魔力の根源

氷沼さんご

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雪降る地で

冬の訪問者 1/2

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 初めて屋敷の外に住む人に会ったのは、もう雪が珍しくなくなってきた頃のことだった。積もる事こそ少ないけれど、ここは一年を通して曇りが多く、寒冷な気候である。
 七歳までここで過ごして学んだのは、慣れてきても寒いものは寒いということ。
 今日も窓の外では雪が舞っている。お母さまと私は暖炉のあるリビングで、ボードゲームをしながら長くて退屈な冬の時間を潰していた。自然の音はすっかり息をひそめ、薪のはぜる小さな音だけが響いている。
 
 うぐぐぐぐぐ……。
 遊んでいるのはスティカというチェスに近いゲームで、お母さまはこれが大好きだった。
 初期配置で使われる二列のうち、奥の列に歩兵の役割をする駒がずらりと並ぶのはチェスと同じだ。しかし、サイコロを転がし手前の駒の並びをランダムに決定するのが特徴的で、このルールが遊戯を面白く、また複雑にしている。
 たまにお母さまに勝てる配置になるのが、私もこのゲームを気に入っている理由でもある。これでもだいぶ上達した方だと思うのだけれど、娘にも全く容赦がないお母さまとの本日の戦績は二連敗。現在、三連敗に向けて我が軍は順調に進行中。
 えーっと、次にa2、f6ときて、g7、同じくg7、c4……よし、これでいいはずだ。
「本当にそれでよいのですね?」
 駒を掴んで動かそうとすると、お母さまがちょんと別の駒を軽く触る。
 ……そうか、ここにはあの駒が効いているのか。危ない危ない。今は攻めちゃだめだ、一旦守りに入らないと詰まされてしまう。という事は……c4が先で、それからa2?
「あら、変えてしまうのですか?」
「もう!お母さまは喋っちゃダメ!」
 口元を抑え、ころころと笑うお母さま。
「はいはい。ゆっくり考えて大丈夫ですからね」
 何か問題がないかをもう一度確認してから、改めて別な駒を滑らせる。
 お母さまは盤面を眺めながら、暖炉で温めていたポッドからミルクをカップに注ぐ。それを口元に運ぶと、一息ついてそっと駒をつまんで動かした。
 「……あれ?」
 私の狙いはするりと躱され、その優雅な手つきとは裏腹に厳しい盤面が出来上がる。二つの重要な駒が同時に攻撃されていて、どちらかの駒を逃がせば、代わりにどちらかが助からない……。
 「レシィアはよく考えているわりに、肝心なところが抜けているんですから」
 お母さまは肘をついて退屈そうに、しかし嬉しそうにスプーンを弄んでいる。悔しい事に、よく私の事を分かっている。
 何か有効な指し手がありそうで見つからない。私もミルクを補給し、何とかこの窮地を抜け出す手段を探して再び唸っていると、視界の端で何か大きなものが動いているのを捉えた。
 視線を向けると、象、いや、マンモスに似ているだろうか、庭を窮屈そうにしながら、巨大な生物がゆっくりと屋敷へと近づいてきていた。一階の屋根を越えるぐらい沢山の荷物を背中に乗せても、平気そうにしている。
 その横には手綱を握る人影があった。行商人がこの季節もやって来たのだ。
 「おかあさま!行商人が来たよ!」
 「ええ、良かったですね。そんなに楽しみにしていましたか?」
 行商人が立ち去った後には、普段手に入らないもの(多くは食べ物、特に調味料だった)が家の中に増えているので、その訪問は歓迎していた。そして最近、自分の意識が長く保てるようになってきて、欲しくなったものがあるのだった。
 「うん。本はあるかなぁ」
 ここで何かの知識を手に入れるのは、難易度が高い事だ。
 文化、学問、色々と知りたい事はあったけれど、情報から遮断されているはずの七歳の子供が思いもしないはずの知識を要求し始めたら、気味悪く思われてしまうだろう。
 加えてお母さまの問題もある。下手に以前の暮らしの事をつついて、何かお母さまの過去の地雷を踏むことがあったら。臆病になり過ぎているのかもしれないけれど、そんなことを考えたら、どうにも色々と尋ねるつもりにはなれない。
 隠れ家的な落ち着きのある今の生活を壊してしまうのを、酷く恐れている自分がいる事に気づき始めていた。今、私が頼れる人は三人、しかも同じ家に住んでいるのだから、そこは慎重にならざるを得なかった。
 「ご本が欲しいのですか?今回はだめかもしれませんが、次に何か持って来て貰えるようにお願いしてみましょう」
 「いいの?ありがとう、お母さま!」
 行商人は適当な木へ手綱を括りつけ、玄関の方へと消えていく。
 あれ、……待てよ。改めて盤面に目を戻すと、妙案がぱっと思い浮かんだ。……うん、少なくとも同等程度の駒交換に持ち込めそうだ。小気味よく駒を打ち付けると、それを見たお母さまの姿勢が僅かに前のめりになる。
 扉がノックされた。母が適当に返事をすると、ベヨルンさんがするりと室内へ入ってくる。
 「失礼致します。奥様にお会いしたいと言っているのですが……いかが致しましょう」
 「あら、そうですか。また次にするように伝えてください。それと、次に本を幾つか見繕って持ってくるようにと」
 お母さまは盤面に目が釘付けでベヨルンさんの方を見向きもしない。
 「それが、どうしても大事な話だから、という事でして……」
 少しうろたえた様子が不思議だった。普段ならお母さまの指示を承服して出ていくのだけれど、珍しく食い下がるのは、何か理由があるのだろう。
 彼あるいは彼女を行商人と呼んではいるものの、本当にただ商売をしている人なのかは分からない。話したこともない私にとっては、結局のところ謎の人物だった。
 面会の申し出を簡単に断れないのを見る限り、やはりただの商人ではないらしい。
 お母さまはベヨルンさんと盤面を交互に見てから、大きく息を吐いた。
 「……分かりました。では、着替えるまで待たせておいて頂けますか。ヘメドウィフを呼んでおいてください」
 低い声で決定を告げると、ベヨルンさんを下がらせる。
 ……あれ、お母さま、もしかしてすねている?口を尖らせた横顔は、明らかに不機嫌な様子を隠しきれていなかった。まさかお母さまがここまで遊びに本気だったとは。
 むにむにむにむに……。お母さまは私を抱きかかえるようにして椅子にもたれ、ほっぺを執拗に触ってくる。不機嫌バロメーターが上がっている証拠だった。耳元で静かに囁かれる。
 「いい子のレシィアには自分の部屋で静かにしていてほしいのですが……。できますね?」
 「ふぁ、ふぁい」
 ヘメドウィフさんを待つ間も、ひたすらにほっぺをこねたり摘まんだりと好き放題される。
 このままではほっぺに穴が空いてしまう。両手でほっぺを抑えて守りの体勢に入ると、今度はがら空きになった脇腹をくすぐられる。耐えられずに脇腹を押えると、またほっぺをつつかれた。
 「くひひ……!あはははは!ひっ……あはは!」
 「奥様、お呼びでしょうか?」
 救世主がお母さまの着替えを抱えて入ってきた。
 「あらまあ、賑やかでよろしいですわね」
 「よくないよっ!」
 ヘメドウィフさんと入れ違いに、無限に続くほっぺ&くすぐりのループから脱出すると、私は迷わず隣の部屋へ入り込んだ。
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