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前編 ミーナは糸を紡ぐ
第6話 修道院にて(1)
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修道院はイメディング領と王都の中間あたりにあった。幼いミーナは真っ赤な目から涙を流して、修道院の重い扉を開いた。そこでは修道女と同じ服装をした、十五より少し年下の娘たちと、ミーナと同じ五、六歳の娘たちが掃除をしていた。礼拝堂の椅子も、床もぴかぴかに磨かれていた。ぴかぴか光る床には、色が塗られていた。
(あれ、違うわ)
ミーナが顔をあげると、祭壇の上には荘厳なステンドグラスが飾られていた。そこから、様々な色をした光が差していた。床にはこの光が映っていたのだ。ステンドグラスは何かの物語を表しているようだった。
「不思議なものですね。どんなに泣いている子でも、これを見るとぴたりと泣き止む」
奥の部屋から、一人の初老の女性が現れた。掃除をしていた娘たちは、一斉に掃除の手を止め立ち上がり、会釈をした。
「このステンドグラスは、かつて英雄たちが世界を救った戦いを表しているのですよ」
ミーナは首を伸ばしてステンドグラスを見た。ステンドグラスは三枚飾ってあった。右には、数人の男がドラゴンなどの恐ろしい魔物と戦っている様子を描いたステンドグラスが飾ってあった。左には、すすか何かを塗った黒いガラスで描かれた悪魔と戦う男たちの姿が描かれたステンドグラスが飾ってあった。悪魔の目の色は緑色だった。ミーナは、緑色の目は優しいイェルクのもので、悪魔の目などふさわしくないと思った。
「ですが、子どもたちを泣き止ませるのは中央の…光を表したステンドグラスですよ」
ミーナは中央のステンドグラスを見た。幾何学模様のステンドグラスからは、赤、橙色、黄色、緑色、青、紫色の六色の光が差し込んでいた。
「美しいでしょう。これら全てが光。人々に、神がもたらした希望です。我々はことさらに神の姿を描いたりしません。光こそ神の御姿で、光あるところに希望があるのです。希望を持って過ごしなさい、ウィルヘルミーナ・イメディング。希望を持つかぎり、あなたはいつも神のお側にいるのですよ」
急に名前を呼ばれて、ミーナはびっくりして女性の顔を見た。女性は、白髪に青い目を持ち、厳しさと優しさを兼ね備えた表情をしていた。
「申し遅れました。わたくしはこの女子修道院の院長です」
「院長先生…はじめまして」
ミーナは涙を拭いてこう言った。
「わたしはウィルヘルミーナではなくて、ミーナです。お母さまが名付けてくれました。そう呼んでください」
修道院長は目を丸くしてミーナを見つめた。娘たちは息を飲んだ。ミーナはどうしても、ミーナと呼んでほしかったのだ。裏切り者の父親がつけた、ウィルヘルミーナという名ではなく、愛する母親が呼んでくれたミーナという名で。
そんな出来事があったものだから、ミーナは修道院内ですっかり注目を集めることになった。年上の娘たちはミーナを見ると眉をひそめた。同じ年頃の娘たちは、ミーナを蛮族の子と言ってはばからなかった。髪の毛は布をかぶって隠すことができたが、赤い顔を隠すことはできなかったのだ。ミーナはそのたびに否定して、時には撤回を求めた。
幼い子どもたちの仕事は、最年長の娘たちと掃除をすることだった。最年長の娘たちから、修道院の様々なことを教わるのだ。修道院では、貴族の娘も、騎士や商人の娘も、農民や町人の娘も皆平等とされていた。最初はみな掃除から始めて、糸紡ぎや機織りの仕事、院に併設された広大な畑での農作業、信徒に配る菓子作り、その他細々とした仕事に役割分担されるのだ。いくら平等とはいえ、貴族の娘は農作業にはまわらなかった。農作業で身体を鍛え過ぎたら嫁に出す際に恥ずかしい、という親元からの希望だった。
ミーナにはその他細々とした仕事が割り当てられることになった。体力もなく、不器用なミーナは、他の仕事はろくにこなせなかったのだ。同じくどこにも適性がなく、あぶれてしまった一人に、修道院近くの土地を治める貴族の末娘、アラリケがいた。ミーナが修道院で暮らした最初の数年間、アラリケは多くの取り巻きをはべらせ、ミーナのことを散々からかった。しかし、アラリケには家柄以外に誇るものがないと知ると、取り巻きは一人、また一人と減っていった。
ミーナは修道院長の部屋で院長の仕事を手伝い、アラリケは隣の副修道院長の部屋で副院長の仕事を手伝っていた。アラリケは人目を盗んでは度々ミーナの元を訪れ、ちょっかいをかけてきた。
その頃、ミーナは十二歳になっていた。貴族の娘ならば、縁談が舞い込んでもおかしくない年頃だった。しかし、ミーナの元には何の話も舞い込んでこなかった。
それもそうだろう、とミーナは思っていた。ゲルトルートはミーナを結婚させないために修道院に入れたのだ。レオポルトがゲルトルートに逆らってまで、ミーナを呼び戻すとは考えられなかった。
ミーナはもう気づいていたのだ。自分がレオポルトの娘ではないことに。昔のことを思い出せば思い出すほど、確信は深まった。クラーラお母さまとレオポルトお父さまは、どこかよそよそしかったもの。でも、お父さまは本当にお母さまを愛していたはずよ。決して振り向こうとしないお母さまの気を引くために、わたしをかわいがっただけなのよ…。
ミーナがそう思い始めたのは、院長室にある鏡で自分の姿を見てからだ。
ガラス製の、よく映る鏡は高級品だったから、ミーナの住んでいた家にはなかった。水面に顔を映した時は、愛嬌がある顔はレオポルトに、微笑んでみせたときの顔はクラーラに似ていると思っていた。
ある日、院長室で、鏡にかかった布を戯れにはぎ取り中をのぞいてみると、ミーナはそこに全く見知らぬ少女の姿を見た。わずかな赤味を伴った白さどころか、真っ赤な頬。照りがなく、小さい、茶色の瞳。頭の布をはぎ取ると、ぼさぼさした赤毛が見えた。記憶の片隅にある、愛嬌があって領民に好かれた父レオポルトの面影はどこにもなかった。どんなに微笑んでみても、母クラーラにも似ていなかった。
「あなた、誰…?」
ミーナはたじろいだ。そこへ運悪く、アラリケが院長室に入ってきた。アラリケは鏡の前で立ち尽くすミーナの顔をのぞき込んだ。鏡に映ったアラリケは、金髪碧眼で、可愛らしい顔をしているが憎たらしい、いつものアラリケだった。鏡の中のアラリケは意地悪く笑った。
「あら、ウィルヘルミーナさん。今まで鏡を見たことないのかしら。あなたずっとこんな顔よ。今までご自身のことを、どう思っていたのか知らないけれど」
次にアラリケが言い放った言葉を、ミーナは忘れることができなかった。
「この、蛮族の子!」
アラリケは高らかに笑いながら去っていった。いつもならミーナはアラリケを平手打ちして、アラリケから叩き返され、取っ組み合いの喧嘩になって、院長からこっぴどく叱られただろう。しかしその日は頭の中が真っ白になって何もできなかった。
わたしは蛮族の子じゃない!だけどきっと、お父さまの子どもでもない。じゃあ、誰の子なの…?
「お母さま!答えてください!お母さま!」
ミーナはすがるように叫んだが、ふと、ものすごい恐ろしさに襲われて足ががくがくとし、引きつった声でつぶやいた。
「お母さまは、その人のことさえ、覚えてはいないのだわ…」
ミーナは二度と、その鏡をのぞき見ることはしなかった。
(あれ、違うわ)
ミーナが顔をあげると、祭壇の上には荘厳なステンドグラスが飾られていた。そこから、様々な色をした光が差していた。床にはこの光が映っていたのだ。ステンドグラスは何かの物語を表しているようだった。
「不思議なものですね。どんなに泣いている子でも、これを見るとぴたりと泣き止む」
奥の部屋から、一人の初老の女性が現れた。掃除をしていた娘たちは、一斉に掃除の手を止め立ち上がり、会釈をした。
「このステンドグラスは、かつて英雄たちが世界を救った戦いを表しているのですよ」
ミーナは首を伸ばしてステンドグラスを見た。ステンドグラスは三枚飾ってあった。右には、数人の男がドラゴンなどの恐ろしい魔物と戦っている様子を描いたステンドグラスが飾ってあった。左には、すすか何かを塗った黒いガラスで描かれた悪魔と戦う男たちの姿が描かれたステンドグラスが飾ってあった。悪魔の目の色は緑色だった。ミーナは、緑色の目は優しいイェルクのもので、悪魔の目などふさわしくないと思った。
「ですが、子どもたちを泣き止ませるのは中央の…光を表したステンドグラスですよ」
ミーナは中央のステンドグラスを見た。幾何学模様のステンドグラスからは、赤、橙色、黄色、緑色、青、紫色の六色の光が差し込んでいた。
「美しいでしょう。これら全てが光。人々に、神がもたらした希望です。我々はことさらに神の姿を描いたりしません。光こそ神の御姿で、光あるところに希望があるのです。希望を持って過ごしなさい、ウィルヘルミーナ・イメディング。希望を持つかぎり、あなたはいつも神のお側にいるのですよ」
急に名前を呼ばれて、ミーナはびっくりして女性の顔を見た。女性は、白髪に青い目を持ち、厳しさと優しさを兼ね備えた表情をしていた。
「申し遅れました。わたくしはこの女子修道院の院長です」
「院長先生…はじめまして」
ミーナは涙を拭いてこう言った。
「わたしはウィルヘルミーナではなくて、ミーナです。お母さまが名付けてくれました。そう呼んでください」
修道院長は目を丸くしてミーナを見つめた。娘たちは息を飲んだ。ミーナはどうしても、ミーナと呼んでほしかったのだ。裏切り者の父親がつけた、ウィルヘルミーナという名ではなく、愛する母親が呼んでくれたミーナという名で。
そんな出来事があったものだから、ミーナは修道院内ですっかり注目を集めることになった。年上の娘たちはミーナを見ると眉をひそめた。同じ年頃の娘たちは、ミーナを蛮族の子と言ってはばからなかった。髪の毛は布をかぶって隠すことができたが、赤い顔を隠すことはできなかったのだ。ミーナはそのたびに否定して、時には撤回を求めた。
幼い子どもたちの仕事は、最年長の娘たちと掃除をすることだった。最年長の娘たちから、修道院の様々なことを教わるのだ。修道院では、貴族の娘も、騎士や商人の娘も、農民や町人の娘も皆平等とされていた。最初はみな掃除から始めて、糸紡ぎや機織りの仕事、院に併設された広大な畑での農作業、信徒に配る菓子作り、その他細々とした仕事に役割分担されるのだ。いくら平等とはいえ、貴族の娘は農作業にはまわらなかった。農作業で身体を鍛え過ぎたら嫁に出す際に恥ずかしい、という親元からの希望だった。
ミーナにはその他細々とした仕事が割り当てられることになった。体力もなく、不器用なミーナは、他の仕事はろくにこなせなかったのだ。同じくどこにも適性がなく、あぶれてしまった一人に、修道院近くの土地を治める貴族の末娘、アラリケがいた。ミーナが修道院で暮らした最初の数年間、アラリケは多くの取り巻きをはべらせ、ミーナのことを散々からかった。しかし、アラリケには家柄以外に誇るものがないと知ると、取り巻きは一人、また一人と減っていった。
ミーナは修道院長の部屋で院長の仕事を手伝い、アラリケは隣の副修道院長の部屋で副院長の仕事を手伝っていた。アラリケは人目を盗んでは度々ミーナの元を訪れ、ちょっかいをかけてきた。
その頃、ミーナは十二歳になっていた。貴族の娘ならば、縁談が舞い込んでもおかしくない年頃だった。しかし、ミーナの元には何の話も舞い込んでこなかった。
それもそうだろう、とミーナは思っていた。ゲルトルートはミーナを結婚させないために修道院に入れたのだ。レオポルトがゲルトルートに逆らってまで、ミーナを呼び戻すとは考えられなかった。
ミーナはもう気づいていたのだ。自分がレオポルトの娘ではないことに。昔のことを思い出せば思い出すほど、確信は深まった。クラーラお母さまとレオポルトお父さまは、どこかよそよそしかったもの。でも、お父さまは本当にお母さまを愛していたはずよ。決して振り向こうとしないお母さまの気を引くために、わたしをかわいがっただけなのよ…。
ミーナがそう思い始めたのは、院長室にある鏡で自分の姿を見てからだ。
ガラス製の、よく映る鏡は高級品だったから、ミーナの住んでいた家にはなかった。水面に顔を映した時は、愛嬌がある顔はレオポルトに、微笑んでみせたときの顔はクラーラに似ていると思っていた。
ある日、院長室で、鏡にかかった布を戯れにはぎ取り中をのぞいてみると、ミーナはそこに全く見知らぬ少女の姿を見た。わずかな赤味を伴った白さどころか、真っ赤な頬。照りがなく、小さい、茶色の瞳。頭の布をはぎ取ると、ぼさぼさした赤毛が見えた。記憶の片隅にある、愛嬌があって領民に好かれた父レオポルトの面影はどこにもなかった。どんなに微笑んでみても、母クラーラにも似ていなかった。
「あなた、誰…?」
ミーナはたじろいだ。そこへ運悪く、アラリケが院長室に入ってきた。アラリケは鏡の前で立ち尽くすミーナの顔をのぞき込んだ。鏡に映ったアラリケは、金髪碧眼で、可愛らしい顔をしているが憎たらしい、いつものアラリケだった。鏡の中のアラリケは意地悪く笑った。
「あら、ウィルヘルミーナさん。今まで鏡を見たことないのかしら。あなたずっとこんな顔よ。今までご自身のことを、どう思っていたのか知らないけれど」
次にアラリケが言い放った言葉を、ミーナは忘れることができなかった。
「この、蛮族の子!」
アラリケは高らかに笑いながら去っていった。いつもならミーナはアラリケを平手打ちして、アラリケから叩き返され、取っ組み合いの喧嘩になって、院長からこっぴどく叱られただろう。しかしその日は頭の中が真っ白になって何もできなかった。
わたしは蛮族の子じゃない!だけどきっと、お父さまの子どもでもない。じゃあ、誰の子なの…?
「お母さま!答えてください!お母さま!」
ミーナはすがるように叫んだが、ふと、ものすごい恐ろしさに襲われて足ががくがくとし、引きつった声でつぶやいた。
「お母さまは、その人のことさえ、覚えてはいないのだわ…」
ミーナは二度と、その鏡をのぞき見ることはしなかった。
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