェルクの気迫にマルクスは口をもごもごさせた。ミーナはイェルクのはっきりした態度を頼もしく感じたが、その一方でどこか満たされない思いがして、唇を震わせた。

 気まずい正餐の時間が終わった。各々が持ち場に戻った。ミーナは食事をろくにとることができず、ため息をついて座っていた。隣のイェルクはきれいに平らげていた。
「食事を部屋に運ばせるか?」
 ミーナは首を横に振った。
「父上がおっしゃったことは気にするな。母上が伏せっておられるから気が急いているだけだ」
 イェルクは優しい口調で言ったが、ミーナの気持ちは晴れなかった。
「お義父さまのおっしゃることはもっともですわ」
 ミーナはイェルクを見つめながら話し続けた。
「先ほど、あなたは『我々』とおっしゃったけど、その中にわたしはいるのかしら?」
 イェルクはぽかんとした顔をした。
「何を言っている?」
 ミーナは再び大きなため息をついた。
「わたしの気持ちは、どこにあるとお思いですか?」
 ミーナは怒りと悲しみの熱を帯びた目でイェルクを見つめた。イェルクはミーナから顔を背けた。ミーナは無言で席を立ち、静かに部屋に戻っていった。
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