パピヨン

田原更

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二章 花と蔦

第18話 炊き出し

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 約束の朝が来た。フルールは普段着に着替え、エプロンを着けて、エディが待つ酒場に向かった。麻袋を持ってやってきたフルールを見て、エディは少し、驚いた顔をした。

「おはよう、フルール。その袋の中身はなんだい?」

「うふふ。秘密よ」

 フルールは花が咲いたように笑った。

「さて、私は何をお手伝いすればいいかしら?」

「そこの大鍋で、ポリッジを炊いてくれるかい?」

 ポリッジは、麦で炊くおかゆのことだ。ポリッジはフルールの得意料理だ。母アンリエットと一緒に作った、思い出の料理だからだ。でも、こんな大きな鍋でポリッジを炊くのは、初めてだ。

 ポリッジを炊くのに必要なアーモンドミルクは、エディが用意してくれた。これだけたくさんのアーモンドミルクを作るのに、エディはどれだけ、アーモンドをすりつぶしたのだろう。

「もっと前から呼んでくれたら手伝ったわよ? 私が作るアーモンドミルクも、それを使って炊くポリッジも、おいしいのよ?」

「じゃあ、今度は早めの手伝いをお願いするよ」

 エディは人参の皮をてきぱきとむきながら返事した。人参をゆでて、ピューレにし、その煮汁を、酒場の調理で出てきた骨を煮込んだスープに混ぜ、ピューレを鍋に入れれば、人参のスープの完成だ。

 フルールは大麦を煮立てて、そこにアーモンドミルクを加えた。ときどきかき混ぜながら、一時間ほど煮た。味を調えたら、できあがりだ。

 二人は、互いに作った料理を味見した。

「おいしい!」

 二人の声が、いつものようにぴったりと重なって、二人は大笑いした。


 いくら大鍋で作ったとはいえ、この料理は百人分もなさそうだ。そもそも、百人分の料理を、どうやって二人で運ぶのか。フルールは、百個作ったアクセサリーのうち、何個を渡せるのか頭の中で計算していた。

 台車を使って、下層へと続く階段前まで料理を運んだ。ここから先は、二人で息をそろえて運ばなければならない。

「僕が下に回るから、フルールは上から。気をつけて下りてね。けがしないように」

「わかっているわ、エディ。マチルドみたいに子ども扱いしないで」

「マチルドみたいに大げさに言ってないと思うけど」

 二人は、いつもフルールを子ども扱いする、幼なじみのマチルドのことを思い浮かべながら、階段を降りた。フルールは生まれてはじめて、下層へ降り立った。すえたような、嫌なにおいが鼻をついた。

(ここが、下層……?)

 中層の子どもたちは、決して下層に降りてはならないと、何度も何度も注意される。そのうちのいたずら坊主が、大人の目をかいくぐって下層に降りても、結局、すぐに戻ってきた。いたずら坊主は、仲間たちにこう言うのだ。

(お前ら、絶対に下層に降りるなよ。あそこは、俺たちが暮らす中層とは、違うんだ)

 フルールはいたずら坊主の言葉を思い出した。ぼろぼろの服を纏った男が、女が、フルールのことを生気のない目で見つめていた。まるで、お酒に溺れたシャルルのような目だ。男と女は、ひとしきりフルールを見つめたあと、よたよた歩いてどこかに行ってしまった。

「ほら、フルール。食器を運ぶよ。手伝って」

 いつの間にか、階段を上がりきったエディが、フルールを手招きした。フルールは大慌てでエディのところへ戻った。

 食器を運び終わると、ござを敷いて、そこに鍋や食器を置いた。フルールは麻袋を自分の背中側に置いた。

「さあ。始めよう」

 そう言うと、エディは、小さなラッパを吹いた。調子外れな音が、辺りに響いた。

「なんだ?」

「また、あいつか」

「エディ!」

 近くの潰れかけた空き家から、子どもが三人、飛び出してきた。五歳くらいの男の子、十歳くらいの女の子、十二、三歳くらいの女の子だ。一番年かさの女の子は、エディの顔を見るときらきらした目になり、大声を出した。

「みんな! エディがご飯を持ってきてくれたよ! おいで! エディなら大丈夫だよ! 私たちを、いじめたりなんか、しないよ!」

「いじめる……? エディ、どういうこと?」

 フルールはエディの顔をのぞきこんだ。エディは黙っていた。

 女の子が声をかけると、そこらの物陰、空き家、裏通りから、子どもたちがひょこっと顔を出してきた。子どもたちは鼻をひくひくさせ、うわっとこちらに駆けてきた。

「ほら、慌てないで! みんなの分、ちゃんとあるから!」

「小さい子が先よ! ちゃんと並んで!」

 女の子はエディの助手よろしく、周りの子どもたちに声をかけた。子どもたちが列に並ぶと、お玉をとって、配膳を始めた。

(私の出る幕じゃない感じね……)

 フルールはエディの横でポリッジをすくう女の子の顔を見た。泥だらけではあるけれど、肌は雪のように白く、儚げで、かわいい女の子だ。

「うまい!」

「こんなおいしいポリッジ、初めて食べた!」

 辺りに座り込んだ、四、五十人の子どもたちは、がつがつとスープとポリッジに食らいつき、食べ終わると、満足そうな顔をした。

(よかった……作った甲斐があったわ!)

 フルールがほっと胸をなで下ろしたその隣で、エディは女の子の頭をなでていた。

「エメ。ありがとう。とても助かったよ」

 エメと呼ばれた女の子は、頬をひなげしの花のように染めて、はにかんでいた。

「うわあ。エメの奴、顔が真っ赤だ!」

「真っ赤だ!」

「もう! ロール、ジャック、うるさいなあ!」

 十歳くらいの女の子ロールと、五歳くらいの男の子ジャックは、エメをからかって頭をつんつんしていた。上目遣いに辺りを見回したエメは、はじめて、フルールと目が合った。

「あれ? あなた、誰?」

 その言葉からは、嫌味を感じなかった。エメは、本当に、かわいらしい少女だった。

「私は、アクセサリー店パピヨンのフルール。アクセサリーを作る職人よ」

「アクセサリーって、何?」

 エメの言葉に、フルールは思わず息をのんだ。

「あ、アクセサリーっていうのはね、おしゃれにするための飾りのことよ」

「何で飾りなんてつけるの? 邪魔でしょう?」

 フルールは絶句した。このかわいらしいエメは、中層に生まれていたら、当然のようにおしゃれを楽しんだだろう。上層に生まれていたら、宝石で彩られたアクセサリーをいくつも身につけただろう。でも、ここにいるエメは、何も知らない。同じ人間のはずなのに、見ている世界が、まったく違う。

「おっ! こいつ、何か袋を持ってるぞ!」

「開けちゃえ!」

 呆然としているフルールの後ろで、ロールとジャックが、麻袋の中身をぶちまけた。

 銅線で作った蝶が、辺りに散らばった。

「ちぇっ、パンでも入っていると思ったのに」

「姉ちゃん、これ、何?」

「知らねえよ」

 ジャックに問いかけられたロールは、面倒くさそうに答えると、つまみ上げた蝶を、ぽん、と無造作に放り投げた。蝶は、誰かのぼろぼろの靴にぶつかった。

「ロール! ジャック! 何してるの!」

「ロール! ジャック! 何してるんだ!」

 エメの声に、靴の主の声が重なった。ロールとジャックは、背中をびくっと震わせた。

「リ、リエール!」

 ロールとジャックは、慌てて靴の主のところに向かった。靴の主は、足下に落ちた蝶の飾りをつまみ上げ、一瞥した。

「誰が持ってきたんだ」

 声の主は顔を上げた。十二、三歳くらいの少年だ。狼のような目で、こちらを見ていた。

「わ、私よ……」

 答えるや否や、フルールの顔に、銅線でできた蝶が飛んできた。フルールは少年の顔を見た。怒りで目がらんらんと燃えていた。

(マダムと同じ顔……)

 フルールは少年から目を背けた。

「リエール。君、また、人の顔めがけて物を投げたね。失礼だから、やめなさいって、言っただろう?」

 片付けに夢中になっていたエディは、やっと騒ぎに気づいたようだ。エディは眉をつり上げて少年を叱った。少年はエディの顔を一瞥すると、あざ笑った。

「へえ? こいつは、お前の女か。女の前だからって、かっこつけやがって」

「違う! エディと私は、そんな関係じゃないわ!」

 フルールは、気恥ずかしさから、思わず、ずいっと前に出て、少年の顔を見つめた。その顔は、忘れたくても忘れられない顔だった。

「あなた、私と、中層で会ったわよね……」

「はあ? 知らねえな」

「私の鞄、盗んだでしょう!」

「俺は、盗んだ奴の顔なんか、いちいち覚えていねえんだよ!」

 少年は、にやりと笑うと、脱兎のごとく逃げ出した。

「待て、リエール!」

 エディが少年のあとを追った。

「待って、私も!」

 追いかけようとしたフルールの服の裾を、エメが引っ張った。

「危ないから、だめ」

 エメの真剣な眼差しに、フルールは従うしかなかった。

「あれ、袋がない!」

 ジャックが叫んだ。

「銅で出来てたみたいだから、誰かが鍛冶屋にでも売りに行ったんだろ。ちぇっ、手の早い奴だ!」

 ロールが舌打ちした。

 フルールは、足下からふらふらと崩れ落ちた。

(また、何も……少しも、届かなかった……)

 フルールは頭を垂れて、砂で埋もれた石畳を呆然と眺めていた。
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