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第一話「平穏ならざるものたち」
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降り頻る雨の中で、柊寒多郞は渡し舟の前に並ぶ乗客に向かって一人ひとりに刀を振るった。これから越える紀ノ川に潜む戦国の亡霊を鎮めるための紋切りである。
「まったく阿漕な商売だこと!」
寒多郞が目を向けると十六、七歳ほどの女が叫んでいる。女は前にいる大柄な男を盾にしている。四十に近い見た目をしている男で親子かと思われたが、袖の柔らかい掴み方をみるとどうやら夫婦のようだ。
「いやあ、これはツレが失礼した。なにぶんこの地の風習は知らんものでな」
左團次という男はそう言って豪快に笑った。寒多郞はふっと息を漏らした。
「そう思われても仕方ないでしょう。この川の渡しの中でこの“四の渡し”だけ妖魔祓いが置かれている。この地が水攻めで多くのものが犠牲になったものが多い謂れがありますから」
「そうだ、詫びと言ってはなんだがワシにもその太刀でひと振り祓ってもらえぬかな。これから何かと世話になるから」
寒多郞はコクリと頷くと船頭に指した傘を預けた。そして小言で念を唱えながら鞘からソロリと刀を引き抜く。そして熊野から汲んできた聖水に刃をつけて清める。その刃は赤サビに覆われていることに左團次は気づき眉を顰める。
寒多郞が紋切り型を打つ。すると左團次の腕毛がゾワゾワと揺れる感覚を覚える。
(この男、戦を知っている!)
左團次には辛うじて剣先の速さを見切ることはできた。周りはその剣の舞いに拍手するものもいたが、これは演舞による雑技ではないことを自身の鳥肌が物語っていた。
(惜しむべきは、錆び付いた刀身か・・・)
左團次は赤く染みついた妖魔祓いの刀を見て落胆する。それに不満を漏らさず淡々と行うこの男の表情を覗きこむ。それに対して柊寒多郞はそれに気づいて嫌そうに目を細める。そして気持ち少し早めに儀式を切り上げた。
「よき舟旅を・・・」
寒多郞はそれ以上、人と関わりたくないのかそそくさと小屋に戻ろうとするので、左團次はその尻尾を逃したくなかった。
「待ってくれ!お主のその剣の腕前。この紀伊の国に仕官しているものか?」
「いえ、私めは侍としては無頼の浮浪人でございます。どこの国もとにも属することはありません」
「そうか・・・できればお主のその腕前と一度手合わせを願いたかった。戦乱が終わり十余年。わしの刀を振るうこともめっきり少なくなってきた。だからお主となら・・・」
「申し訳ないが、自分は今さら人を殺めるために剣を振るうつもりはない。御免くだされ」寒多郞は左團次の思いを塞ぐように答えた。
「しかし、その刀は一度、研ぎ直した方がよかろう。君とてこんなことでは、その腕も錆びついてしまうだろう」
「この刀もまた訳ありでして・・・妖魔払いのものゆえ魑魅魍魎しか斬る事ができませぬ。そしてこのサビ付きはいくら研いでももとには戻らないのでございます。それでもわたくしはこのナマクラ刀を気に入っております。今の稼業も自分には天職でございますので」
「そうか・・・」と言って男はそのまま舟に乗り込んだ。
しかし、あくる日も左團次は手合わせを所望した。それをまた寒多郞は断った。それは妻である桃々音の嫁入り道具を運び終わるまでの数日の間、そのやりとりが繰り返された。寒多郞にはわからなかった。男が仕官する紀伊といえば徳川頼宣を迎え入れ領地の整備、地士制度の制定などが敷かれかつてない賑わいと聞いている。この紀ノ川にも治水整備が進められ船頭業も進められるようになってきた。仕官先として充分なところだ。
(いまだに戦の時代の栄光が忘れられぬか・・・)
左團次の屋敷は川を越えた先の山城の跡地にひっそりと聳えていた。妻の桃々音が望んだところである。その夜も左團次は風呂上がりに桃々音のひざ枕で耳かきを受けている。
「桃々音、祝言も近いし今更だが、本当に俺でよいのか?」
左團次はもて余した暇の中で桃々音に尋ねた。
「貴方は私の父を殺めた。つまりは私の父より強きお方。私はそんな強き貴方をお慕いし申し上げている。それだけのことでございます」
左團次は桃々音のいまだ残る無邪気な笑顔を背中で受けてゾクリとした。
桃々音は幼い頃より父の背中から弱肉強食の戦乱をみていた。そんな父を失い、その手はより強きものに渡った。彼女の慕う動機は強さしかない。それが今の平穏な世で生き抜くことができるのか。左團次はそれを見定めるために桃々音と共にいるように思えた。
そんな左團次とて今の泰平に息苦しさを感じていた。武士でありながらここ数日は刀身を鞘に納めたままの藩の領地測定係の任に就いている。既に夏の陣はこの世のことのように思えないほどだ。
「これからの世は刀を使うことも少なくなる。剣術よりも算術を要する時代になるぞ」
「それでもあなたの強さがあり、私を守ってくださる。鈍刀で腕を奮うエセな侍とは違いますわ」
桃々音はまた無邪気な笑顔を見せたので左團次はゴロリと寝返った。
(やはりあの祈祷侍しかおらんな・・・)
最後の家財道具が渡されることとなった日、左團次はやはり寒多郞と向き合った。左團次は二本指しの刀の一本を引き抜いて寒多郞の前に突き出した。寒多郞が持つのと同じ長刀である。その手には果たし状も添えられていた。
「斬れる刀同士なら問題あるまい」
「何度、所望されても返答は同じでございますよ」
誘いを断られた男は恥ずかしさを覚えつつもその答えを承知している。男は突き出した刀をその場に置いて、スッともう一方の短刀を引き抜いた。その狙いを去っていく寒多郞の背中に定めるとそのまま一直線に突っ込んでいった。
寒多郞は背中でそれを察知しヒラリと左に身体をたおすとそのまま地をはって間合いをとった。その間に自分の錆びついた刀を抜いて構えた。
「乱世の考えは捨てよ!」勘太郎は語気を荒げた。
その一太刀は左團次を船着場の小屋まで吹き飛ばした。辺りの瓦礫は反動で崩れ、左團次に降りかかる。男はゆらりと起き上がった。寒多郞は改めて刀を構えたが、それを断るかのように左團次は刀を納め「ブハハハハハハハッ!」と豪快に笑ってみせた。
「それもそうだな。俺も剣を交える最中、つい桃々音の顔が頭によぎってしまったよ」
「それでよいのです」
男は舟にそのまま乗り込んだ。背筋を伸ばして座り込みそれ以降は寒多郞の方に振り返る事なく舟首を見つめたままであった。
また夜が来た。船頭と別れて家路に向かう寒多郞は寒気に襲われた。それは雨季による冷え込みだけでなかった。
(誰かいる!)
そう思った瞬間からの影が寒多郞に襲いかかるまではすぐだった。寒多郞は即座に影からの太刀をかわして自身の剣を引き抜く。いまだに背中を向けたままだが、寒多郞にはその影の殺意が誰のものであるかわかっていた。
「まだわからぬか!」
振り返った勢いで寒多郞は太刀を真横から打ち込んだ。
「ぎゃああああああああああーーーーっ」
思いもよらぬ悲鳴だった。悲鳴の元は間違えなく目の前の男からであった。男は傷口から鮮血を吹き出してはいるが、終始影に纏わられて姿がはっきりと見えない。だが、その風貌は間違えなく左團次であった。暗い中で判然としないが、その顔は笑みを浮かべているようでもあった。
(この錆び付き刀で人が斬れた?魑魅魍魎しか斬れない筈なのに。)
推測するに斬られた時点で相手は既に死んでいた。そしてそれを処したのは・・・。
ふと寒多郞はもうひとつの気配を察しその人影の感じる方に顔を向けた。そこにはシダレ柳のそばで嫁入り前の娘が笑みを浮かべた。
「お強いヒト・・・」
寒多郞は女の視線から即座に目を伏せて慌ててこの場を立ち去った。その背中には帰りの間、常に寒気が離れなかった。いくら剣を鍛えても叶わぬ愛憎がそこにあった。
女はそれ以降、姿を消した。そのことを船頭が気にかけたのは一週間後のことであった。
「そういえばあのご夫婦は最近見かけませんな」
「そうですね・・・狐に化かされましたかな?」
「まあ、狐とはいえども客は客だ。惜しい常連をなくしたものだ」
寒多郞は船頭のひと言に苦笑し、この時期には珍しい青空に男の冥福を祈った。
「まったく阿漕な商売だこと!」
寒多郞が目を向けると十六、七歳ほどの女が叫んでいる。女は前にいる大柄な男を盾にしている。四十に近い見た目をしている男で親子かと思われたが、袖の柔らかい掴み方をみるとどうやら夫婦のようだ。
「いやあ、これはツレが失礼した。なにぶんこの地の風習は知らんものでな」
左團次という男はそう言って豪快に笑った。寒多郞はふっと息を漏らした。
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「そうだ、詫びと言ってはなんだがワシにもその太刀でひと振り祓ってもらえぬかな。これから何かと世話になるから」
寒多郞はコクリと頷くと船頭に指した傘を預けた。そして小言で念を唱えながら鞘からソロリと刀を引き抜く。そして熊野から汲んできた聖水に刃をつけて清める。その刃は赤サビに覆われていることに左團次は気づき眉を顰める。
寒多郞が紋切り型を打つ。すると左團次の腕毛がゾワゾワと揺れる感覚を覚える。
(この男、戦を知っている!)
左團次には辛うじて剣先の速さを見切ることはできた。周りはその剣の舞いに拍手するものもいたが、これは演舞による雑技ではないことを自身の鳥肌が物語っていた。
(惜しむべきは、錆び付いた刀身か・・・)
左團次は赤く染みついた妖魔祓いの刀を見て落胆する。それに不満を漏らさず淡々と行うこの男の表情を覗きこむ。それに対して柊寒多郞はそれに気づいて嫌そうに目を細める。そして気持ち少し早めに儀式を切り上げた。
「よき舟旅を・・・」
寒多郞はそれ以上、人と関わりたくないのかそそくさと小屋に戻ろうとするので、左團次はその尻尾を逃したくなかった。
「待ってくれ!お主のその剣の腕前。この紀伊の国に仕官しているものか?」
「いえ、私めは侍としては無頼の浮浪人でございます。どこの国もとにも属することはありません」
「そうか・・・できればお主のその腕前と一度手合わせを願いたかった。戦乱が終わり十余年。わしの刀を振るうこともめっきり少なくなってきた。だからお主となら・・・」
「申し訳ないが、自分は今さら人を殺めるために剣を振るうつもりはない。御免くだされ」寒多郞は左團次の思いを塞ぐように答えた。
「しかし、その刀は一度、研ぎ直した方がよかろう。君とてこんなことでは、その腕も錆びついてしまうだろう」
「この刀もまた訳ありでして・・・妖魔払いのものゆえ魑魅魍魎しか斬る事ができませぬ。そしてこのサビ付きはいくら研いでももとには戻らないのでございます。それでもわたくしはこのナマクラ刀を気に入っております。今の稼業も自分には天職でございますので」
「そうか・・・」と言って男はそのまま舟に乗り込んだ。
しかし、あくる日も左團次は手合わせを所望した。それをまた寒多郞は断った。それは妻である桃々音の嫁入り道具を運び終わるまでの数日の間、そのやりとりが繰り返された。寒多郞にはわからなかった。男が仕官する紀伊といえば徳川頼宣を迎え入れ領地の整備、地士制度の制定などが敷かれかつてない賑わいと聞いている。この紀ノ川にも治水整備が進められ船頭業も進められるようになってきた。仕官先として充分なところだ。
(いまだに戦の時代の栄光が忘れられぬか・・・)
左團次の屋敷は川を越えた先の山城の跡地にひっそりと聳えていた。妻の桃々音が望んだところである。その夜も左團次は風呂上がりに桃々音のひざ枕で耳かきを受けている。
「桃々音、祝言も近いし今更だが、本当に俺でよいのか?」
左團次はもて余した暇の中で桃々音に尋ねた。
「貴方は私の父を殺めた。つまりは私の父より強きお方。私はそんな強き貴方をお慕いし申し上げている。それだけのことでございます」
左團次は桃々音のいまだ残る無邪気な笑顔を背中で受けてゾクリとした。
桃々音は幼い頃より父の背中から弱肉強食の戦乱をみていた。そんな父を失い、その手はより強きものに渡った。彼女の慕う動機は強さしかない。それが今の平穏な世で生き抜くことができるのか。左團次はそれを見定めるために桃々音と共にいるように思えた。
そんな左團次とて今の泰平に息苦しさを感じていた。武士でありながらここ数日は刀身を鞘に納めたままの藩の領地測定係の任に就いている。既に夏の陣はこの世のことのように思えないほどだ。
「これからの世は刀を使うことも少なくなる。剣術よりも算術を要する時代になるぞ」
「それでもあなたの強さがあり、私を守ってくださる。鈍刀で腕を奮うエセな侍とは違いますわ」
桃々音はまた無邪気な笑顔を見せたので左團次はゴロリと寝返った。
(やはりあの祈祷侍しかおらんな・・・)
最後の家財道具が渡されることとなった日、左團次はやはり寒多郞と向き合った。左團次は二本指しの刀の一本を引き抜いて寒多郞の前に突き出した。寒多郞が持つのと同じ長刀である。その手には果たし状も添えられていた。
「斬れる刀同士なら問題あるまい」
「何度、所望されても返答は同じでございますよ」
誘いを断られた男は恥ずかしさを覚えつつもその答えを承知している。男は突き出した刀をその場に置いて、スッともう一方の短刀を引き抜いた。その狙いを去っていく寒多郞の背中に定めるとそのまま一直線に突っ込んでいった。
寒多郞は背中でそれを察知しヒラリと左に身体をたおすとそのまま地をはって間合いをとった。その間に自分の錆びついた刀を抜いて構えた。
「乱世の考えは捨てよ!」勘太郎は語気を荒げた。
その一太刀は左團次を船着場の小屋まで吹き飛ばした。辺りの瓦礫は反動で崩れ、左團次に降りかかる。男はゆらりと起き上がった。寒多郞は改めて刀を構えたが、それを断るかのように左團次は刀を納め「ブハハハハハハハッ!」と豪快に笑ってみせた。
「それもそうだな。俺も剣を交える最中、つい桃々音の顔が頭によぎってしまったよ」
「それでよいのです」
男は舟にそのまま乗り込んだ。背筋を伸ばして座り込みそれ以降は寒多郞の方に振り返る事なく舟首を見つめたままであった。
また夜が来た。船頭と別れて家路に向かう寒多郞は寒気に襲われた。それは雨季による冷え込みだけでなかった。
(誰かいる!)
そう思った瞬間からの影が寒多郞に襲いかかるまではすぐだった。寒多郞は即座に影からの太刀をかわして自身の剣を引き抜く。いまだに背中を向けたままだが、寒多郞にはその影の殺意が誰のものであるかわかっていた。
「まだわからぬか!」
振り返った勢いで寒多郞は太刀を真横から打ち込んだ。
「ぎゃああああああああああーーーーっ」
思いもよらぬ悲鳴だった。悲鳴の元は間違えなく目の前の男からであった。男は傷口から鮮血を吹き出してはいるが、終始影に纏わられて姿がはっきりと見えない。だが、その風貌は間違えなく左團次であった。暗い中で判然としないが、その顔は笑みを浮かべているようでもあった。
(この錆び付き刀で人が斬れた?魑魅魍魎しか斬れない筈なのに。)
推測するに斬られた時点で相手は既に死んでいた。そしてそれを処したのは・・・。
ふと寒多郞はもうひとつの気配を察しその人影の感じる方に顔を向けた。そこにはシダレ柳のそばで嫁入り前の娘が笑みを浮かべた。
「お強いヒト・・・」
寒多郞は女の視線から即座に目を伏せて慌ててこの場を立ち去った。その背中には帰りの間、常に寒気が離れなかった。いくら剣を鍛えても叶わぬ愛憎がそこにあった。
女はそれ以降、姿を消した。そのことを船頭が気にかけたのは一週間後のことであった。
「そういえばあのご夫婦は最近見かけませんな」
「そうですね・・・狐に化かされましたかな?」
「まあ、狐とはいえども客は客だ。惜しい常連をなくしたものだ」
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