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7.推定監禁10日目 発作
しおりを挟むふと、目が醒める。変わらずそこにある明るい照明、自身を閉じ込める白い天井が僕を出迎える。
感じるのは見知った体感。布団の中、汗ばんだ身体の火照りと動悸、虚脱感と喪失感。次いで身に纏っている衣が未だ存在する事に安堵し、更にそう感じてしまった、飼い慣らされているかの如き自身を嫌悪する。そして最終的に目減りする期待感を自覚し、落胆した。
ほんと毎回毎回……よくも人に好き勝手薬を盛ってくれるな。
暫く安静にして、取り敢えず心拍が落ち着くのを待つ。落ち着いたら徐に身体を起こして、今一度静かに嘆息する。
「…………はぁ」
早くも、と言うべきなのだろうか。あまりに長かった気がするが、暫定した監禁初日から実に十日が経過した。まあ十日というのはあくまで体感で、落ちる照明と噴き出すガスを見た回数を数えただけの数字だ。朦朧としていた期間も長いので、本当の日数はそれよりずっと経過しているだろうけれど、基準を見失わない為に仮にそう決めている。
というのも、どん詰まりの現状、最早僕に出来ることは限られていて。どちらかと言うと、この気が狂いそうな状況下を如何に脱するかよりも、如何に耐えるかの方が重要なのだ。
立ち上がり本棚へ歩いて、左上角にある料理本を手に取った。三日目に風邪をひいて、六日目だったか。漸く起きていられる程度に回復して、それからはここにある本で時間を潰す様になったが、今この本を取ったのはそれが目的では無い。
十ページ目に折り目を付け元に戻す。願わくば、これが長きに渡る日常のルーティンとならない事を祈って。
ドア前の所定の位置に置かれた朝食を食べた後、ぐっぐっと軽く体操して身体の具合を確かめる。もう眠気も怠さもない。腹の奥に残る、常態化した変な火照り以外は快調だ。咳ももう出ないし、風邪は治ったと見ていいだろう。
向こうもそう判断したのか、また薬の容赦が無くなってきたしね。
体調を診て加減しているのか、しんどかった間は優しめだったのに、また厳しくなり始めている気がする。現に今朝は久方ぶりに寝覚めが悪かった。
とはいえ、これまでとは違い優しいままの部分もある。病衣の着用が、未だ許されているのだ。元気になったら脱がされるかもと思っていたけれど、これぞ怪我の功名か。有り難がるのもどうかと思うが、待遇が改善されたのは素直に喜ばしい。
まあ酷いことする割には、とにかく死なせるつもりはないってのは一貫してるんだろうな。
「…………そろそろ少しくらい、話してくれませんかね?」
静寂の中、自身の喉から発せられる未だ聴き慣れない透き通った高い声が反響して、直ぐに静まる。返事は無し。いくら待っても返って来ない。
いい加減会話の一つや二つ、あっていいと思うのだけれど。
また一つ溜め息を吐いて俯く。長期戦を覚悟している自分だが、流石に少し焦燥し始めていた。
理由は簡単。情報が一向に更新されないからだ。未だにはっきりと分かっているのは、この拉致監禁には少なくとも何らかの形で父が関わっており、身代金目的では無い、僕個人の身体に向けられた異質な事案であるという事と、この部屋がその為の空間で、毎日昏睡催淫ガスが出て、眠っている間に維持の為出入りする人間がいるという事くらいである。最初の数日からちっとも進展していない。
その原因もまた単純だ。監禁されてからこれだけ経っているのに、人の姿を見たのは後にも先にも最初の拘束中、暴れる自分に注射しに来たあの時の父の一度きり。会話らしい会話が無く、その膠着した状況が続いているからだ。これでは進展のしようが無いし、いつまで経っても全貌が全く見えて来そうに無い。焦るなと言われても無理である。
とはいえここまで取れるアクションは粗方取った。結果は散々。偶然ひいた風邪が一番成果があった始末だ。自分から動かすのは厳しいと言えよう。
しかし、だ。
しかし、能動的な計画を諦めても、舞い込みそうなチャンスは無い訳じゃない。寧ろこの部屋に出入りする人間が居る以上、かなり太い線がある様に思う。
入って来るのは眠っている間だけ。でも、眠っているとどうやって確信を得ている? もし分量だとすれば、薬は徐々に耐性が付くだろうし、いずれミスが生じる筈。
何にせよかなり難しい事をしているのは確かだ。それ以外にも綻びが出て来てもおかしくない。だから決して希望を捨てず、いつそのチャンスが来てもいい様に万全の態勢で構えていなければ。
「……そろそろ、読むか」
読書し、座して待つ。それが今取れる最高の選択だった。幸いにも本棚には読み応えのある書物が多く、時間潰しには事欠かない。精神の安定に一役買ってくれるし、何なら医学に関する書物も結構ある。この中からヒントが得られる事だってあるかもしれない。
そんなモチベーションを胸に、どれを読もうかと棚に並ぶ背表紙をざっと見ていく。すると不意にその中で一つだけ、真っ黒で何も銘打たれていない大きめで少し出っ張っている物に目が留まった。
「……ん?」
気になって何となく引き出してみたが表紙にもタイトルは無い。ラベリングもされておらず、ただただ黒革めいた装丁が存在感を放っている。こんなのあっただろうか。
前からあったなら、恐らく気付いているだろう。元より綺麗に整頓された本棚だ。その中ではちょっと悪目立ちしていて、後から差し込まれた感が半端じゃない。
直近で入れられたのかな……だとして何の為に。
碌な意図ではない事は察するに余りあった。僕は恐る恐る開いて中身を確認していく。
「っ……これ、アルバムだ……」
恐らく大切な思い出の一場面であろう写真が、比較的無造作にクリアファイルのポケットに入れられていた。最初のページに赤ちゃんが写っており、次のページに行けばいく程、その子が成長していく様子が見られる。
服装、髪型からして女の子である事はすぐ分かったが、途中で面影が一致して気付く。これは、母さんだと。
母さん、こんなだったんだ……。
ころころとしていた頃の母。おかっぱ頭の女児な母。愛嬌を振り撒く幼い頃の母の姿の数々に思わず頬が緩む。
が、そんな純粋な気持ちで見られたのは最初の数ページ分だけだった。写真の中の母が成長していくにつれ僕の中の母への恋しさが増していき、悲しみが深くなると共に、今鏡に映る自分の姿とどんどん似てきているのを感じ、このアルバムがここに存在する意味、悪辣な意図を察し嫌悪感が膨らんでいく。中学の入学式らしき所でそれらはピークに達して、ページを捲る手が止まってしまった。
本当に、悪趣味だな……!
どこまで冒涜すれば済むんだろうか。怒りが湧き上がり、一瞬アルバムを振り上げ、そこで堪えた。振り下ろさずそっと閉じて元の場所に戻し、深呼吸する。
今更だ。この部屋の物の大半は、僕の神経を狂わす為に揃えられた物ばかりなのだから。一々心を揺さぶられてどうする。
少女漫画の背表紙を尻目に、医学関連のタイトルを中心に視界に捉え、それらを手に取り心を落ち着かせた。
まだまだ待てる。まだ余裕はある。待っていれば、反撃のチャンスは必ず来る。僕はそう自分に言い聞かせる。事実、そう思えたし、そう思っていた────この時までは。
…………そういえば。
薬学関連の書物があったので読んでいた所、一部の内容でふと思い出し、考察は薬、ガスの内容に戻る。
母数も少ないし、偶然、もしくは錯覚の可能性もある。けれど思うのだ。一番最初に吸わされた物と、風邪期間中に吸わされた物、そしてそれ以外。大まかに三種類、それぞれ異なる物ではないかと。
中でもたった一度だけ吸わされた最初のアレ。アレだけは、明らかに違うと断言出来る。
他二つは幻覚作用の強弱と傾向の違いこそあれど、無臭で多幸感の方向性が似通っている。だがアレはそうじゃない。思えば甘い香りも、肉体的な破壊を受けた感覚に陥ったのもあの時だけだったし、幸せというより何処か暴圧的で、徹底的に心身を狂わせる様な、そんな感じだった。
「っ……あー、クソっ……!」
思い出したら身体がソワソワしてきた。落ち着かない。立ち上がって悪態を吐いては、髪の毛を掻き乱す。
落ち着け、何されてるか分からないとはいえ、パニックになっちゃいけない。
深呼吸を一つ行った所で、ふと下腹部より下、擦れた衣服の中の異様な熱感に気付く。
病衣の下……ずっと腹奥に重く溜まっていた熱いのが、膨らみ始めてる……?
無い筈の陰茎が張り詰める様な錯覚に襲われて、圧迫感から逃れるべく腰をくの字に折ってしまう。
「はーっ……っ……?」
一時的な物だ、暫くじっとしていれば収まる筈。そう楽観視しようとしたが、全く止まらないし、そもそもじっとしていられない。膨らんだ熱を押さえつけようと腹奥が勝手にキューッと締まって、そこから甘く狂おしい何かが滲み出してきてしまう。
あっ、えっ、何これ……まさか、禁断症状……? いやきっと違うそうじゃないっ……!
この感覚は初めてでは無い。夢の中で散々味わった、ただの強烈な性衝動だ。それが今、起きている間に現れているだけだ。
どっどっどっどっ。折角起きて暫くして落ち着いていた心臓がまた早鐘を打ち始めた。「ふーっ……ふーっ……!」と徐々に息が荒くなって、胸の奥が締め付けられていく。
うっ、切ないっ……? 切なくて、苦しいっ……!
止めなきゃ、他の事を考えて気を紛らわせなきゃ。そう自分に言い聞かせて頭を回そうとしても無駄だった。性的興奮が今朝の夢と結び付き、いつものサトウさんとの夢を思い浮かべてしまったのだ。
現実が薄らぎつつある最近の自分にとって、直近のそれは未だ鮮明だ。振り払おうにも中々頭から離れてくれない。
ただのクラスメイトだった事しか無いのに、遊園地デートに行く彼女だったり、床を共にする妻だったり、果てはメイドだったりOLだったり……側から見て都合の良い妄想だからタチが悪いっ……!
身体が内に内に締められて、内股になった脚がもじもじ擦り合わさる。すると衣服の中でぬるっとした滑りを感じて、堪らず病衣のズボンを脱いだ。
「ふーっ……うっ、うあぁっ……」
とろーっとした粘液が、股座から太腿を伝い落ちていくのを目撃してしまった。その光景は酷くはしたない物だったが、それ以上に自分の股座からかなりの量の粘液が垂れ流される事態そのものが衝撃的で、思わずたじろいだ。
次いで、解放された下半身からむわりとニオイが放たれる。小水でも汗でもない。何か本能に訴えかけ、興奮させる様な……そんなニオイだ。
さわりたい、いじりたい。けれど、肝心の発散させる為の突起部が無い。思い浮かぶ方法が実行出来ない。もどかしい。
でも、確かに張り詰めている。疼いている。なら、指先でこの股を擦ってみれば────ダメだ触っちゃダメだ、汚いし、気持ち悪い。何で出来てるか分からないんだ、気持ち悪いんだぞ、見るな、こんな、恥ずかしい。
「っ……!」
パチン。葛藤の末自身の頬を打った僕は、問題解決の為至極単純な行動を発想。スクワットを始めた。
そうだっ。欲求不満だと言うのであれば、運動で解消すれば良いじゃないか。鍛えれば落ちた体力も戻せる、一石二鳥だっ。
垂れているのも汗だと思い込んでしまえ。そんな勢いで行おうとした。
「ふっ……ふぅっ…………!」
しかし、全然出来ない。そもそもの筋力が落ち過ぎている。膝を深く曲げたら戻って来れそうに無い。
「くぅっ……!」
欲情に際して筋トレという発想しか出来ず、その筋トレすら満足に行えないなんて。なんて滑稽で、屈辱的なんだろう。
奥歯をぐっと食い縛ったのを境に、諸々の発作が少しずつ収まっていく。どうやらおざなりなお陰で何とか気を紛らわす事に成功したらしい。
「っ…………はぁあぁ……」
一件落着、などと気は抜けず。その後も取り敢えず出来る範囲で、体力の許す限り筋トレを行った。すると不健全極まる環境下での健全な行為は思いの外高い効果を発揮。疲れてうとうとする中ガスを浴びたのだが、体感する如何わしさ、いやらしさなんかをかなり軽減出来た。
代償として翌朝の筋肉痛は深刻だったが、正気を失うよりは痛い方がマシだ。今後も無理のない程度に続けようと心に決めた。
しかし、同時に心の何処かでこうも思った。堂々と構えていられる時間の余裕は、実はあまり無いのでは、と。
その懸念は程なく現実の物となった。
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