1 / 3
冒頭
しおりを挟む「……ただいま」
都内、オートロックのドアが開いて、誰かに聴かせる意図の無い様子の、低く抑揚の失せた疲れた女声が玄関へ入る。
灯りが付いて、トレンチコートが脇に掛けられる時。ぱちん、というスイッチの音がして、廊下の方もLEDの白光が灯り、華奢な人影が木目調の床に伸びた。
「おかえり」
前者よりも甲高い、人懐っこい声音。ぶかぶかでずり落ちそうなエプロンを着た人物の出迎えに、改めての返事は無い。
シルクのスカーフを解きながら、冷え切った身体がその前を横切っていく。
ふわり、尾を引くのは高級な香水と、酒とタバコとコロン、様々な男とのやり取りの痕跡。
華奢なエプロン姿はその後を追いすがり、露出した右肩や頸から妖しい湯気の立つ様な、暖かな体温を寄せる。
「お風呂にする? ご飯にする? それとも」
ありきたりなセリフだ。そう言わんばかりに、無感動に「ご飯」とだけ返った。
事実、二人はこれまでも幾度と無く似たようなやり取りを繰り返していた。
しかしながら今では、最初の頃とは何もかもが変わってしまっている。
「どう? おいしい?」
頬杖をついて愛想良く、にこやかに投げ掛けられた言葉にも、応じるのは食器と箸が触れ合う音と黙々とした咀嚼だけ。リビングのテーブルを挟んで座った二人には、それ以上に遮る何かがあるかの様だ。
喧嘩した時ですら、これ程までに冷たく、味気なくは無かったのに。
原因ははっきりしていた。自覚のある当人は、柔和に勤めていた表情を遂に曇らせ、唇を結んだ。
弁えているつもりであった。かつては整った容姿で愛想を振り撒き、駆け引きの上手さを以って皆の好意を一身に集めていた身の上だ。最愛の彼女を射止め、想い合う事など意のままであると。そう思っていた。
だが今はもう、一切自信が持てない。尖った口先が次に紡いだ言葉は、いつもの軽妙さを取り繕いつつもか細く、僅かに震える。
「ちょっとぐらい返事してよ」
「今疲れてんの話し掛けないで」
邪険に突き放す様な冷たい一言。
それでも取っ掛かりだ、と。会話の引き出しが開かれる。
「何で疲れたの? 何かあった?」
ともすればそれは煽りとして受け取られ兼ねず。
現に彼女の怒りを引き出した。
「聞かなくても分かるでしょォ? あたしは働いてないアンタの代わりに稼いでんのよォ!」
細身だが迫力のある長身が机を叩いて立ち上がり、ルージュを引いた薄紅を裂けんばかりにかっ開いて叫んだ。
「ちょっ、落ち着いて」
「落ち着けるかこのボケナス!」
普段からキツい印象を与える傾向のあるきりりとした美貌はもう真っ赤。未だ化粧を落としていない切れ長の目尻は吊り上がり、黒の長髪は逆立たんばかりである。
「何なのよアンタ! もうホストとして働けない癖に職も探さずのうのうとヒモ続けておいて!」
食器が払い落とされて割れる音が響き、足音が踏み鳴らされ、相手のもとへ向かう。
エプロン姿は「う、あ」と狼狽えて、椅子を引き、尻餅をついて尚後ずさるも、早々に追い詰められ、胸ぐらを掴まれた。
自身の細い右腕一本で容易に制してしまえる、小さな肢体。改めてその軽さを感じ、そして情けなくも愛らしい童顔が泣きそうな表情を浮かべるのを見て、女は一層深く顔を顰める。
「男がなんて顔してんのよ、ったく」
そう。エプロン姿の少女にしか見えないその人物の身元は、まごう事なく男性であった。
「ああ、いや、いよいよもって女の子なんだっけェ?」
尤も、男性は男性でも見た目通り。肉体が殆ど少女へと移り変わっている、終わりかけの男性だ。
見てくれだけは女ウケの最前線。
そう謳うだけはあった細マッチョのイケメンは、男性を女性へと至らしめる昨今の流行り病によって最早見る影も無し。
180以上あった人を見下す長身は150cm前半まで縮んで、尖った針の様だった全体のシルエットは、ゴム襞の様に丸く成り果ててしまった。
「やめ、てっ」と弱々しく俄に抵抗を見せる腕も、かつては細くとも女の好みの節くれ立った形をしていたのに。今では細柔く、つるんとしていて起伏に乏しい。
「メスのニオイさせちゃってさぁ! またどうせオナってたんでしょずっと! アタシが働いてる時間に! 良いご身分ですねェ!」
「そっ、そんなことっ」
発言ごと、顎から柔頬にかけてが掴まれて、潰された。
薄紅の唇が愛らしく突き出て、すっかり角の取れた軟頬が赤らみ、小さくなった顔の中で比率の大きくなった瞳が潤んでいく。
図星だった。罵られた通り、彼はつい少し前まで自慰行為に明け暮れていた。その証拠に、実際シャンプーと石鹸に混じった発情した雌のフェロモンばかりが香っている。
当人は慣れて鼻がバカになっている為に気付かない。過去に他の女のニオイを纏って帰って来る事は多々あった。ただそれはあくまで纏っていたもの。彼自身から発せられる男性的なニオイの外側に付いてくるものでしか無かった。
それが、今はどうしようもなく違う。似て非なる単一の、イチゴに似た甘酸っぱい物だけが、頸や脇や生え際から立ち上がって止まないのだ。
まじまじと突き付けられる五感情報の全てが無情な変化を指し示し、女は理解させられ、感情をより一層掻き立てられる。
「はぁ……元から本性はそうだったんでしょうけど、女々しくてイライラするわその顔」
単純ではない。彼という男性を失った喪失感と、失った当人に対する同情と、ままならない怒り。
そしてその中にある、今の変わり果てた彼に対する嗜虐衝動。
元の彼を愛し、彼から愛される事を何より望んでいた彼女は認めたくなかった。故により深い所で苛立ってしまう。
「考えたことないの? その顔と見た目使って稼ごうとかさ」
「っ、あった、よ?」
「へぇーあったんだ? なら何でやってないの?」
「う、それは、その、こんな姿、人前に晒すの、はずかしくて」
瞬間、臨界点を突破し、ぷつんと切れた。
「ふーん、じゃあもういい。別れよっか」
「えっ」
ぽいと女は投げ出して、乱れた衣服を整えると、廊下へ向かって歩く。
エプロンから伸びる細腕は「まって」と追い縋り、袖を掴んだ。
しかしあまりにも非力。軽い身振りだけであっさりと払い除けられ、その身は床に転がって力無く伏す。
女は止まらない。一瞥もせず、玄関まで辿り着くと、掛けたコートを手に取り、あからさまに外出の支度を始める。
「まってよ、ねえ」
「家賃とか電気代ガス代は今月分まで払っちゃってるから、それまではどうぞ自堕落にお過ごし下さい。以降は知らないけどね」
「まって、まってってば!」
冷たく突き放す彼女に、涙声は起き上がり、いじらしくも懸命に走った。
走って、そして必死に飛びつき、膝をついて情けなく縋った。
「ごめん、何でもするからっ……捨てないでぇ……!」
当人は意識せずに発したが。それは過去喧嘩別れしそうになった時、女が彼に向けて何度か口にした言葉と殆ど同じであった。
彼は前は何処にでも行けた。何処の女の所にも。
それが今は、あたしだけ。
彼女の方は当然覚えている。立場の逆転。齎されるカタルシスに脳を震わされ、背筋をぞくりと快感が駆け上がる。
「なに? なら、これから働いてくれるの?」
「それは……だけどっ」
追い詰められた時ほどセオリーに走るものだ。
この後に及んでまだホスト時代の振る舞いを見せんとし、背丈が逆転しているにも関わらず、前と同じ要領で彼女を抱き締め、耳元で甘い言葉を囁いた。
「大好きなんだ、君のことが! 離れたくない!」
はぁ、と一つ。ため息が吐かれる。
仕方のない人間だ。こいつも、自分も。
彼女は自嘲し、投げやりに言った。
「じゃあ証明して見せてよ、あんたがアタシの好きな男だって」
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
6
1 / 2
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる