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11.推定療養?一日目 しらないアイツ、しらないジブン

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 既知の声音だった。自分の知っているものとは孕んでいる温度があまりに違うせいでまるで知らない人間の声の様に聞こえたけれど、呼ばれた名前は最も親しい人物の名前で、この場でその名を呼ぶ者はほぼ限定されているので疑いようは無い。虚ろな心は掻き乱され、根こそぎ引き上げられる。

 ────リナ。そのなまえは……ちがう、ぼくじゃない。かんけいない。なにも、かんがえたくない。

 が、それはとうに限界を迎え、壊れていた。頭の中はぐちゃぐちゃで、何かを掴もうとすると耐え難い苦痛が生じる。反抗などとても出来た状態では無い。故に閉じ籠り、あらゆる全てに蓋をして無視をするしか無かった。
 しかし、当の男は反応の無い僕の手を握って、涙声で言う。

 「よかった……ほんとに、ほんとに目が覚めたんだね。本当によかった」

 大きな掌の温もりと愛情が伝わってきた。際して、安堵、困惑、疑念、歓喜、恐怖、嫌悪。理由の不明瞭な感情の数々が一斉に乱立して、より一層の混乱が齎される。それを知ってか知らずか、相手は一頻り隣で泣いた後、此方の顔を覗き込んだ。

 「何があったか、覚えてるかい? 家で倒れた時の事とか、その直前は?」

 こい、つ……!

 記憶上より老けやつれているのに、見た事がない程関心に満ち爛々とした妙齢の男の顔。それが見えた途端、僕は錯乱しその喉元に襲い掛かろうとした。けれど、至らない。整理の付かない心身は酷く重く、動かそうとするとあらゆる部位に鈍痛が生じる。肝心の右腕は包帯で固められていて使い物にならないし、起き上がる為の腹筋が何故か痛くて力が入らない。脚も膝が笑うばかりで言う事を聞いてくれないし、変に力むと攣りそうになる。
 結果としてそれらしい拘束は何もされていないのにピクリとも動かず、赤子の如くただ叫び、震え涙するのみに留まった。すると、「ああいい、大丈夫だ。もう大丈夫だよ」と男は心底同情した様子で僕の身体を軽々と抱き寄せ、頭を撫でながら耳元で囁く。

 「焦らなくていい。ゆっくり、ゆっくりでいい」

 待ちに待った瞬間な気がするのに、複雑な内心だけが蓋の中で暴れて、一切纏まらず散り散りになっていく。まるで処理落ちしたパソコンのように硬直してしまった。それでもふと苛立ちに任せて暴力的行為に移ろうとしたが、腕は軽く相手の背中を叩くだけ。逆に痛みが返ってくる。
 余りに無力で情けなくて、心はより強く深く殻に閉じ籠ろうとした。が、そんな自分を暖かい何かが包んで離さない。

 「うっ……あ゛ぁっ…………!」
 
 久々の人肌の温もりは争い難かった。決してそんな優しい人間じゃないだろうに、不思議と落ち着いていく自分がいる。結局もう何が何なのか、訳が分からないまま僕は瞳を閉じ、静かに身を委ね一頻り涙を流した。



 壮絶な体験の後のふとした救済は、錯覚であったとしても絶大な効果を発揮した。恐ろしい事に、この時僕は心の何処かで期待すらしてしまっていたのだ。自分を優しく抱きしめるこの男は、もしかしたら自分を救ってくれる善良な存在なのでは、と。そんな訳が無いのに。



 「改めて。聞かなきゃいけない事が幾つかあるんだが、いいだろうか?」

 暫くして落ち着いた所で直ぐに心象は一変する。思えば一言目から不穏だったし、案の定と言えばそうなのだが。彼は何と此方が記憶を失っている事を前提とした様な口振りで話し始めた。

 「……僕の名前、覚えているかい?」

 耐え難い事態を予感して、心を閉し沈黙を返す。知っている。けれど、答えたくない。認識したくない。
 しかし相手は現実を遠ざける自分に、容赦無く現実を突き付けてくる。

 「はあ、言葉は分かっている様で嬉しいよ。そう警戒せず、これからの為に名乗らせてくれ。僕はトシヤ。研究医で、君の同僚だった男だ。そこそこ親しかったんだが……やめよう。そんな嫌そうな顔をされている前で言ったら自信が無くなりそうだ」

 こんなに話している所も初めて見た。あまりに不気味で、顔を顰めて身を遠ざける。そうして嫌だという意思を言葉を解さず全身で表したら、一応は伝わったらしい。が、「しかし申し訳ない。まず最初に少しだけ、必要な事を確認しないといけないから」と質問は続く。

 「自分の名前は分かるかい?」

 再度沈黙。今の自分では、最早自身の名を名乗れない。自分だと思いたくない。

 「はいかいいえでもいいから答えてくれると助かるんだが……まあいい、こう聞こう。君はリナという自分の名前を覚えているかい?」
 
 ふざけるな。

 「ふ、ふざ、け……」

 やっと出た掠れた高い声は、出したそばから立ち所に消え入った。顔を上げて視界に入ったのが、先程まで優しそうだった男の酷く冷めた表情だったから。

 「あっ、っ、ちが……」

 紛いなりにも期待していたせいだろうか、底知れぬ物を感じ取り思わず取り乱してしまった。対し半ば食い気味にやはり、と彼は目を伏せる。

 「最初の反応で疑ったが……やはり、何も覚えていないんだな」
 「…………」

 否定も肯定もせず俯いた。妙な圧で身体が強張り、怯えすくんでしまう。本当はすぐ否定したかったのに、出来なかった。

 相手は沈黙を肯定と受け取った様で、「そうか……」と神妙に返事した後、大丈夫、心配しないで、と急に表情を和らげ、殊更に優しい笑みを浮かべる。

 「長らく意識のない状態を経験した患者さんには良くある事だ。大抵時間をかければ、少しずつ思い出す」
 「ち、が…………」
 「君の場合は幸い、君を良く知る僕が居る。昔話をすれば案外直ぐかもしれないよ」
 「う……ぼく、は」
 「ぼく?」
 
 拙い一人称を紡いだ瞬間、また表情が俄に失せた。そして口調だけは柔らかいまま問い詰めて来る。

 「それは、君の一人称かい? それとも、僕の一人称を真似しただけ? 君は自身をわたし、と呼ぶ人間だった筈だが」
 「う、あ……」
 「そうか、それすらも忘れてしまっているんだね……もしかして、自身が女性である事まで、分かっていないのか?」

 彼はずいと姿見を引いて、僕の前に出した。映ったその姿は、若かりし頃の母と瓜二つ。以前見た時より更に華奢で、それでいて以前とは比べ物にならない程肉付きが良く女性的な丸みを帯びたシルエットは想像以上にそっくりだ。思わず目を丸くしてたじろいでしまう。

 「あっ……あぁっ……」
 「だとすると思ったより深刻かもしれないな……そこまで忘却したというケースは聞いたことが無い」
 「いや……ちが……」

 狼狽える僕を、彼は再び抱き締める。そしてその耳元に淡々と吹き込む。

 「落ち着いて。深呼吸しなさい」
 「っ、うぅっ」
 「まずあるがままを受け入れるんだ。考えるのはそれからでいい」
 「いやだ……やだぁっ……!」

 体格差が如実に現れるせいで、相手は巨大に、自分は酷く矮小に感じられてしまった。パニックを起こし、もがき暴れ、振り解く。そして身体の痛みを押して、布団の中全力で縮こまる。

 「…………」

 何か追撃が来ると思ったが、来なかった。幾許かの間の後、「悪い、悪かった」と、予想外の謝罪が投げ掛けられる。

 「自分からゆっくりで良いと言った筈なのにな。焦ってしまった」

 これまた聞いた事のない、動揺し震えた様子の声色だった。辛い思いをさせて悪かった、すまない。謝罪は続きながら、徐々に後退りして離れていく。そして機械の駆動と重い金属を引き摺る様な音の後、その声は穏やかに、

 「今日はここまでにしよう。ゆっくり休んで。また明日来るから」

 と、そう言い残し、閉じる機構の音と共に去っていった。残された僕は、押し寄せる名状し難い感情の波を処理し切れずただただ震える。

 なんで……ぼく、なんで…………。



 以来、療養という名の刷り込みが始まった。



 
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