ミーナは糸を紡ぐ

田原更

文字の大きさ
上 下
6 / 63
前編 ミーナは糸を紡ぐ

第6話 修道院にて(1)

しおりを挟む
 修道院はイメディング領と王都の中間あたりにあった。幼いミーナは真っ赤な目から涙を流して、修道院の重い扉を開いた。そこでは修道女と同じ服装をした、十五より少し年下の娘たちと、ミーナと同じ五、六歳の娘たちが掃除をしていた。礼拝堂の椅子も、床もぴかぴかに磨かれていた。ぴかぴか光る床には、色が塗られていた。
 (あれ、違うわ)
 ミーナが顔をあげると、祭壇の上には荘厳なステンドグラスが飾られていた。そこから、様々な色をした光が差していた。床にはこの光が映っていたのだ。ステンドグラスは何かの物語を表しているようだった。
「不思議なものですね。どんなに泣いている子でも、これを見るとぴたりと泣き止む」
 奥の部屋から、一人の初老の女性が現れた。掃除をしていた娘たちは、一斉に掃除の手を止め立ち上がり、会釈をした。
「このステンドグラスは、かつて英雄たちが世界を救った戦いを表しているのですよ」
 ミーナは首を伸ばしてステンドグラスを見た。ステンドグラスは三枚飾ってあった。右には、数人の男がドラゴンなどの恐ろしい魔物と戦っている様子を描いたステンドグラスが飾ってあった。左には、すすか何かを塗った黒いガラスで描かれた悪魔と戦う男たちの姿が描かれたステンドグラスが飾ってあった。悪魔の目の色は緑色だった。ミーナは、緑色の目は優しいイェルクのもので、悪魔の目などふさわしくないと思った。
「ですが、子どもたちを泣き止ませるのは中央の…光を表したステンドグラスですよ」
 ミーナは中央のステンドグラスを見た。幾何学模様のステンドグラスからは、赤、橙色、黄色、緑色、青、紫色の六色の光が差し込んでいた。
「美しいでしょう。これら全てが光。人々に、神がもたらした希望です。我々はことさらに神の姿を描いたりしません。光こそ神の御姿で、光あるところに希望があるのです。希望を持って過ごしなさい、ウィルヘルミーナ・イメディング。希望を持つかぎり、あなたはいつも神のお側にいるのですよ」
 急に名前を呼ばれて、ミーナはびっくりして女性の顔を見た。女性は、白髪に青い目を持ち、厳しさと優しさを兼ね備えた表情をしていた。
「申し遅れました。わたくしはこの女子修道院の院長です」
「院長先生…はじめまして」
 ミーナは涙を拭いてこう言った。
「わたしはウィルヘルミーナではなくて、ミーナです。お母さまが名付けてくれました。そう呼んでください」
 修道院長は目を丸くしてミーナを見つめた。娘たちは息を飲んだ。ミーナはどうしても、ミーナと呼んでほしかったのだ。裏切り者の父親がつけた、ウィルヘルミーナという名ではなく、愛する母親が呼んでくれたミーナという名で。

 そんな出来事があったものだから、ミーナは修道院内ですっかり注目を集めることになった。年上の娘たちはミーナを見ると眉をひそめた。同じ年頃の娘たちは、ミーナを蛮族の子と言ってはばからなかった。髪の毛は布をかぶって隠すことができたが、赤い顔を隠すことはできなかったのだ。ミーナはそのたびに否定して、時には撤回を求めた。
 幼い子どもたちの仕事は、最年長の娘たちと掃除をすることだった。最年長の娘たちから、修道院の様々なことを教わるのだ。修道院では、貴族の娘も、騎士や商人の娘も、農民や町人の娘も皆平等とされていた。最初はみな掃除から始めて、糸紡ぎや機織りの仕事、院に併設された広大な畑での農作業、信徒に配る菓子作り、その他細々とした仕事に役割分担されるのだ。いくら平等とはいえ、貴族の娘は農作業にはまわらなかった。農作業で身体を鍛え過ぎたら嫁に出す際に恥ずかしい、という親元からの希望だった。
 ミーナにはその他細々とした仕事が割り当てられることになった。体力もなく、不器用なミーナは、他の仕事はろくにこなせなかったのだ。同じくどこにも適性がなく、あぶれてしまった一人に、修道院近くの土地を治める貴族の末娘、アラリケがいた。ミーナが修道院で暮らした最初の数年間、アラリケは多くの取り巻きをはべらせ、ミーナのことを散々からかった。しかし、アラリケには家柄以外に誇るものがないと知ると、取り巻きは一人、また一人と減っていった。
 ミーナは修道院長の部屋で院長の仕事を手伝い、アラリケは隣の副修道院長の部屋で副院長の仕事を手伝っていた。アラリケは人目を盗んでは度々ミーナの元を訪れ、ちょっかいをかけてきた。

 その頃、ミーナは十二歳になっていた。貴族の娘ならば、縁談が舞い込んでもおかしくない年頃だった。しかし、ミーナの元には何の話も舞い込んでこなかった。
 それもそうだろう、とミーナは思っていた。ゲルトルートはミーナを結婚させないために修道院に入れたのだ。レオポルトがゲルトルートに逆らってまで、ミーナを呼び戻すとは考えられなかった。
 ミーナはもう気づいていたのだ。自分がレオポルトの娘ではないことに。昔のことを思い出せば思い出すほど、確信は深まった。クラーラお母さまとレオポルトお父さまは、どこかよそよそしかったもの。でも、お父さまは本当にお母さまを愛していたはずよ。決して振り向こうとしないお母さまの気を引くために、わたしをかわいがっただけなのよ…。
 ミーナがそう思い始めたのは、院長室にある鏡で自分の姿を見てからだ。
 ガラス製の、よく映る鏡は高級品だったから、ミーナの住んでいた家にはなかった。水面に顔を映した時は、愛嬌あいきょうがある顔はレオポルトに、微笑んでみせたときの顔はクラーラに似ていると思っていた。
 ある日、院長室で、鏡にかかった布を戯れにはぎ取り中をのぞいてみると、ミーナはそこに全く見知らぬ少女の姿を見た。わずかな赤味を伴った白さどころか、真っ赤な頬。照りがなく、小さい、茶色の瞳。頭の布をはぎ取ると、ぼさぼさした赤毛が見えた。記憶の片隅にある、愛嬌があって領民に好かれた父レオポルトの面影はどこにもなかった。どんなに微笑んでみても、母クラーラにも似ていなかった。
「あなた、誰…?」
 ミーナはたじろいだ。そこへ運悪く、アラリケが院長室に入ってきた。アラリケは鏡の前で立ち尽くすミーナの顔をのぞき込んだ。鏡に映ったアラリケは、金髪碧眼きんぱつへきがんで、可愛らしい顔をしているが憎たらしい、いつものアラリケだった。鏡の中のアラリケは意地悪く笑った。
「あら、ウィルヘルミーナさん。今まで鏡を見たことないのかしら。あなたずっとこんな顔よ。今までご自身のことを、どう思っていたのか知らないけれど」
 次にアラリケが言い放った言葉を、ミーナは忘れることができなかった。
「この、蛮族の子!」
 アラリケは高らかに笑いながら去っていった。いつもならミーナはアラリケを平手打ちして、アラリケから叩き返され、取っ組み合いの喧嘩けんかになって、院長からこっぴどく叱られただろう。しかしその日は頭の中が真っ白になって何もできなかった。
 わたしは蛮族の子じゃない!だけどきっと、お父さまの子どもでもない。じゃあ、誰の子なの…?
「お母さま!答えてください!お母さま!」
 ミーナはすがるように叫んだが、ふと、ものすごい恐ろしさに襲われて足ががくがくとし、引きつった声でつぶやいた。
「お母さまは、その人のことさえ、覚えてはいないのだわ…」
 ミーナは二度と、その鏡をのぞき見ることはしなかった。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~

深冬 芽以
恋愛
 交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。  2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。  愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。 「その時計、気に入ってるのね」 「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」 『お揃いで』ね?  夫は知らない。  私が知っていることを。  結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?  私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?  今も私を好きですか?  後悔していませんか?  私は今もあなたが好きです。  だから、ずっと、後悔しているの……。  妻になり、強くなった。  母になり、逞しくなった。  だけど、傷つかないわけじゃない。

【完結】365日後の花言葉

Ringo
恋愛
許せなかった。 幼い頃からの婚約者でもあり、誰よりも大好きで愛していたあなただからこそ。 あなたの裏切りを知った翌朝、私の元に届いたのはゼラニウムの花束。 “ごめんなさい” 言い訳もせず、拒絶し続ける私の元に通い続けるあなたの愛情を、私はもう一度信じてもいいの? ※勢いよく本編完結しまして、番外編ではイチャイチャするふたりのその後をお届けします。

【完結】彼を幸せにする十の方法

玉響なつめ
恋愛
貴族令嬢のフィリアには婚約者がいる。 フィリアが望んで結ばれた婚約、その相手であるキリアンはいつだって冷静だ。 婚約者としての義務は果たしてくれるし常に彼女を尊重してくれる。 しかし、フィリアが望まなければキリアンは動かない。 婚約したのだからいつかは心を開いてくれて、距離も縮まる――そう信じていたフィリアの心は、とある夜会での事件でぽっきり折れてしまった。 婚約を解消することは難しいが、少なくともこれ以上迷惑をかけずに夫婦としてどうあるべきか……フィリアは悩みながらも、キリアンが一番幸せになれる方法を探すために行動を起こすのだった。 ※小説家になろう・カクヨムにも掲載しています。

【完結】お姉様の婚約者

七瀬菜々
恋愛
 姉が失踪した。それは結婚式当日の朝のことだった。  残された私は家族のため、ひいては祖国のため、姉の婚約者と結婚した。    サイズの合わない純白のドレスを身に纏い、すまないと啜り泣く父に手を引かれ、困惑と同情と侮蔑の視線が交差するバージンロードを歩き、彼の手を取る。  誰が見ても哀れで、惨めで、不幸な結婚。  けれど私の心は晴れやかだった。  だって、ずっと片思いを続けていた人の隣に立てるのだから。  ーーーーーそう、だから私は、誰がなんと言おうと、シアワセだ。

忙しい男

菅井群青
恋愛
付き合っていた彼氏に別れを告げた。忙しいという彼を信じていたけれど、私から別れを告げる前に……きっと私は半分捨てられていたんだ。 「私のことなんてもうなんとも思ってないくせに」 「お前は一体俺の何を見て言ってる──お前は、俺を知らな過ぎる」 すれ違う想いはどうしてこうも上手くいかないのか。いつだって思うことはただ一つ、愛おしいという気持ちだ。 ※ハッピーエンドです かなりやきもきさせてしまうと思います。 どうか温かい目でみてやってくださいね。 ※本編完結しました(2019/07/15) スピンオフ &番外編 【泣く背中】 菊田夫妻のストーリーを追加しました(2019/08/19) 改稿 (2020/01/01) 本編のみカクヨムさんでも公開しました。

挙式後すぐに離婚届を手渡された私は、この結婚は予め捨てられることが確定していた事実を知らされました

結城芙由奈@コミカライズ発売中
恋愛
【結婚した日に、「君にこれを預けておく」と離婚届を手渡されました】 今日、私は子供の頃からずっと大好きだった人と結婚した。しかし、式の後に絶望的な事を彼に言われた。 「ごめん、本当は君とは結婚したくなかったんだ。これを預けておくから、その気になったら提出してくれ」 そう言って手渡されたのは何と離婚届けだった。 そしてどこまでも冷たい態度の夫の行動に傷つけられていく私。 けれどその裏には私の知らない、ある深い事情が隠されていた。 その真意を知った時、私は―。 ※暫く鬱展開が続きます ※他サイトでも投稿中

夫は私を愛してくれない

はくまいキャベツ
恋愛
「今までお世話になりました」 「…ああ。ご苦労様」 彼はまるで長年勤めて退職する部下を労うかのように、妻である私にそう言った。いや、妻で“あった”私に。 二十数年間すれ違い続けた夫婦が別れを決めて、もう一度向き合う話。

処理中です...