魔力の根源

氷沼さんご

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雪降る地で

冬の訪問者 2/2

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 そこには使われていない家具が幾つも放置されたまま残っている。足を踏み入れると、床に溜まっていた埃が宙に舞って光に照らされた。もちろん、ここは私の部屋ではない。
 レンガの壁には低い位置に隙間が残っていて、ここからリビングの様子を知る事ができた。この事に気づいているのは、おそらくまだ私だけだろう。
 ヘメドウィフさんが部屋を出てから暫くして、誰かが横の部屋に入ってきた気配があった。
 しゃがんで顔を壁に近づける。
 室内をはばかることなく歩き回る一人の男が、狭まった視界の中へ出入りしていた。見えるのはおへそから下までで、顔は確認できない。
 これは今の最新ファッションなのか、男女の違いなのか。お母さまと比べたときに、その服装の違いがはっきりしていた。
 身にまとったロングコートは大きな装飾が減った代わりに、袖口やさりげない細かな意匠に手間を掛けている。重厚な華やかさに対して、活動的で繊細な美を重視したスタイルだった。
 「やあ、ご機嫌よう」
 至極穏やかだけど、絡みつくような嫌な感じのする声。やっぱり行商人というイメージとは少し離れている印象を受ける。
 「今は確か……フロウァ=アレット様、とお呼びすればよろしかったでしょうかね」
 今は、ね。その一言でお母さまが名前すらも変えている事が確定してしまったわけなのだが、それに関してはある程度覚悟はできていた。むしろ、やっぱりかという納得の方が大きい。
 それよりも、間違いなくお母さまの過去を知っているこの人とはどういう関係性なのかが気になった。ひょっとしたら、この人がお父さまだという可能性が?……だとしたらちょっと嫌かも。
 「ええ。……わざわざ会いにいらっしゃるなんて、珍しいこともありますのね」
 対するお母さまは無感情だ。ボードゲームの恨みは海よりも深い。
 「おや、これは懐かしい遊びだ。これはこれは、なかなか興味深い局面ですね」
 様子に気づいていないらしい行商人は、わざわざ怒りの原因に触れてしまう。いや、悪びれた様子がないので、本当は分かってやっているのかもしれない。
 視界からその姿が完全に消え、椅子を引く音が聞こえた。私は壁に耳を寄せる。
 「ただ話すだけでは退屈でしょう。余興に、このまま私がお相手させていただいてもよろしいかな」
 「いいえ。新しく始めましょう」
 「それがいい。私が白番を持ちますよ。ところで、この勝負はあの女中と?」
 「それが何か?」
 「いやいや。何、只の世間話に過ぎません。多少は付き合ってくれてもいいでしょう?」
 「残念ながら、わたくしが紡ぐことの出来る言葉は有限なのですわ」
 「失礼、それは初耳でした。では、私が勝手に話す分には構いませんね?」 
 そして、行商人は色々なことをお母さまに聞かせ始める。多くはどこかの天気がどうだとか、取るに足らない事だけど、私にとっては色々と気になる事も話題に上がった。
 「――近頃、紡績機が実用――まだ精度が悪く、数も――」
 おお、紡績機。って、どの辺りの時代だったのだろう。曖昧だけど、近世に入っていた暫くしていたような。思っているよりも、都市部では文明が進んでいるのかもしれない。
 「――で思い出しましたが、サプランデュムが新たに――セルディスフォードのクィンスタンに関して――」
 しかし、なにぶん分からない言葉が多すぎる。専門書を開いているような感覚になり、聞いた言葉がそのまま反対の耳へと抜けていく。終わってみれば、ほとんど内容を覚えていられなかった。この散漫な注意力が憎い。
 「そろそろ本題に入ってもらえるでしょうか?」
 そして遂に、お母様が延々と続く行商人の話を遮った。
 「おお、そうでしたそうでした。私としたことがついうっかり、積もる話に花を咲かせてしまいました。何しろあれから六年もいや、八年でしたか?あの頃は……ああ!いや、失礼失礼」
 おほん、と咳払いが一つ。
 「今日は他でもありません、近隣のとある場所から祭祀についての協力要請がありましてね。本日はそのお願いに、と……」
 「残念ですが、お断りさせていただきます。それではどうぞ、帰り道にはお気を付けて」
 「そう冷たい事を言わずに」
 やはり、というべきか、行商人は強引に話を進めていく。
 「今まで祭祀を主導していた家のご古老が急逝したようでして。気難しい方で跡継ぎにも恵まれず……。何、中央とは実践内容に異なる部分があるようですが、つまるところ同じ信仰を持つ者同士。だからこそ結託の為に努力しなければ。……そう思いませんか?」
 祭祀、信仰。これまで縁がなかった言葉だけれど、この世界にも宗教はあるらしい。
 「でしたら、あなたが行かれたらよいでしょう」
 「そうしたいのは山々なのですが、どうにも手が離せないものでして。非常に残念な事に、ね。この辺りの地に威光を示す大変よい機会です。それに、あなたにはぴったりの役回りではないかと」
 ぴったり?お母さまに何がぴったりなのだろう。
 ……いや、それよりも外の話だ。行商人が滔々とその村が如何に美しく、素晴らしい所なのかを熱弁し始め、私はそれに耳を澄ます。
 「わたくしより相応しい方は沢山いらっしゃいますわ」
 そんな行商人に対して、外の空気みたいに冷たいお母さま。聞いているこちらの方が身をすくめてしまう。
 いい加減早く諦めて……いや、待てよ。これは上手くいけば外へ出かけるチャンスではないか?よし、頑張れ行商人。
 それから暫く、二人は言葉による複雑な攻防を繰り広げていた。やがて、舌戦が水掛け論の様相を呈してきた頃、遂にお母さまが怒りをあらわにした。
 「お話しがそれだけなら、諦めていただけますか?もう関わるつもりはありませんから。そういう約束でしょう?」
 「ええ、勿論ですとも。貴女には拒否する権利がある。それを無理に曲げる事はしませんよ」
 どちらかが立ち上がる音がした。お母さまの頑なな意志を前にして説得を諦めてしまったのか、行商人が話題を変える。
 「そういえば、ここ最近は良い物を食べてらっしゃいますか?甘く美しい砂糖菓子や、白くてきめ細かいパンなどが手に入ったら、それはもう喜んでいただけるでしょう」
 ……何かが変だった。
 お母さまに向かって言っているように聞こえない。しかし、それでは別の誰かに話しかけているようではないか。そう、例えば――。
 「ええ、きっと――」
 突如、話し声が聞こえなくなった。
 悪い予感がする、いや、確信に近かった。
 頭ではいけないと分かっているのに、ゆっくりと壁に近づけていた耳を離して、向こう側を覗いてまう。
 眼球。
 ぎょろりしていて湿り気を帯びたそれが、同じようにこちらを覗き込んでいた。
 「ねぇ?」
 「ぅ、ひゅっ」
 叫ぼうとした私と息を呑む私がいて、呼吸が分からなくなる。腰が抜けた状態でよたよたと後退り、壁にぶつかる。頭を打ちつけたがそれどころではなかった。
 その間、見開かれた目は一切瞬きをすることもなく、瞳がぐりぐりと動いてこちらを追ってくる。そのじっとりとした感触で全身に鳥肌が立つ。
 壁に張り付くようにしてなんとか扉まで移動すると、二階にある自分の部屋へと脱兎の如く逃げ出した。
 
 「ぜぇっ……ひぃ……ぜぇっ……」
 ああ……酷い目にあった。
 と、いう訳で、これ以降にどんな会話がされたかは分からなくなってしまった私は、閉じこもって、あれこれと妄想を膨らませることで時間を潰すことにした。
 聞くところによると、山間に位置する町で、近くにはとても広い森があるという話だった。お祭りなら、やっぱり陽気な音楽と共にダンスなどを踊るのだろうか。
 そんなことを考えながらもう一度聞き耳を立てに行くか思い悩みだした頃、窓の外に荷物が浮かび上がり、ゆらゆらと動き出したのが目に入った。外で繋がれていた生き物が、立ち上がってのしのしと歩き出している。外を覗くとあのコート姿がある。ようやく行商人が出て行ったようだ。
 風に揺らめくコートに向かって舌を出すと、突如として後ろ姿がこちらへ振り返る。慌てて窓から離れて頭を引っ込めた。
 
 先ほどとは逆に階下へ戻り、そっと扉を開く。お母さまは思いつめた表情でじっとテーブル上に視線を落とし、何かを考え込んでいる。
 スティカでの勝負は決着が付かないまま残されていた。しかし、形勢は明らかに白が良かった。お母さまが手を伸ばし、全面に睨みを利かせる白い駒を、握り潰すように倒す。
 盤上には、二つの黒い駒だけが残された。
 「お母さま?」
 話しかけたときには、既にいつもの表情を取り戻していた。しかし、ほんの少しだけ眉が下がっているのが私には分かった。
 「ああ、レシィア。本についてなのですが、今は難しいらしくて」
 「ううん、いいの。それで、あの人は……?」
 「忘れてしまっていいですよ。もう二度と会うことはないでしょうから」
 うーん、その答えが一番怖い。
 やっぱり交渉は決裂してしまったらしい。この調子では外には出られないだろう。がっくりと肩を落とした。
 「そういえば、ちゃんと言う事を聞いていませんでしたね。だめでしょう」
 「うっ……ごめんなさい」
 やっぱり盗み聞きはバレていた。しかし、次に意外な一言が掛けられた。
 「全く、そんなようではお出かけには連れていけませんよ」
 「……えっ?お出かけをするの?」
 「あら、行きたくなかったですか」
 首が取れそうになるほどブンブンと横に振った。いざとなったら床に転がって手足をばたつかせて懇願するところまでは覚悟していたのだけれど、一体どういう心積もりなのだろう。しかし、そんなことはもはや些細なことだった。
 「絶対、ぜーったいに行く!」
 「そうですね……。これからちゃんと言う事を聞けるなら、連れて行ってあげてもいいですよ」
 「ほんと!?」
 「ええ、勿論」
 「聞く!聞きます!」
 これで退屈な日々に、潤いが期待できる。しかも、それがお祭りともなれば、いくら知らない世界の行事といえども、愉快でないはずがない。当日がとっても楽しみだ。もしかしたら何日か滞在できるかもしれない。
 くるくるとその場で回って喜びに浸っていると、穏やかなお母さまの声がした。
 「ではレシィア、座って」
 座る?何のために?
 お母さまは散らばった駒を集めると、どこかで見たような初期配置から、次々と順番に動かし始める。そうしてあっという間に、訪問で中断されたはずの盤面が再現されていた。
 「さあ、これで続きができますね、レシィア。一緒に遊んでくれるでしょう?」
 お母さまが指先を合わせ、天使のようににっこりと微笑んだ。
 「そうですね、これからしっかりと戦術の勉強もしましょうか」
 「えっと、わたし……」
 「さっき確かに、言う事を聞くと約束したんですもの。嬉しいですね、レシィアが私のために頑張ってくれるなんて」
 どこからそんな力が出ているのかというくらい、肩をしっかりと掴まれている。
 「お出かけがしたいのですよね?」
 「……うん」
 結局、その日はニコニコ顔のお母さまとのボードゲームに付き合わされ、片手では収まらない数の敗北を記録することになったのだった。
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