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第三章 善き心、屈するとき
6
しおりを挟む鏡の牢獄をどうにか抜けたア―サ―が、死ぬような思いで走って走ってやっとイルヴィアを見つけた時。
イルヴィアの前に鏡メバンシ―が立っていた。イルヴィアの両肩を掴み、顔を覗き込むようにして、三つの目を怪しく明滅させている。
それをイルヴィアは、精気のない目で見つめていた。だらりと下げられた両腕、小さく開けられたまま何の言葉も出て来ない口……誰がどう見ても一目瞭然だ。
イルヴィアは今、鏡メバンシ―に何かの術をかけられている!
「イルヴィアから離れろおおおおぉぉっ!」
絶叫して突進しながら、ア―サ―は必殺の気迫を込めて拳を繰り出した。
だが鏡メバンシ―はそれを大きく跳んでかわし、そのまますぐそばの家の屋根に立つ。
「逃がすかっ!」
ア―サ―はすぐさま、鏡メバンシ―を追いかけようとした。が、その視界の隅に、今にも倒れそうなイルヴィアが映ったので、
「っ、と!」
慌てて両肩を掴んで支えた。
「イルヴィア、大丈夫? 僕のこと判る? ほら、僕、ア―……じゃなくてその、女神二号だけど、」
「……」
「しっかりして、イルヴィアっ!」
「……」
頼りなく虚ろな、朝もやのようにぼんやりとしたイルヴィアの瞳。だがア―サ―が肩を掴んで揺さぶり、呼びかけていく内に、だんだんとその瞳に色が戻ってきた。
「イルヴィア? イルヴィア、しっかりっ」
イルヴィアは徐々に、その視線の焦点を目の前にいるア―サ―に合わせていく。
やがて、それがア―サ―(女神二号)だと解ると、無言で右手を上げた。そして、
ぱぁん!
ア―サ―の頬に、平手打ちを一発。
「……わたしに触らないで」
確かにイルヴィアには違いないが、イルヴィアとは思えないくらい、重く低い声。それで思わず固まってしまったア―サ―の手を、イルヴィアは肩を乱暴に振って払いのけた。まるで、汚らわしいものだと言わんばかりに。
その目には冷たい憎しみが宿っている。
「イ、イルヴィア?」
たじろぐア―サ―。だがこれは、エミアロ―ネにとっては予想通りのこと。
《まともに聞いちゃだめよ、ア―サ―君。イルヴィアちゃんはもう、》
「わたしは既に、鏡メバンシ―様の二段目の催眠術を受けたの」
エミアロ―ネの言葉がア―サ―に届くのを阻むかのような、イルヴィアの視線と声。それはア―サ―の心を、冷たい刃で少しずつ斬りつけていく。
「どういうことか解る? わたしはもう、いつだって自殺でも何でもできるのよ」
「そ、そんなこと、僕がさせないっ!」
ア―サ―は、余裕こいて屋根の上にいる鏡メバンシ―に跳びかかろうとする。だが、その肩をイルヴィアが掴んで止めた。
そしてあくまでも冷たく、
「まだ解らないの? あなたは既に、わたしを護れなかったのよ」
イルヴィアは言い切った。
ア―サ―の動きが止まる。
「わたしはもう、いつ死んでもおかしくないの。既に殺されたと言ってもいいの。どうしてそうなったと思う?」
「だ、だからそれは、鏡メバンシ―の術で」
「その原因は? 誰かさんの心の中に、わたしが弱点として刻まれていたからよね?」
「……う」
「だからわたしは狙われた。なのにあなたは、わたしを護ってくれなかった……」
イルヴィアの声のト―ンが落ちていく。
ア―サ―の気持ちも落ちていく。
《さっきと同じパタ―ンよ、これ! ア―サ―君、もちろん解ってるわね? これはイルヴィアちゃんの本心の言葉じゃなくて、鏡メバンシ―の、》
「解ってます……けど、」
ア―サ―の顔色が悪い。
「言ってることは正しいというか……反論できないというか……」
《だから! 反論なんかする必要はないの! さっきも言ったでしょ、あなたが憧れるべき、かっこいい英雄っていうのは、》
「ですから……僕は、」
イルヴィアの視線に耐えきれず、ふらりと一歩、ア―サ―は後ずさる。
「何の取りえもなくたって、背が低くたって、護るべきものを護って戦うぞって……さっきは、そう決心したんです。でも結局……」
《悩んじゃだめっ! 今は、目前の敵のことだけ考えて! でないと、》
スタッ、と音がして鏡メバンシ―がイルヴィアの背後に着地した。その三つの目が、イルヴィアの肩越しにア―サ―を見ている。
そしてイルヴィアの背を、とん、と押す。押されてイルヴィアがア―サ―に近づく。
近づきながら言葉を突き刺す。
「あなたはもう、わたしにとって、昨日までのあなたとは違う」
「……えっ……」
《聞いちゃだめっ! ア―サ―君!》
イルヴィアの、トドメの一撃がきた。
「今わたしは、あなたのことが…………大っ嫌い」
「っっ!」
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