ミーナは糸を紡ぐ

田原更

文字の大きさ
上 下
17 / 63
前編 ミーナは糸を紡ぐ

第17話 女の務め(3)

しおりを挟む
 さわやかな風が吹く六月になった。五月の間、イェルクは帰ってこなかった。ミーナはイェルクに会ったら、どんな話をしようかと、そればかり考えていた。
 六月も半ばを過ぎると、亜麻は草丈六十センチメートルを超え、ぶどうは白い花をつけた。そんな折のことだった。領内をくまなく回っていたイェルクが帰ってきたのだ。知らせを聞いたミーナは城の前で待っていた。イェルクはあの日と同じように馬に乗って帰ってきたが、あの日のような堂々たる姿ではなく、少しくたびれているように見えた。
「ただいま戻った」
「お帰りなさいませ」
「留守中変わりないか」
「いいえ、何もございません」
 ミーナは形式的に挨拶を済ませた。本当は、飛びついて甘えたかったが、理性とつまらぬ意地がそれを抑えた。
「母上の具合がよくないと聞いたが」
「医者の見立てでは、今までの疲れが出たのだろうとのことです。しばらく安静にしていればよくなるとも申しておりました」
「そうか、ならば安心した」
 話が終わるとイェルクはすっと城に入っていった。入り口付近で待機していたビルング家の家令に一、二言話しかけ、もう少し奥にいる部屋付きのメイドに声をかけると、執務室で待つマルクスの元へ行ってしまった。
 その、ほんの少しの時間、ミーナは取り残されたような気持ちでいた。イェルクを追いかけていいものか悩んだ。ミーナは帰宅した際、夫婦がどのような会話をするのかを知らなかった。先ほどの形式的な対応は、イメディング家の城門付近でレオポルトを出迎えたゲルトルートの真似をしたものだった。
 ミーナは悩んだ末に自室に戻った。しばらくの間室内をうろうろしているうちに、足音が聞こえてきた。イェルクが部屋に戻ってきたのだ。ミーナは待ち構えたように扉を開けようとしたが、またつまらぬ意地が邪魔をし、扉を開けようとした手を引っ込めてしまった。ミーナは鏡台の引き出しから金の鞠を取り出した。金の鞠を抱きかかえながら椅子に座り込み、しばし時が流れるのを待った。
「ミーナお嬢さま、イェルクさまが戻られてからずいぶん時間が経ちましたよ。そろそろ落ち着かれた頃ではありませんか。ぜひ、お話をしてきてはどうでしょうか?」
 ヘリガはミーナを励ますように声をかけた。
「そうね。ヘリガがそう言うなら、イェルクと話をしてこようかしら。わたしたち夫婦なんですもの」
 ミーナは白々しい態度を取りながら、自室の扉を開けた。自室から出たミーナの目に、イェルクの部屋付きのメイドの姿が映った。メイドはイェルクの部屋の前で立ち塞がっていた。
「イェルクと話がしたいの、通してちょうだい」
 ミーナはさも当然という風を装って、メイドに声をかけた。
「イェルクさまは今お疲れです。誰も通すなとのご命令です」
 メイドの声は冷たかった。ミーナはむっとした。
「わたしはイェルクの妻なのよ。通しなさい」
 しかし、メイドは譲る様子を見せなかった。
「たとえ若奥さまだとしても、お通しするわけにはまいりません。お引き取りください」
 メイドの声には怒りさえ感じられた。その口調はイェルクを追い払ったヘリガの口調そっくりだった。ミーナは、やり返されたか!と思った。これが、イェルクの仕組んだことなのか、それともメイドの当てつけなのかはわからない。ミーナはが煮えくり返るような思いを必死で抑えた。
「わかったわ。イェルクに、どうぞごゆっくりお休みくださいと伝えてちょうだい」
 ミーナはきびすを返して自室に戻った。そして、ヘリガに泣きついた。ヘリガは自身のかたくなな態度を反省し、何度もミーナに謝った。その日、イェルクは正餐(昼食)の時間も晩餐の時間も大広間に下りてこなかった。ビルング家では一日に二度、領主家族と使用人たちが揃って大広間で食事をとるのだ。食事の時間、ミーナは好物のプディングを食べても明るい気持ちにはならなかった。

 翌日の正餐の時間には、イェルクは大広間に下りてきた。ミーナはイェルクと話をしようと思ったが、久々に両親と話すイェルクの邪魔はできなかった。とくに、カタリーナは久々に大広間に下りて食事を取ったのだから。ミーナはぎくしゃくした若夫婦のことを、メイドや使用人たちがこそこそ笑っているような気がして、食事中全く落ち着かなかった。
 正餐の後、ミーナは意を決してイェルクの部屋の戸を叩いた。昨日のメイドはいなかった。ミーナにとってのヘリガと違い、いつもイェルクの側にいるわけではないのだ。いつも側に控えているのは、従騎士の少年だ。
「どなたですか?」
「わたしです。開けてちょうだい」
 従騎士が扉を開けると、ミーナは堂々と、努めて堂々と部屋に入った。次の瞬間、ミーナは腰を抜かしそうになった。部屋の中央に立つイェルクの肩には一羽の鷹が止まっていて、足下には一匹の猟犬が寝そべっていた。鷹と猟犬はミーナに気づくと、ピィと高い声で鳴いたり、ワンと軽く吠えたりした。
「いやあ、来ないで!」
 ミーナはおびえて後ずさった。イェルクはその様子を見て軽く笑っていた。
「驚いたか?私がきちんと躾けているから、心配いらない。プラチット(雌の猟犬)もターセル(雌の鷹)も、子犬や雛の頃から私が育てた、優秀な相棒達だ。特にターセルは、親鳥に死なれてひとりで鳴いていたところを保護したのだ」
 それでもミーナの引きつった表情は変わらなかった。
「お前は動物も怖いのか?」
 イェルクは少しあきれているようだった。ミーナは顔を引きつらせたまま、叫ぶように言った。
「覚えていらっしゃらないの?わたし、コンラートお兄さまの猟犬と鷹に、ずいぶん追い回されたのよ!本当に、恐ろしい思いをしたの。イェルクお兄さまも見ていらしたでしょう?」
 ミーナは幼い頃のように「イェルクお兄さま」と呼んでいることに気づかないくらい動揺していた。イェルクはまた軽く笑い出した。
「ああ、そんなこともあったな。お前が狩りについていくと言って聞かないから、狩りはこういうものだと教えてやる、と言って、コンラートが…」
「笑い事ではありません!本当に、本当に、怖かったのよ!ああ、あのとき、イェルクお兄さまはコンラートお兄さまのことをずいぶん叱ってくださったのに、今では私のことをお笑いになるなんて!」
 ミーナはイェルクの言葉を遮り、わめきちらした。
「お願いですから、猟犬や鷹をお部屋で飼うのはおやめください。世話は他の者に任せればいいではないですか。あの夜はいなかったのに!」
「あの夜はさすがに部屋から出せと、皆が申したからな。だが、普段はいいだろう?とても大人しいのだから」
 イェルクは鷹の背を滑らかな手つきでなでた。貴族の男性にとっては、猟犬や鷹は狩猟の道具ではなく、相棒であり、友人でもあった。だから部屋で飼う者も少なくなかった。イェルクにとっても、猟犬と鷹は友人であった。仕事や剣術の稽古で疲れたときなど、背をなでてやると心が落ち着くのだ。しかし、ミーナは、イェルクに愛撫されるのは自分だけでいいと思っていた。つまり犬や鳥にまでやきもちを焼いているのだ。
「わかりました。では、わたしがお側に参るときだけは、他の部屋にやってください」
「わかった、わかった」
 イェルクはすっかりあきれてしまったようだ。扉の近くで二人をさりげなく見ていた従騎士の少年は笑いをかみ殺すのに必死なようだった。
「今日はもう部屋に戻ります。また明日お話ししましょう」
 ミーナはふくれっ面をしたまま部屋を出た。呼び止めてくれることを期待したが、イェルクは素っ気なかった。自室に戻ると、またヘリガに泣きついた。ヘリガもヘリガで、あの方は女心をわかっていないと、繰り返し同じことを言うのだった。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~

深冬 芽以
恋愛
 交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。  2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。  愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。 「その時計、気に入ってるのね」 「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」 『お揃いで』ね?  夫は知らない。  私が知っていることを。  結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?  私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?  今も私を好きですか?  後悔していませんか?  私は今もあなたが好きです。  だから、ずっと、後悔しているの……。  妻になり、強くなった。  母になり、逞しくなった。  だけど、傷つかないわけじゃない。

【完結】365日後の花言葉

Ringo
恋愛
許せなかった。 幼い頃からの婚約者でもあり、誰よりも大好きで愛していたあなただからこそ。 あなたの裏切りを知った翌朝、私の元に届いたのはゼラニウムの花束。 “ごめんなさい” 言い訳もせず、拒絶し続ける私の元に通い続けるあなたの愛情を、私はもう一度信じてもいいの? ※勢いよく本編完結しまして、番外編ではイチャイチャするふたりのその後をお届けします。

【完結】彼を幸せにする十の方法

玉響なつめ
恋愛
貴族令嬢のフィリアには婚約者がいる。 フィリアが望んで結ばれた婚約、その相手であるキリアンはいつだって冷静だ。 婚約者としての義務は果たしてくれるし常に彼女を尊重してくれる。 しかし、フィリアが望まなければキリアンは動かない。 婚約したのだからいつかは心を開いてくれて、距離も縮まる――そう信じていたフィリアの心は、とある夜会での事件でぽっきり折れてしまった。 婚約を解消することは難しいが、少なくともこれ以上迷惑をかけずに夫婦としてどうあるべきか……フィリアは悩みながらも、キリアンが一番幸せになれる方法を探すために行動を起こすのだった。 ※小説家になろう・カクヨムにも掲載しています。

【完結】お姉様の婚約者

七瀬菜々
恋愛
 姉が失踪した。それは結婚式当日の朝のことだった。  残された私は家族のため、ひいては祖国のため、姉の婚約者と結婚した。    サイズの合わない純白のドレスを身に纏い、すまないと啜り泣く父に手を引かれ、困惑と同情と侮蔑の視線が交差するバージンロードを歩き、彼の手を取る。  誰が見ても哀れで、惨めで、不幸な結婚。  けれど私の心は晴れやかだった。  だって、ずっと片思いを続けていた人の隣に立てるのだから。  ーーーーーそう、だから私は、誰がなんと言おうと、シアワセだ。

忙しい男

菅井群青
恋愛
付き合っていた彼氏に別れを告げた。忙しいという彼を信じていたけれど、私から別れを告げる前に……きっと私は半分捨てられていたんだ。 「私のことなんてもうなんとも思ってないくせに」 「お前は一体俺の何を見て言ってる──お前は、俺を知らな過ぎる」 すれ違う想いはどうしてこうも上手くいかないのか。いつだって思うことはただ一つ、愛おしいという気持ちだ。 ※ハッピーエンドです かなりやきもきさせてしまうと思います。 どうか温かい目でみてやってくださいね。 ※本編完結しました(2019/07/15) スピンオフ &番外編 【泣く背中】 菊田夫妻のストーリーを追加しました(2019/08/19) 改稿 (2020/01/01) 本編のみカクヨムさんでも公開しました。

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】 今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。 「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」 そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。 そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。 けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。 その真意を知った時、私は―。 ※暫く鬱展開が続きます ※他サイトでも投稿中

夫は私を愛してくれない

はくまいキャベツ
恋愛
「今までお世話になりました」 「…ああ。ご苦労様」 彼はまるで長年勤めて退職する部下を労うかのように、妻である私にそう言った。いや、妻で“あった”私に。 二十数年間すれ違い続けた夫婦が別れを決めて、もう一度向き合う話。

処理中です...