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前編 ミーナは糸を紡ぐ
第1話 ミーナの憂鬱
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紡ぎ駒が空中でくるくる回り、ぼやぼやした亜麻の繊維を、細い糸へと紡いでいく。繊維がよじれていくのが、ミーナの指先に伝わっていく。少しくすぐったいような感触だ。ミーナは紡ぎ駒を右手の指先で回し、左手の指先でそれを引っ張り上げるようにして糸を細く紡いでいく。糸はどんどん細くなって、長く、長く紡がれていく……。
ミーナはそうして糸を紡ぎ続けるはずだった。
細い麻糸がぷつりと切れ、紡ぎ駒はミーナの膝元へ落ち、そのまま土間に転がり落ちた。ミーナは円錐形の先からベールが垂れ下がった帽子をかぶり、窓辺に椅子を出して腰掛けていた。ミーナは美人ではないが、愛嬌のある、人に好かれる顔立ちをしていた。帽子からすこしはみ出した髪の毛は赤く、肌は薄く頬のあたりが赤く、どんぐりのような茶色の瞳をしていた。
ミーナはとても不器用な娘だった。一生懸命紡いでも、他の娘の半分の長さの糸も紡げぬほどだ。しかし、どんなに不器用でも、だんだんと体が覚えていくもので、何もしていないときでも、ミーナの指先は、糸を紡ぐ際に繊維がよじれていくのに似た、むずむずした感覚がするのだ。そのむずむずした感覚は、ミーナの心を乱れさせた。
実際に糸を紡ぐとき、ミーナの心はますます乱れ、自身を過去へと逃避させるのだ。ミーナは日中の半分も糸を紡ぎ続けていられなかった。回る紡ぎ駒も、ごわごわした麻の繊維も、糸が伸びていく感覚も、すべてがミーナを甘く、切なくさせた。それもこれも、椅子に腰かけて紡ぎ駒を回す際に、太ももにこすりつけるからだろう、とミーナは感じていた。まだ誰も触れていないところに、この駒だけが触れている。この感触は、耐えられないわ。ミーナはいつもそう思っていた。
「ミーナ奥さま」
ミーナの側に控えていた、素朴な顔をした二十歳前の女が、転がり落ちた紡ぎ駒をそっとミーナの手に戻した。ミーナは、この小さな城の跡取り息子の妻で、本名はウィルヘルミーナ・ビルングといった。ミーナは、ウィルヘルミーナという仰々しい名前で呼ばれるのを嫌い、今は亡き母がつけたミーナという愛称で呼ぶように、周囲に散々言いつけていた。ミーナはもうすぐ十六歳。この国では、もはや少女と見なされない年頃だった。
「ヘリガ、どうしよう。このままじゃいつまで経っても糸を紡ぎ終わらないわ」
「ミーナ奥さま」
ミーナは側仕えのメイドのヘリガに泣きついた。
「何も泣くことはございませんわ。糸紡ぎを習い始めて、まだ半月しかたっていらっしゃらないのに……」
「他の娘なら、わたしの二倍、いえ、三倍は紡げるというのに! どうしてわたしはこんなに不器用なの」
ミーナはヘリガの胸元にすがりついたまま嘆いていた。
「ミーナ奥さまは、クラーラさまを早くに亡くされて、何も教わっていらっしゃらないから、仕方ありませんわ」
クラーラとはミーナの母の名だ。クラーラは十五歳でミーナを産んで、二十歳で亡くなった。花のように短い人生だった。
「ああ、お母さま。どうして私に何も教えてくれずに天国へ行ってしまったの」
ミーナは激しく泣き出した。哀れみ深いヘリガは、ミーナを「ミーナお嬢さま」と何度も呼びながら、ついに自身も泣き出してしまった。
その様子を、他のメイドたちはあきれかえって眺め、やがてひそひそ話をはじめた。ここはミーナの部屋ではなく、城内の家事室だ。このビルング城は古い 砦を城に改装したもので、大広間や城主家族の部屋こそ、床板を敷いているが、この家事室は土間で少しほこりっぽい。普段ならメイドたちのおしゃべりに聞き耳を立てるミーナだが、その日はおしゃべりを気にするどころではなく、ヘリガとともに長いこと泣き続けていた。
いつの間にか、日が傾き始める時間になっていた。秋が深まってきた証拠だ。ミーナとヘリガは無為な時間を過ごしてしまった。
「紡ぎ駒で糸を紡ぐだけなら、わたしの部屋でもできるわ。家事室だと、メイドたちの目があるから、集中できないのよ」
ほこりっぽい土間から、床板を敷いた自室に戻ったミーナは、手作業の遅さに対する言い訳じみたことを言いながら椅子に腰掛け、赤い服の膝あたりをぎゅっと握りしめながらつぶやいた。
「早く、ビルング家の女としての使命を果たさなくては」
「その意気です、ミーナお嬢さま。ここでくじけては、あの夏の苦労が報われませんわ。まさか、ミーナお嬢さま自ら亜麻を育てて刈り取るなんて、イメディング家のお屋敷では考えられないことです」
ヘリガは少し怒ったように言った。イメディング家とは、ミーナの生家のことだ。
「わたしは、あの家の屋敷で育った覚えはないわ。けれど、わたしも、あの奥さまが草を育てて刈り取るなんてあり得ないと思うわ」
ミーナも、話し始めこそかなり怒っているようだったが、最後には笑い出した。ミーナは、ふと思い出したように窓の外を見つめた。
この窓の外に広がるビルング領。そして美しいリタラント国の自然。いつの間にか曇り空で、今日はいつものように綺麗だとは思えなかった。このどこかに夫イェルクはいるというのに、もうずいぶん長い間、ひとりぼっちで過ごしているように感じられた。
「イェルク、わたしは一体、あなたの何なの? あの優しかったイェルクお兄さまは、いったいどこへ行ってしまったの……」
曇り空を見つめていると、ミーナは涙が出てきた。
「ミーナお嬢さま……」
ヘリガは心配そうにミーナの顔をのぞき込んだ。ミーナは声も出さずに泣いていた。愛する夫イェルクはここにはいない。わたしがここで頑張っている間、側にいてさえくれない。結婚とはこんなにも虚しいの。亜麻を育てて糸を紡ぐのが結婚なの。それでは修道女と何も変わらない。
「何も変わらないわね、修道女とわたし。だって、わたし……乙女のままだもの」
ミーナはヘリガにも聞こえないような小声でつぶやいた。それから壁際にある鏡台の側へ行った。鏡には厚手の布がかかっていた。
「ヘリガ、一人にしてちょうだい」
ミーナはヘリガを部屋から出すと、鏡台の引き出しから、お気に入りの金の鞠を取り出した。そしてそのまま寝台に潜り込み、布団をかぶって泣き出した。ミーナの胸には、夫に拒絶された虚しさが、決して抜けない棘となって刺さっていた。
泣き疲れたミーナは再び紡ぎ駒を持って糸を紡いだ。くるくる回る紡ぎ駒を見ているうちに、伸びていく糸の感触を味わううちに、ミーナの心はこれまでの人生をたどる旅に出かけていった。
ミーナはそうして糸を紡ぎ続けるはずだった。
細い麻糸がぷつりと切れ、紡ぎ駒はミーナの膝元へ落ち、そのまま土間に転がり落ちた。ミーナは円錐形の先からベールが垂れ下がった帽子をかぶり、窓辺に椅子を出して腰掛けていた。ミーナは美人ではないが、愛嬌のある、人に好かれる顔立ちをしていた。帽子からすこしはみ出した髪の毛は赤く、肌は薄く頬のあたりが赤く、どんぐりのような茶色の瞳をしていた。
ミーナはとても不器用な娘だった。一生懸命紡いでも、他の娘の半分の長さの糸も紡げぬほどだ。しかし、どんなに不器用でも、だんだんと体が覚えていくもので、何もしていないときでも、ミーナの指先は、糸を紡ぐ際に繊維がよじれていくのに似た、むずむずした感覚がするのだ。そのむずむずした感覚は、ミーナの心を乱れさせた。
実際に糸を紡ぐとき、ミーナの心はますます乱れ、自身を過去へと逃避させるのだ。ミーナは日中の半分も糸を紡ぎ続けていられなかった。回る紡ぎ駒も、ごわごわした麻の繊維も、糸が伸びていく感覚も、すべてがミーナを甘く、切なくさせた。それもこれも、椅子に腰かけて紡ぎ駒を回す際に、太ももにこすりつけるからだろう、とミーナは感じていた。まだ誰も触れていないところに、この駒だけが触れている。この感触は、耐えられないわ。ミーナはいつもそう思っていた。
「ミーナ奥さま」
ミーナの側に控えていた、素朴な顔をした二十歳前の女が、転がり落ちた紡ぎ駒をそっとミーナの手に戻した。ミーナは、この小さな城の跡取り息子の妻で、本名はウィルヘルミーナ・ビルングといった。ミーナは、ウィルヘルミーナという仰々しい名前で呼ばれるのを嫌い、今は亡き母がつけたミーナという愛称で呼ぶように、周囲に散々言いつけていた。ミーナはもうすぐ十六歳。この国では、もはや少女と見なされない年頃だった。
「ヘリガ、どうしよう。このままじゃいつまで経っても糸を紡ぎ終わらないわ」
「ミーナ奥さま」
ミーナは側仕えのメイドのヘリガに泣きついた。
「何も泣くことはございませんわ。糸紡ぎを習い始めて、まだ半月しかたっていらっしゃらないのに……」
「他の娘なら、わたしの二倍、いえ、三倍は紡げるというのに! どうしてわたしはこんなに不器用なの」
ミーナはヘリガの胸元にすがりついたまま嘆いていた。
「ミーナ奥さまは、クラーラさまを早くに亡くされて、何も教わっていらっしゃらないから、仕方ありませんわ」
クラーラとはミーナの母の名だ。クラーラは十五歳でミーナを産んで、二十歳で亡くなった。花のように短い人生だった。
「ああ、お母さま。どうして私に何も教えてくれずに天国へ行ってしまったの」
ミーナは激しく泣き出した。哀れみ深いヘリガは、ミーナを「ミーナお嬢さま」と何度も呼びながら、ついに自身も泣き出してしまった。
その様子を、他のメイドたちはあきれかえって眺め、やがてひそひそ話をはじめた。ここはミーナの部屋ではなく、城内の家事室だ。このビルング城は古い 砦を城に改装したもので、大広間や城主家族の部屋こそ、床板を敷いているが、この家事室は土間で少しほこりっぽい。普段ならメイドたちのおしゃべりに聞き耳を立てるミーナだが、その日はおしゃべりを気にするどころではなく、ヘリガとともに長いこと泣き続けていた。
いつの間にか、日が傾き始める時間になっていた。秋が深まってきた証拠だ。ミーナとヘリガは無為な時間を過ごしてしまった。
「紡ぎ駒で糸を紡ぐだけなら、わたしの部屋でもできるわ。家事室だと、メイドたちの目があるから、集中できないのよ」
ほこりっぽい土間から、床板を敷いた自室に戻ったミーナは、手作業の遅さに対する言い訳じみたことを言いながら椅子に腰掛け、赤い服の膝あたりをぎゅっと握りしめながらつぶやいた。
「早く、ビルング家の女としての使命を果たさなくては」
「その意気です、ミーナお嬢さま。ここでくじけては、あの夏の苦労が報われませんわ。まさか、ミーナお嬢さま自ら亜麻を育てて刈り取るなんて、イメディング家のお屋敷では考えられないことです」
ヘリガは少し怒ったように言った。イメディング家とは、ミーナの生家のことだ。
「わたしは、あの家の屋敷で育った覚えはないわ。けれど、わたしも、あの奥さまが草を育てて刈り取るなんてあり得ないと思うわ」
ミーナも、話し始めこそかなり怒っているようだったが、最後には笑い出した。ミーナは、ふと思い出したように窓の外を見つめた。
この窓の外に広がるビルング領。そして美しいリタラント国の自然。いつの間にか曇り空で、今日はいつものように綺麗だとは思えなかった。このどこかに夫イェルクはいるというのに、もうずいぶん長い間、ひとりぼっちで過ごしているように感じられた。
「イェルク、わたしは一体、あなたの何なの? あの優しかったイェルクお兄さまは、いったいどこへ行ってしまったの……」
曇り空を見つめていると、ミーナは涙が出てきた。
「ミーナお嬢さま……」
ヘリガは心配そうにミーナの顔をのぞき込んだ。ミーナは声も出さずに泣いていた。愛する夫イェルクはここにはいない。わたしがここで頑張っている間、側にいてさえくれない。結婚とはこんなにも虚しいの。亜麻を育てて糸を紡ぐのが結婚なの。それでは修道女と何も変わらない。
「何も変わらないわね、修道女とわたし。だって、わたし……乙女のままだもの」
ミーナはヘリガにも聞こえないような小声でつぶやいた。それから壁際にある鏡台の側へ行った。鏡には厚手の布がかかっていた。
「ヘリガ、一人にしてちょうだい」
ミーナはヘリガを部屋から出すと、鏡台の引き出しから、お気に入りの金の鞠を取り出した。そしてそのまま寝台に潜り込み、布団をかぶって泣き出した。ミーナの胸には、夫に拒絶された虚しさが、決して抜けない棘となって刺さっていた。
泣き疲れたミーナは再び紡ぎ駒を持って糸を紡いだ。くるくる回る紡ぎ駒を見ているうちに、伸びていく糸の感触を味わううちに、ミーナの心はこれまでの人生をたどる旅に出かけていった。
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