10 / 17
表裏
しおりを挟む
「まったく、どうなっとるんだね、彼は」
「すみません薮田さん。自分の教育不足です」
「いやなに、君が謝るべきことではないんだがね。なにせ佐竹の勤務を咎めることが出来るほど勤勉な人間は、我が署では東堂くんくらいのものなんだ。その君が教育しても治らないというのなら、彼の更生はもう不可能だと言わざる得まい」
署内の喫煙室で、大量の煙を吐き出しながら副署長の薮田は私にそう言った。
内心、1ミリも申し訳ないとは思っていない。部下の佐竹が会議中に勝手に抜け出し、しかも上司を侮辱するような発言をしたことは署内でもほとんどの人に知れ渡り、佐竹の処遇を検討する会議まで開かれる予定だそうだ。
私はタバコを吸わないが、副署長の話を聞くためだけに、嫌いな臭いの染み付いた喫煙室に居た。真白だったであろう壁はどこか茶色く染まっているし、むせるような臭いが至る所から湧いている。どうして自らの寿命を縮めてまでタバコを吸おうと思うのか、私には甚だ疑問だった。
「ところで、東堂くん」
またひとつ大きな煙の塊を吐き出しながら、薮田が問う。
「君の昇進についてなんだがね」
これだ。
私は街に待っていた言葉を聞いた途端唾をごくりと飲み込んだ。私にとっての、全て。この仕事における昇進、そして組織の掌握。それこそが私の野望そのもの。以前からこの薮田という小太りの男に、逐一媚びを売り、なんとか昇進するための策を講じてきた。仕事もろくに出来ない癖に副署長に成り上がった薄汚い男に、嫌々贈り物、支援金、ありとあらゆる媚びを売った。その効果を期待した。
「私の方で色々上に掛け合ってみたんだがね。もう少しのところで、やはり佐竹の存在がネックになってしまったよ」
「・・・佐竹、ですか?」
一瞬、自分が思ったより低い声が出てしまった。呆れのような怒りのような声だった。なぜ、俺の昇進に佐竹が?
「あぁ、東堂くんの仕事ぶりからすれば昇進は上の者からしても全くの異論はなかった。しかし、あの佐竹が部下についてしまっているという点で、彼のような人間をこれ以上野放しにするわけにもいかず、彼のような人材を模倣する人間が出てこられても困るのでね。その直属の上司である君を昇進させることは、佐竹のような人間を賞賛することにならないかと不安なんだよ」
「私の昇進を、佐竹が邪魔していると?」
「まあ、あながち間違いではないな」
「そうですか」
「東堂くんには良くしてもらっているし、佐竹のことなど気にする必要ないと言ったんだがね」
随分と他人事のようにこの豚は喋るな、と思った。そして同時に、この薮田という豚が利用価値のない無能だと私の中で判断された。
私が撒いたのは昇進への種ではなく、豚への餌だったということか。
「ん? どうした、東堂くん。もう戻るのかね?」
まだ半分ほどタバコが残っている豚を背に、私はお辞儀もせず部屋を出ようとする。
「すみません、急用ができまして」
「お、そうかそうか、また昇進について何かわかったらーー」
豚が鳴き終わる前に私は喫煙室を出た。電話がかかってきたかのように装ったが、誰からも電話はかかっていない。
喫煙室の外は少し開けたロビーになっていて、ちらほら同僚たちが歩く姿が見える。午後1番の仕事に気合の入った新人たちの姿が見える。
どこか、私は彼らに自分の姿を重ねる。そして忌まわしい佐竹の姿を重ねる。
タバコの臭いが染み付いてしまっていないかと不安になって、スーツをジャケットを軽く叩いた。そして、私は自らの仕事に戻ることにした。
時間はそう多くはない。私は私のためにやるべきことをやるのだ。
そう思った矢先、ロビーが少しざわついた。何か、起きている。
どこからか走り込んできた若手の刑事がハアハア言いながら、少し大きな声で同僚に話すのが聞こえてきた。
「おい! 佐竹さんが退職願出すのを見たって須藤が!」
その言葉に驚く若手たちを見て、私も心のどこかでざわめきを感じていた。
悲哀か嬉々か。
「すみません薮田さん。自分の教育不足です」
「いやなに、君が謝るべきことではないんだがね。なにせ佐竹の勤務を咎めることが出来るほど勤勉な人間は、我が署では東堂くんくらいのものなんだ。その君が教育しても治らないというのなら、彼の更生はもう不可能だと言わざる得まい」
署内の喫煙室で、大量の煙を吐き出しながら副署長の薮田は私にそう言った。
内心、1ミリも申し訳ないとは思っていない。部下の佐竹が会議中に勝手に抜け出し、しかも上司を侮辱するような発言をしたことは署内でもほとんどの人に知れ渡り、佐竹の処遇を検討する会議まで開かれる予定だそうだ。
私はタバコを吸わないが、副署長の話を聞くためだけに、嫌いな臭いの染み付いた喫煙室に居た。真白だったであろう壁はどこか茶色く染まっているし、むせるような臭いが至る所から湧いている。どうして自らの寿命を縮めてまでタバコを吸おうと思うのか、私には甚だ疑問だった。
「ところで、東堂くん」
またひとつ大きな煙の塊を吐き出しながら、薮田が問う。
「君の昇進についてなんだがね」
これだ。
私は街に待っていた言葉を聞いた途端唾をごくりと飲み込んだ。私にとっての、全て。この仕事における昇進、そして組織の掌握。それこそが私の野望そのもの。以前からこの薮田という小太りの男に、逐一媚びを売り、なんとか昇進するための策を講じてきた。仕事もろくに出来ない癖に副署長に成り上がった薄汚い男に、嫌々贈り物、支援金、ありとあらゆる媚びを売った。その効果を期待した。
「私の方で色々上に掛け合ってみたんだがね。もう少しのところで、やはり佐竹の存在がネックになってしまったよ」
「・・・佐竹、ですか?」
一瞬、自分が思ったより低い声が出てしまった。呆れのような怒りのような声だった。なぜ、俺の昇進に佐竹が?
「あぁ、東堂くんの仕事ぶりからすれば昇進は上の者からしても全くの異論はなかった。しかし、あの佐竹が部下についてしまっているという点で、彼のような人間をこれ以上野放しにするわけにもいかず、彼のような人材を模倣する人間が出てこられても困るのでね。その直属の上司である君を昇進させることは、佐竹のような人間を賞賛することにならないかと不安なんだよ」
「私の昇進を、佐竹が邪魔していると?」
「まあ、あながち間違いではないな」
「そうですか」
「東堂くんには良くしてもらっているし、佐竹のことなど気にする必要ないと言ったんだがね」
随分と他人事のようにこの豚は喋るな、と思った。そして同時に、この薮田という豚が利用価値のない無能だと私の中で判断された。
私が撒いたのは昇進への種ではなく、豚への餌だったということか。
「ん? どうした、東堂くん。もう戻るのかね?」
まだ半分ほどタバコが残っている豚を背に、私はお辞儀もせず部屋を出ようとする。
「すみません、急用ができまして」
「お、そうかそうか、また昇進について何かわかったらーー」
豚が鳴き終わる前に私は喫煙室を出た。電話がかかってきたかのように装ったが、誰からも電話はかかっていない。
喫煙室の外は少し開けたロビーになっていて、ちらほら同僚たちが歩く姿が見える。午後1番の仕事に気合の入った新人たちの姿が見える。
どこか、私は彼らに自分の姿を重ねる。そして忌まわしい佐竹の姿を重ねる。
タバコの臭いが染み付いてしまっていないかと不安になって、スーツをジャケットを軽く叩いた。そして、私は自らの仕事に戻ることにした。
時間はそう多くはない。私は私のためにやるべきことをやるのだ。
そう思った矢先、ロビーが少しざわついた。何か、起きている。
どこからか走り込んできた若手の刑事がハアハア言いながら、少し大きな声で同僚に話すのが聞こえてきた。
「おい! 佐竹さんが退職願出すのを見たって須藤が!」
その言葉に驚く若手たちを見て、私も心のどこかでざわめきを感じていた。
悲哀か嬉々か。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
眼異探偵
知人さん
ミステリー
両目で色が違うオッドアイの名探偵が
眼に備わっている特殊な能力を使って
親友を救うために難事件を
解決していく物語。
だが、1番の難事件である助手の謎を
解決しようとするが、助手の運命は...
蠍の舌─アル・ギーラ─
希彗まゆ
ミステリー
……三十九。三十八、三十七
結珂の通う高校で、人が殺された。
もしかしたら、自分の大事な友だちが関わっているかもしれない。
調べていくうちに、やがて結珂は哀しい真実を知ることになる──。
双子の因縁の物語。
濁った世界に灯る光~盲目女性記者・須江南海の奮闘Ⅱ~
しまおか
ミステリー
二十九歳で盲目となり新聞社を辞めフリー記者となった四十四歳の須依南海は、左足が義足で一つ年上の烏森と組み、大手広告代理店が通常のランサムウェアとは違った不正アクセスを受けた事件を追う。一部情報漏洩され百億円の身代金を要求されたが、システムを回復させた会社は、漏洩した情報は偽物と主張し要求に応じなかった。中身が政府与党の政治家や官僚との不正取引を匂わせるものだったからだ。政府も情報は誤りと主張。圧力により警察や検察の捜査も行き詰まる。そんな中須依の大学の同級生で懇意にしていたキャリア官僚の佐々警視長から、捜査線上に視力を失う前に結婚する予定だった元カレの名が挙がっていると聞き取材を開始。しかし事件は複雑な過程を経て須依や烏森が襲われた。しかも烏森は二度目で意識不明の重体に!やがて全ての謎が佐々の手によって解き明かされる!
嘘つきカウンセラーの饒舌推理
真木ハヌイ
ミステリー
身近な心の問題をテーマにした連作短編。六章構成。狡猾で奇妙なカウンセラーの男が、カウンセリングを通じて相談者たちの心の悩みの正体を解き明かしていく。ただ、それで必ずしも相談者が満足する結果になるとは限らないようで……?(カクヨムにも掲載しています)
隅の麗人 Case.1 怠惰な死体
久浄 要
ミステリー
東京は丸の内。
オフィスビルの地階にひっそりと佇む、暖色系の仄かな灯りが点る静かなショットバー『Huster』(ハスター)。
事件記者の東城達也と刑事の西園寺和也は、そこで車椅子を傍らに、いつも同じ席にいる美しくも怪しげな女に出会う。
東京駅の丸の内南口のコインロッカーに遺棄された黒いキャリーバッグ。そこに入っていたのは世にも奇妙な謎の死体。
死体に呼応するかのように東京、神奈川、埼玉、千葉の民家からは男女二人の異様なバラバラ死体が次々と発見されていく。
2014年1月。
とある新興宗教団体にまつわる、一都三県に跨がった恐るべき事件の顛末を描く『怠惰な死体』。
難解にしてマニアック。名状しがたい悪夢のような複雑怪奇な事件の謎に、個性豊かな三人の男女が挑む『隅の麗人』シリーズ第1段!
カバーイラスト 歩いちご
※『隅の麗人』をエピソード毎に分割した作品です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる