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前編 ミーナは糸を紡ぐ
第2話 ミーナの告白(1)
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幼い頃、ミーナはイメディング家という貴族の家庭で暮らしていた。隣接したビルング家とは違い、大きくて美しい城を持っている立派な貴族の家だった。しかし、ミーナは城の中には住めず、外庭の隅にある小さな家で暮らしていた。ミーナは、城主レオポルトの妾、クラーラの子だった。それでも城の敷地内に住まわせてもらえたのは、悪くない待遇ともいえた。
クラーラは、亜麻色の髪の毛を垂らし、春の空のような青い瞳を輝かせ、わずかな赤色を伴った白さの肌をした、美しい女性だった。いつも微笑みを絶やさぬ、まるで天使のような人だった。
ただ、その微笑みはいつも儚げだった。クラーラは、自分がどこの誰だか知らなかった。クラーラは、自身にまつわる記憶を失っていたのだ。
クラーラとレオポルトがどこで出会ったのか、二人とも決して語ろうとしなかった。ただ、レオポルトが三十歳ほど年の離れたクラーラに一目で惚れて、どこかから連れて帰ってきたことは、城内の誰もが察していた。それくらい、レオポルトはクラーラに、そしてミーナに甘かったのだ。金髪碧眼で、人に好かれる魅力的な表情を持った城主レオポルトと、亜麻色の髪に水色の目をした美女クラーラ。その間に生まれたはずのミーナは、赤毛に茶色の瞳を持っていて、顔立ちも二人には似ていなかった。ミーナが生まれてしばらくの間は、城内の誰もが、この赤子はレオポルトの子どもではないと、はばかることなく言い放った。しかし、レオポルトがミーナをあまりにも可愛がるものだから、城内の人々はそのうち、ミーナのことを、両親に全く似ていない気の毒な娘だと話すようになり、ミーナが物心つく頃には、「愛嬌のある顔はレオポルトさまに似ているかもしれない」「口元はクラーラさまに似ているのではないか」などと話すようになっていた。
レオポルトがミーナをあんなに可愛がるのは、やっと生まれた跡取り息子のコンラートを、遠く離れた王城に行儀見習いとして送り出したからだ、と話す者もいた。この国では、貴族の息子や娘は、ある程度の年齢になれば、より高い身分の貴族の家に奉公に出て、働きながら様々なことを学ぶしきたりがあった。あるいは、修道院に送られて、慎ましい暮らしをしながら様々なことを学ぶのだ。レオポルトはコンラートの将来性に期待して、幼いうちに王城に奉公に出したのだ。レオポルトはコンラートをそれはそれは可愛がっていたので、ミーナはその身代わりだというのだ。
午後は、母親の膝元で、「むかしむかし、人々が魔法を使えたころ」という枕詞から始まる昔話を聞くのが、幼いミーナの日課だった。そのままお昼寝をしてくれたら、大人たちにとって都合がよかったのだろう。ミーナはクラーラと、身の回りの世話をする数人のメイドたちと暮らしていた。ミーナが寝たら、大人たちも休憩をとるのだ。
ミーナは金の鞠を抱きしめながら、クラーラが昔話を語るのを待っていた。
金の鞠は、レオポルトが、王城に奉公に出した息子のコンラートを迎えに行った際に買ってきてくれたものだ。コンラートはミーナの十歳年上で、今年で十五歳になった。レオポルトは、コンラートの帰還祝いの宴をこっそり抜け出してまで、ミーナにお土産を渡してくれたのだ。ミーナは少し不安だった。今までお留守だったコンラートお兄さまがお戻りになったら、もうわたしのところに来てくれないのではないかしら。でも、こんな素敵な贈り物をくださったのだから、これからもきっと大丈夫よね。
金の鞠を抱きしめていると、お父さまの温もりが伝わってくるようだと、ミーナは思った。たとえ、昨日の晩、これからは今までよりもここに来られなくなるとお父さまがおっしゃっても。コンラートお兄さまはゲルトルート奥さまそっくりで気位の高い方だから、あまり近寄らないようにと、お父さまがおっしゃっても。これからもずっとずっと、ここで幸せに暮らせるのよね。
クラーラはミーナの赤毛を優しくなでながら、いつものように昔話を始めた。
「むかしむかし、人々が魔法を使えたころ、とある大きな街に、一人の美しい娘がおりました」
クラーラの語り口調は、穏やかな午後にふさわしい穏やかなものだった。ミーナも穏やかな気持ちで続きを聞いた。
「娘のあまりの美しさに、街中の男たちが結婚を申し込みました。娘は退屈していたので、男たちに無理難題を突きつけて楽しむことにしました。ある男には、西の国の民の緑色の瞳のような色をした織物を持ってくるように言いました。別の男には、東の国の民の赤毛のような色をした織物を持ってくるように言いました。中でも一番貧しそうな男には、わたしの髪の毛のような美しい金の糸を持ってくるように言いました」
「東の国の人は、私と同じ髪の色をしているの?」
ミーナが尋ねると、クラーラは、さあどうかしら、と答えた。
「金の糸って、この金の鞠をほどいたら取れるかしら?」
「きっとそうね、でもほどいてはだめよ。レオポルトさまがせっかくくださったのだから」
クラーラはミーナの頭をぽんぽんと叩いてから、話を続けた。
「男たちは言われたとおりの物を持ってきました。しかし娘は受け取ろうとしませんでした。娘はこう言いました。あなたたちが持ってきたものは、まったく美しくない。もっと美しいものを、わたしにふさわしい美しさのものを持ってきてちょうだい、と」
ミーナは、娘が欲しがった美しい織物や金の糸がどんなものか想像して楽しんでいた。
「これを聞いた男たちは、娘との結婚をあきらめました。全財産をはたいて金の糸を買った貧しい男はたいそう怒って、娘をこらしめようと思いました……」
その続きは、ミーナの耳には入らなかった。ミーナは、美しい織物で作った美しい服を着て踊る自分を想像して、そのまま眠ってしまったのだ。
クラーラはミーナに暖かい毛布をかけてやり、メイドたちにも休むように言い聞かせた。メイドたちは、前の日の宴の支度に駆り出され、疲れ切っていた。クラーラも疲れていたのか、ミーナの側で身体を横たえた。
やがてミーナが目覚めると、クラーラもメイドたちも眠っていた。ミーナは一人で庭に出るなと言われていたけれど、大人たちを起こすのも悪い気がして、こっそりと扉を開けて庭に出て行った。
クラーラは、亜麻色の髪の毛を垂らし、春の空のような青い瞳を輝かせ、わずかな赤色を伴った白さの肌をした、美しい女性だった。いつも微笑みを絶やさぬ、まるで天使のような人だった。
ただ、その微笑みはいつも儚げだった。クラーラは、自分がどこの誰だか知らなかった。クラーラは、自身にまつわる記憶を失っていたのだ。
クラーラとレオポルトがどこで出会ったのか、二人とも決して語ろうとしなかった。ただ、レオポルトが三十歳ほど年の離れたクラーラに一目で惚れて、どこかから連れて帰ってきたことは、城内の誰もが察していた。それくらい、レオポルトはクラーラに、そしてミーナに甘かったのだ。金髪碧眼で、人に好かれる魅力的な表情を持った城主レオポルトと、亜麻色の髪に水色の目をした美女クラーラ。その間に生まれたはずのミーナは、赤毛に茶色の瞳を持っていて、顔立ちも二人には似ていなかった。ミーナが生まれてしばらくの間は、城内の誰もが、この赤子はレオポルトの子どもではないと、はばかることなく言い放った。しかし、レオポルトがミーナをあまりにも可愛がるものだから、城内の人々はそのうち、ミーナのことを、両親に全く似ていない気の毒な娘だと話すようになり、ミーナが物心つく頃には、「愛嬌のある顔はレオポルトさまに似ているかもしれない」「口元はクラーラさまに似ているのではないか」などと話すようになっていた。
レオポルトがミーナをあんなに可愛がるのは、やっと生まれた跡取り息子のコンラートを、遠く離れた王城に行儀見習いとして送り出したからだ、と話す者もいた。この国では、貴族の息子や娘は、ある程度の年齢になれば、より高い身分の貴族の家に奉公に出て、働きながら様々なことを学ぶしきたりがあった。あるいは、修道院に送られて、慎ましい暮らしをしながら様々なことを学ぶのだ。レオポルトはコンラートの将来性に期待して、幼いうちに王城に奉公に出したのだ。レオポルトはコンラートをそれはそれは可愛がっていたので、ミーナはその身代わりだというのだ。
午後は、母親の膝元で、「むかしむかし、人々が魔法を使えたころ」という枕詞から始まる昔話を聞くのが、幼いミーナの日課だった。そのままお昼寝をしてくれたら、大人たちにとって都合がよかったのだろう。ミーナはクラーラと、身の回りの世話をする数人のメイドたちと暮らしていた。ミーナが寝たら、大人たちも休憩をとるのだ。
ミーナは金の鞠を抱きしめながら、クラーラが昔話を語るのを待っていた。
金の鞠は、レオポルトが、王城に奉公に出した息子のコンラートを迎えに行った際に買ってきてくれたものだ。コンラートはミーナの十歳年上で、今年で十五歳になった。レオポルトは、コンラートの帰還祝いの宴をこっそり抜け出してまで、ミーナにお土産を渡してくれたのだ。ミーナは少し不安だった。今までお留守だったコンラートお兄さまがお戻りになったら、もうわたしのところに来てくれないのではないかしら。でも、こんな素敵な贈り物をくださったのだから、これからもきっと大丈夫よね。
金の鞠を抱きしめていると、お父さまの温もりが伝わってくるようだと、ミーナは思った。たとえ、昨日の晩、これからは今までよりもここに来られなくなるとお父さまがおっしゃっても。コンラートお兄さまはゲルトルート奥さまそっくりで気位の高い方だから、あまり近寄らないようにと、お父さまがおっしゃっても。これからもずっとずっと、ここで幸せに暮らせるのよね。
クラーラはミーナの赤毛を優しくなでながら、いつものように昔話を始めた。
「むかしむかし、人々が魔法を使えたころ、とある大きな街に、一人の美しい娘がおりました」
クラーラの語り口調は、穏やかな午後にふさわしい穏やかなものだった。ミーナも穏やかな気持ちで続きを聞いた。
「娘のあまりの美しさに、街中の男たちが結婚を申し込みました。娘は退屈していたので、男たちに無理難題を突きつけて楽しむことにしました。ある男には、西の国の民の緑色の瞳のような色をした織物を持ってくるように言いました。別の男には、東の国の民の赤毛のような色をした織物を持ってくるように言いました。中でも一番貧しそうな男には、わたしの髪の毛のような美しい金の糸を持ってくるように言いました」
「東の国の人は、私と同じ髪の色をしているの?」
ミーナが尋ねると、クラーラは、さあどうかしら、と答えた。
「金の糸って、この金の鞠をほどいたら取れるかしら?」
「きっとそうね、でもほどいてはだめよ。レオポルトさまがせっかくくださったのだから」
クラーラはミーナの頭をぽんぽんと叩いてから、話を続けた。
「男たちは言われたとおりの物を持ってきました。しかし娘は受け取ろうとしませんでした。娘はこう言いました。あなたたちが持ってきたものは、まったく美しくない。もっと美しいものを、わたしにふさわしい美しさのものを持ってきてちょうだい、と」
ミーナは、娘が欲しがった美しい織物や金の糸がどんなものか想像して楽しんでいた。
「これを聞いた男たちは、娘との結婚をあきらめました。全財産をはたいて金の糸を買った貧しい男はたいそう怒って、娘をこらしめようと思いました……」
その続きは、ミーナの耳には入らなかった。ミーナは、美しい織物で作った美しい服を着て踊る自分を想像して、そのまま眠ってしまったのだ。
クラーラはミーナに暖かい毛布をかけてやり、メイドたちにも休むように言い聞かせた。メイドたちは、前の日の宴の支度に駆り出され、疲れ切っていた。クラーラも疲れていたのか、ミーナの側で身体を横たえた。
やがてミーナが目覚めると、クラーラもメイドたちも眠っていた。ミーナは一人で庭に出るなと言われていたけれど、大人たちを起こすのも悪い気がして、こっそりと扉を開けて庭に出て行った。
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