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12.推定療養?二〜十数日目 虚構
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照明が消えて、付いて、恐らく翌日。ふとガスによる嫌な眠りが訪れていない事と、自分の寝床が小便臭い事に気付いた所で、前日の宣言通り彼が現れた。
「おはっ、おっと……やってしまったんだな」
鼻を摘み顔を顰めていそうな声がしたが、僕は一瞥もせず虚なまま情報をシャットアウトする。
「トイレも忘れているか、それもそうだよな……身体、起こせるか?」
いみが分からない。そんなこと、いつもねてるあいだにすまされて────
それでも鈍った内心に疑問を呆然と浮かべてしまい、違和感で気分が悪くなり身体が強張った。すると全く動く気配の無い此方に痺れを切らしたか、「ああもう、仕方ない。失礼」と、男は僕の腰と背中に手を入れて、「せーので持ち上げるよ」と予告。
「せーのっ……!」
「っ、ぁっ……!」
持ち上げられてしまった。腕の中にすっぽりと収まってしまっている。とてもおかしな感覚だ。別に体格としては特別大きくない筈の男がとても大きく感じられる。何故だか凄くこそばゆい。身じろぎせずにいられない。
「ちょっ、じっとしててっ……はぁっ……! よいっ、しょっ……!」
決して力持ちには見えない細腕だ、流石に堪えているかに見えたが、それも束の間。彼は手際良く僕の身体を近くの椅子の上にそっと座らせた。
「はあー……非力な僕でも持ち上げられるくらい、君が軽くて助かったよ」
以降のシーツとズボン、その下、いつの間にか穿かされていたオムツの交換も、汚れた箇所の拭き掃除も、驚く程テキパキ行ってあっという間に終わらせていく。妙に手慣れていて、思わず目で追ってしまう。
そっか……そういえば、かあさんがビョウインにいたあいだも、こんなふうにやってたんだっけ……。
「ふぅ……褒めてくれても良いんだぞ?」
「…………」
一致しなかった人物像が不意に一部一致して内心騒つく。慌てて閉ざそうとしたが、上手く出来なかった。
っ、なんで、こんなイヤな気分にならなきゃいけないんだ……。
「まったく……出来ればトイレに行きたくなったら、いや、何か身体が変だと感じたら、夜中でも構わない。枕元のこのボタンを押す様に。って、昨日言うべきだったな……」
何も思わない様に努めさせられている。そう感じた僕は黙って顔を顰めた。すると、それを見た彼は静かにふっと微笑んで言う。
「今日は、何も話したくないよな……いいよ、分かった」
そして、でも、と一つ置いた後、乞い願う様に頭を下げる。
「身の回りの世話は許して欲しい。後食事も、出来れば食べて欲しいんだが……ダメか?」
僕はぎゅっと固く布団を握り、返事を拒んだ。彼は「分かった、暫くは点滴にしよう」と言って、物分かり良く引き下がって見せる。
「また少ししたら様子を見に来る。何か欲しい物があったら言ってくれ」
有言実行か、彼は焦らなかった。時間はただただ過ぎていき、照明は幾度も消灯と点灯のルーティンを刻んだが、来る日も来る日も甲斐甲斐しく僕の世話をして、まるで心を覗き混む様に軽く話をしては去っていってを繰り返し続けた。
僕は閉ざし無視を徹底していたが、それもある時突然、均衡が破れる。
「何か体調に変化はあったかい? 顔色は……うん、大丈夫そうだね」
「…………」
開口一番、何かを判断された様な嫌な感じがして身が強張った。
「そんな睨まないでくれ。他意は無いよ、こう聞く決まりみたいなものだから」
彼はいつも以上に気さくに話し掛けて来る。肩の力を抜き、お互いがリラックスする事を望んでいるらしい。しかし、元々寡黙で冷徹な印象の人間がそんな事をすれば、気味が悪いだけだ。
「はは……既に言ったと思うが、普段は患者と直に顔を合わせる立場に無くてな。手順に不慣れだから、変に思わせる事も多いだろう。でも本当に、医者である以前に一人の人間として、君の回復を願っているんだ。そこは認めて欲しい」
耳障りの良い言葉の数々はこれ以上無い程に酷薄に聴こえて堪らない。それ以上考えるのが嫌な僕は、ひたすら感情の鈍麻に努め聞き流そうとした。が、しかし。
「まあいい。前置きはこのくらいにして……これまで質問ばかりだったからな。今回は君の番だ。何から聞きたい? きっと聞きたい事だらけだろう?」
「っ……!」
神経を逆撫でする様な言葉に、強引に引き出されてしまった。
「そん、なのっ……」
山程ある。あり過ぎて纏まらない程だ。
「漸く興味を持ってくれたな。いいぞ、言ってみてくれ」
突然与えられたまたとない機会に、頭の中は一気に煩雑になる。なんで僕をこんな姿にしたのか。なんで今になって姿を見せたのか。なんで、記憶喪失として扱おうとするのか等々、感情的にならざるを得ない、処理し切れない疑問が湧き出て止まらず、その末。
「……なんで、こんな、こと…………」
一括された、フワッとした質問として口から出されてしまった。
「ん? 先程言ったじゃないか。君に元気になって貰う為だって」
「っ、ちがうっ……」
ききたい事はそうじゃないっ……!
「何が違うんだ?」
「う、え、あっ……」
拒絶感で胸が一杯になって咽喉が詰まってしまい、言葉が上手く出てこない。しかし、それでも一つ、何とか出せる物を絞り出す。
「っ……ここは、どこ……?」
「どこかと問われれば君の部屋だが……説明不足か。付け加えるなら、君の実家の、君の部屋だ」
「じっかって……」
「○○県××市◼︎◼︎町六丁目十五番地の、一戸建ての家。と、言えば分かるかい?」
「ぅ……!」
ちがう、ぜったいちがうっ……! こんなへやがそうなワケないっ……!
「納得いってない様だな……」
「じっかなら、なんで、へやのそと、出してくれないのっ……⁉︎」
「君の安全の為だよ、何も分からない状態で外に出るなんて危ないだろう?」
ちがう、ちがうちがうちがうちがうっ!
「分からなくなんてないっ……! ぼくはっ、おぼえてるっ……!」
「何をだ?」
食い気味に聞かれた。また表情の失せた顔だ。ひっ、と怯えた声を上げてしまった。知らない優しい顔じゃなく、見知った、いつも向けられていた顔。
「あっ、ぅっ…………」
昔も恐ろしかったが、今は比じゃない。一層身体は強張り、思いを押し込め過ぎた胸が張り詰めて痛む。
「ぼくはっ、あなたの、いうような人じゃ、なく、て……」
恐怖に駆られ、口走ってしまった。すると、彼は数刻の間の後大きな溜息を吐き、心底呆れた表情を作って言う。
「それをどうやって証明するんだい?」
「ぇ……」
「僕は君が君である事を証明出来るが……君は自身の認識が確かだと証明出来るのかと聞いているんだよ」
改めての指摘を受け、一気に青ざめていく。奥底では既に嫌という程理解させられている。そう、今の自分はもう、過去の自分と同一であると証明しようが無い。今の自分を否定する事も、現状を正しく把握出来ない故困難だ。だから、相手はこんな手に出ている。だから、自分も言葉に詰まる。
「ぁ、ぁ……」
「尤も、最初に鏡を見せた際に君の認識が現実と乖離している事は分かってしまっている。気持ちは分かるが、これ以上意地悪は言いたくないし、堂々巡りは出来る限り避けたい。理解出来るかね?」
「っ……ぅっ…………!」
八方塞がりを強く自覚し、涙が溢れ、身体が震えだす。息が荒くなって、末端が痺れ始めた所で「大丈夫、落ち着いて」と手を握られた。
「この為に僕がいるんだ。君が今此処にこうあると教える為に」
「うぐ、ううぅ……!」
「大丈夫、大丈夫だ」
今すぐ振り払いたい気持ちで一杯だ。しかし、出来ない。曖昧な身体の境界を教えてくれる温もりが手放せない。離せばまた、分からなくなってしまいそうで怖い。
「ぅぁっ、はぁっ……はぁっ…………!」
「大丈夫だ。もう、大丈夫」
仕切りに囁かれる大丈夫の声が染み入って、乱れた心が鎮静されていく。そのまま言葉に従って呼吸を落ち着かせていき、暫くすると、落ち着いた。落ち着いてしまった。
「落ち着いた様だな……よかった」
「……ふぅ……っ……」
なんで、こんなやつにっ。
「現状、どうやら君の自己認識は思った以上に曖昧で危うい。まずそれを自覚し、少しずつ外殻を形成していく事から始めていかないと」
違う、そんな事ない。そう否定する心の声はとても弱々しくて、もう表面に届かない。
「その為にまず証明といこう。出来ると自分で言ってしまったからね」
それから暫し休憩を挟み、久方ぶりの食事を取る運びとなる。食べたくないと、そう意思表示をしていた筈なのに。
「朝昼兼用食だ。君の得意料理であり、好物でもあった物を作ってみたんだが……どうだろうか?」
「…………」
ベッドの前に出された折り畳み式のテーブル。その上にはほぼ週一で作る程に母が好んでいた、里芋の煮っ転がしが出された。前までのコンビニ飯では無い。皿の上に乗っていて、出来立てなのか湯気が立ち昇っている。
りょうり、できたんだ……。
態々白衣を着替えて、エプロン姿で出てきたのだ。恐らく手料理なのだろう。
「キチンと再現出来ている筈だ、食べてみてくれ」
記憶を戻す手助けになるかもしれない、などと理由まで付けて、彼は箸を差し出した。
この匂い、なつかしい。
久々に嗅いだ良い香りが鼻を擽り、自身が空腹である事を思い出させる。堪らず箸を取る為、右腕を向かわせようとした。
「…………ぁっ」
しかし、怪我の癒えていないその腕は痛んで、上手く上がらない。
「? もしや箸の使い方まで忘れたのか? 利き腕は大丈夫だろう?」
「っ……!」
慌てて左手で箸を持つ。が、当然利き手と違う方の手では上手く扱えず、何度も里芋を挟もうとしては失敗を繰り返す。
「……はぁ。練習、しないといけないな」
一瞬、口調に冷感が戻って背筋が凍った。が、次の「でも今日はいい。折角の料理が冷めてしまうのも忍びない。特別に僕が食べさせてやろう」という言葉には許しのニュアンスが含まれており、再び印象は元に戻る。
「むっ、ぅ…………」
「……意地を張らなくていい。貸しなさい」
半ば無理矢理箸を取り上げると、彼は僕の代わりに芋を箸の先端に乗せ「はい、どうぞ」と僕の前に運ぶ。
っ、っ~~~~……!
異常な羞恥と屈辱感を覚え、むず痒さに悶えた。しかし、相手は至って真剣な表情のまま此方が口を開けるのを待ち続ける。瞳の奥の感情は窺い知れない。じっと観察されている様でいて、何か圧を感じる。
不意にその瞳の温度が冷たい物に変わるのが怖くなって、僕は口を開けてしまった。直後、待ってましたとそこに煮っ転がしが放り込まれ、口内に熱と風味が広がる。
「ほぐっ……んっ…………」
おい、しい……?
よく咀嚼して味わう。芋を噛み潰し舌の上で転がす度、あの頃の味がする。疑い様も無い程に母の作った料理の味だ。
「お……しい……おいしいっ……!」
「……それは良かった。まだまだあるから、どんどん食べなさい」
彼の手は此方が欲するままに忙しなく動き続け、そのうち皿の上は空になる。
「おや、完食か」
「ん……」
ごちそうさまでしたと小声で呟くと、心がふわりと暖かくなった。
嬉しくなってしまった。何だか、初めて他人と母に対する気持ちを共有出来た様で。思わず悲惨な状況にある事を忘れそうになる。
「ありが、と……」
「どういたしまして」
感謝まで漏れてしまった。僕は最早自分で自分を制御出来なくなっている事を悟る。
────そっか……。
尚、悟った所でもう、止められない。
そうだよ。このひとは、きっと父さんじゃない。こんなにやさしいのだから。きっとかあさんをよくしってて、父さんによくにてるだけの、まったく別の人なんだ。
これ以上傷付かない為に、この暖かさを素直に享受したいが為に。壊れた心理は遂に危うい虚構を形作り始めた。
「おはっ、おっと……やってしまったんだな」
鼻を摘み顔を顰めていそうな声がしたが、僕は一瞥もせず虚なまま情報をシャットアウトする。
「トイレも忘れているか、それもそうだよな……身体、起こせるか?」
いみが分からない。そんなこと、いつもねてるあいだにすまされて────
それでも鈍った内心に疑問を呆然と浮かべてしまい、違和感で気分が悪くなり身体が強張った。すると全く動く気配の無い此方に痺れを切らしたか、「ああもう、仕方ない。失礼」と、男は僕の腰と背中に手を入れて、「せーので持ち上げるよ」と予告。
「せーのっ……!」
「っ、ぁっ……!」
持ち上げられてしまった。腕の中にすっぽりと収まってしまっている。とてもおかしな感覚だ。別に体格としては特別大きくない筈の男がとても大きく感じられる。何故だか凄くこそばゆい。身じろぎせずにいられない。
「ちょっ、じっとしててっ……はぁっ……! よいっ、しょっ……!」
決して力持ちには見えない細腕だ、流石に堪えているかに見えたが、それも束の間。彼は手際良く僕の身体を近くの椅子の上にそっと座らせた。
「はあー……非力な僕でも持ち上げられるくらい、君が軽くて助かったよ」
以降のシーツとズボン、その下、いつの間にか穿かされていたオムツの交換も、汚れた箇所の拭き掃除も、驚く程テキパキ行ってあっという間に終わらせていく。妙に手慣れていて、思わず目で追ってしまう。
そっか……そういえば、かあさんがビョウインにいたあいだも、こんなふうにやってたんだっけ……。
「ふぅ……褒めてくれても良いんだぞ?」
「…………」
一致しなかった人物像が不意に一部一致して内心騒つく。慌てて閉ざそうとしたが、上手く出来なかった。
っ、なんで、こんなイヤな気分にならなきゃいけないんだ……。
「まったく……出来ればトイレに行きたくなったら、いや、何か身体が変だと感じたら、夜中でも構わない。枕元のこのボタンを押す様に。って、昨日言うべきだったな……」
何も思わない様に努めさせられている。そう感じた僕は黙って顔を顰めた。すると、それを見た彼は静かにふっと微笑んで言う。
「今日は、何も話したくないよな……いいよ、分かった」
そして、でも、と一つ置いた後、乞い願う様に頭を下げる。
「身の回りの世話は許して欲しい。後食事も、出来れば食べて欲しいんだが……ダメか?」
僕はぎゅっと固く布団を握り、返事を拒んだ。彼は「分かった、暫くは点滴にしよう」と言って、物分かり良く引き下がって見せる。
「また少ししたら様子を見に来る。何か欲しい物があったら言ってくれ」
有言実行か、彼は焦らなかった。時間はただただ過ぎていき、照明は幾度も消灯と点灯のルーティンを刻んだが、来る日も来る日も甲斐甲斐しく僕の世話をして、まるで心を覗き混む様に軽く話をしては去っていってを繰り返し続けた。
僕は閉ざし無視を徹底していたが、それもある時突然、均衡が破れる。
「何か体調に変化はあったかい? 顔色は……うん、大丈夫そうだね」
「…………」
開口一番、何かを判断された様な嫌な感じがして身が強張った。
「そんな睨まないでくれ。他意は無いよ、こう聞く決まりみたいなものだから」
彼はいつも以上に気さくに話し掛けて来る。肩の力を抜き、お互いがリラックスする事を望んでいるらしい。しかし、元々寡黙で冷徹な印象の人間がそんな事をすれば、気味が悪いだけだ。
「はは……既に言ったと思うが、普段は患者と直に顔を合わせる立場に無くてな。手順に不慣れだから、変に思わせる事も多いだろう。でも本当に、医者である以前に一人の人間として、君の回復を願っているんだ。そこは認めて欲しい」
耳障りの良い言葉の数々はこれ以上無い程に酷薄に聴こえて堪らない。それ以上考えるのが嫌な僕は、ひたすら感情の鈍麻に努め聞き流そうとした。が、しかし。
「まあいい。前置きはこのくらいにして……これまで質問ばかりだったからな。今回は君の番だ。何から聞きたい? きっと聞きたい事だらけだろう?」
「っ……!」
神経を逆撫でする様な言葉に、強引に引き出されてしまった。
「そん、なのっ……」
山程ある。あり過ぎて纏まらない程だ。
「漸く興味を持ってくれたな。いいぞ、言ってみてくれ」
突然与えられたまたとない機会に、頭の中は一気に煩雑になる。なんで僕をこんな姿にしたのか。なんで今になって姿を見せたのか。なんで、記憶喪失として扱おうとするのか等々、感情的にならざるを得ない、処理し切れない疑問が湧き出て止まらず、その末。
「……なんで、こんな、こと…………」
一括された、フワッとした質問として口から出されてしまった。
「ん? 先程言ったじゃないか。君に元気になって貰う為だって」
「っ、ちがうっ……」
ききたい事はそうじゃないっ……!
「何が違うんだ?」
「う、え、あっ……」
拒絶感で胸が一杯になって咽喉が詰まってしまい、言葉が上手く出てこない。しかし、それでも一つ、何とか出せる物を絞り出す。
「っ……ここは、どこ……?」
「どこかと問われれば君の部屋だが……説明不足か。付け加えるなら、君の実家の、君の部屋だ」
「じっかって……」
「○○県××市◼︎◼︎町六丁目十五番地の、一戸建ての家。と、言えば分かるかい?」
「ぅ……!」
ちがう、ぜったいちがうっ……! こんなへやがそうなワケないっ……!
「納得いってない様だな……」
「じっかなら、なんで、へやのそと、出してくれないのっ……⁉︎」
「君の安全の為だよ、何も分からない状態で外に出るなんて危ないだろう?」
ちがう、ちがうちがうちがうちがうっ!
「分からなくなんてないっ……! ぼくはっ、おぼえてるっ……!」
「何をだ?」
食い気味に聞かれた。また表情の失せた顔だ。ひっ、と怯えた声を上げてしまった。知らない優しい顔じゃなく、見知った、いつも向けられていた顔。
「あっ、ぅっ…………」
昔も恐ろしかったが、今は比じゃない。一層身体は強張り、思いを押し込め過ぎた胸が張り詰めて痛む。
「ぼくはっ、あなたの、いうような人じゃ、なく、て……」
恐怖に駆られ、口走ってしまった。すると、彼は数刻の間の後大きな溜息を吐き、心底呆れた表情を作って言う。
「それをどうやって証明するんだい?」
「ぇ……」
「僕は君が君である事を証明出来るが……君は自身の認識が確かだと証明出来るのかと聞いているんだよ」
改めての指摘を受け、一気に青ざめていく。奥底では既に嫌という程理解させられている。そう、今の自分はもう、過去の自分と同一であると証明しようが無い。今の自分を否定する事も、現状を正しく把握出来ない故困難だ。だから、相手はこんな手に出ている。だから、自分も言葉に詰まる。
「ぁ、ぁ……」
「尤も、最初に鏡を見せた際に君の認識が現実と乖離している事は分かってしまっている。気持ちは分かるが、これ以上意地悪は言いたくないし、堂々巡りは出来る限り避けたい。理解出来るかね?」
「っ……ぅっ…………!」
八方塞がりを強く自覚し、涙が溢れ、身体が震えだす。息が荒くなって、末端が痺れ始めた所で「大丈夫、落ち着いて」と手を握られた。
「この為に僕がいるんだ。君が今此処にこうあると教える為に」
「うぐ、ううぅ……!」
「大丈夫、大丈夫だ」
今すぐ振り払いたい気持ちで一杯だ。しかし、出来ない。曖昧な身体の境界を教えてくれる温もりが手放せない。離せばまた、分からなくなってしまいそうで怖い。
「ぅぁっ、はぁっ……はぁっ…………!」
「大丈夫だ。もう、大丈夫」
仕切りに囁かれる大丈夫の声が染み入って、乱れた心が鎮静されていく。そのまま言葉に従って呼吸を落ち着かせていき、暫くすると、落ち着いた。落ち着いてしまった。
「落ち着いた様だな……よかった」
「……ふぅ……っ……」
なんで、こんなやつにっ。
「現状、どうやら君の自己認識は思った以上に曖昧で危うい。まずそれを自覚し、少しずつ外殻を形成していく事から始めていかないと」
違う、そんな事ない。そう否定する心の声はとても弱々しくて、もう表面に届かない。
「その為にまず証明といこう。出来ると自分で言ってしまったからね」
それから暫し休憩を挟み、久方ぶりの食事を取る運びとなる。食べたくないと、そう意思表示をしていた筈なのに。
「朝昼兼用食だ。君の得意料理であり、好物でもあった物を作ってみたんだが……どうだろうか?」
「…………」
ベッドの前に出された折り畳み式のテーブル。その上にはほぼ週一で作る程に母が好んでいた、里芋の煮っ転がしが出された。前までのコンビニ飯では無い。皿の上に乗っていて、出来立てなのか湯気が立ち昇っている。
りょうり、できたんだ……。
態々白衣を着替えて、エプロン姿で出てきたのだ。恐らく手料理なのだろう。
「キチンと再現出来ている筈だ、食べてみてくれ」
記憶を戻す手助けになるかもしれない、などと理由まで付けて、彼は箸を差し出した。
この匂い、なつかしい。
久々に嗅いだ良い香りが鼻を擽り、自身が空腹である事を思い出させる。堪らず箸を取る為、右腕を向かわせようとした。
「…………ぁっ」
しかし、怪我の癒えていないその腕は痛んで、上手く上がらない。
「? もしや箸の使い方まで忘れたのか? 利き腕は大丈夫だろう?」
「っ……!」
慌てて左手で箸を持つ。が、当然利き手と違う方の手では上手く扱えず、何度も里芋を挟もうとしては失敗を繰り返す。
「……はぁ。練習、しないといけないな」
一瞬、口調に冷感が戻って背筋が凍った。が、次の「でも今日はいい。折角の料理が冷めてしまうのも忍びない。特別に僕が食べさせてやろう」という言葉には許しのニュアンスが含まれており、再び印象は元に戻る。
「むっ、ぅ…………」
「……意地を張らなくていい。貸しなさい」
半ば無理矢理箸を取り上げると、彼は僕の代わりに芋を箸の先端に乗せ「はい、どうぞ」と僕の前に運ぶ。
っ、っ~~~~……!
異常な羞恥と屈辱感を覚え、むず痒さに悶えた。しかし、相手は至って真剣な表情のまま此方が口を開けるのを待ち続ける。瞳の奥の感情は窺い知れない。じっと観察されている様でいて、何か圧を感じる。
不意にその瞳の温度が冷たい物に変わるのが怖くなって、僕は口を開けてしまった。直後、待ってましたとそこに煮っ転がしが放り込まれ、口内に熱と風味が広がる。
「ほぐっ……んっ…………」
おい、しい……?
よく咀嚼して味わう。芋を噛み潰し舌の上で転がす度、あの頃の味がする。疑い様も無い程に母の作った料理の味だ。
「お……しい……おいしいっ……!」
「……それは良かった。まだまだあるから、どんどん食べなさい」
彼の手は此方が欲するままに忙しなく動き続け、そのうち皿の上は空になる。
「おや、完食か」
「ん……」
ごちそうさまでしたと小声で呟くと、心がふわりと暖かくなった。
嬉しくなってしまった。何だか、初めて他人と母に対する気持ちを共有出来た様で。思わず悲惨な状況にある事を忘れそうになる。
「ありが、と……」
「どういたしまして」
感謝まで漏れてしまった。僕は最早自分で自分を制御出来なくなっている事を悟る。
────そっか……。
尚、悟った所でもう、止められない。
そうだよ。このひとは、きっと父さんじゃない。こんなにやさしいのだから。きっとかあさんをよくしってて、父さんによくにてるだけの、まったく別の人なんだ。
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