生死の狭間

そこらへんの学生

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惨劇の冬

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「じゃあ、また後でね」
 何百、何千と聞いたはずの麗華の声が、彼女の姿と共に今でもありありと思い浮かぶ。ベージュのトレンチコートにお気に入りの黒いブーツ。髪を一つにまとめたポニーテール。笑いながら手を振った彼女を見送って、それが俺と麗華の最期になった。

 麗華は、クリスマスイブの夜、殺された。俺と晩御飯を共にした後、一旦彼女が一人暮らししていた部屋(当時半同棲だった俺と麗華にとっては、麗華の家は荷物置き場になっていた)に麗華は荷物を取りに行くと言った。年末年始を共に過ごすための荷物が足りないのだと困ったように笑っていた。
 今でも思い返す。あの時、なぜ一緒に付いていかなかったのか。「来なくて良い」という麗華の言葉を押しやって何故無理にでも一緒に居てあげなかったのか。

 どうして、麗華を救えなかったのか。

 その夜、あまりに帰りが遅く、連絡もなかった麗華を心配した俺は、麗華の家まで走った。何か良くないことが起きたのではないかという不安と、たまたま連絡出来なくて、たまたま遅くなっているだけだという何の根拠もない安堵を求める心で一杯だった。
 四階建てのマンションの一室。四階に住んでいる麗華の部屋の前で、俺は異変に気づいた。
 鍵どころではない、扉が、少し開いていた。
 それからの記憶はぼんやりとしている。頭がパニックになって、急いで麗華の家に押し入り、電気の付いていない部屋の中で必死に彼女を探し求めた。床に横たわる彼女を見つけ、彼女の体を揺さぶっている時のあの焦燥感。絶望と希望が入り混じった吐き気のするような感覚。それだけが残っている。彼女は腹部を真っ赤に血で染めていた。刃物で刺されたような傷跡が彼女の綺麗なニットセーターを突き破っていた。
 俺が来た時には既に麗華は息絶えていた。

 気づけば俺は取り調べ室で聴取を受けていた。それもそうだ、俺は第一発見者で、容疑者でもあるのだから。
 でも、正直言って心当たりは何もなかった。彼女が殺される理由なんてあるはずがないし、何より、殺人という仕事上関わりのある概念が、自らのプライベートにまで存在しているなんて、思ってもいなかった。どこか他人事のように思っていたのかもしれない。
 結局、俺からは何も有益な情報が得られないと分かったようで、俺はすぐに復職した。実際、そもそも刑事としての仕事をただこなすだけだった俺が、放心状態で仕事をしていても誰にも心配されるようなことはなかった。
 麗華の死が、まったく薄らぐことなくただ深い絶望として、俺の世界に幕を垂らしていた。暗い世界が、広がっていた。
 捕まらない犯人に対する言葉にできない憎悪と、その憎悪を抱く自分自身の正義感との矛盾に葛藤した。
 俺は麗華を殺した人間が、まったく手がかりはないがその人間を殺したくて仕方なくなった。この手で、死ぬまでその人間を痛めつけないと気が済まないと理解した。それは同時に俺を恐怖に包んだ。人が、よりにもよって自分という人間が、ここまでの憎悪と殺意を持つことが出来てしまうこと自体が恐ろしかった。
「佐竹さんって正義感があって、強くて、かっこいいなって思います」
 まだ出会ってすぐのころ、麗華は俺のことをそう評価してくれた。ただのお隣さんというだけの関係であったはずなのに。
「正義の味方って感じですね」
 ぎこちない敬語と敬語の会話で、本当は気まずいはずなのに、何故か俺は彼女との会話に不快感を覚えたことはなかった。
 俺はあの時、なんと言葉を返したのだったか。
 もう、あの事件から5年以上経つ。彼女を殺した犯人への憎悪は、彼女との記憶全てを蓋をして、見て見ぬふりをすることでかき消してきた。仕事にも力を入れず、ただダラダラと日々を生きていけば、痛みや悲しみは和らぐと思っていた。
 でも、残ったのは虚しさだけだった。
 彼女の言葉と、犯人への憎悪と、俺の自責の念が混じりに混じって、結局虚無だけがそこにあった。

 だから、俺にとって全ての事件はめんどうなものでしかない。全てが彼女の事件を思い出させるし、それを他人事だと割り切るのには随分と労力が必要だった。
 ただ生きるために、働いて、死にゆく。
 今起きている連続殺人事件も、俺にとって面倒だと、そう思いやり過ごすつもりだった。

 でも多分、俺は、心の奥底で諦めきれていなかったのだと思う。そうじゃないと、警察を辞めずに殺人事件を中心とする捜査に関わろうとなんてしないはずだ。
 めんどうで、やりたくないといいながら、虚無しかないと言いながら、俺は、奴を探し求めていた。

 麗華を殺した人間を、この手で裁くために。

 だから、俺は今回の事件に、そのやり口を見て、かすかな絶望をもたらす希望を持ってしまったんだ。

 河川敷での死体を見た時、既視感を覚えた。別に大したことではない。殺人という枠で見れば不可解に思うことではない。
 人の腹を、横に裂くように切りつけるのは、さしておかしなことではない。だから、麗華の時も、河川敷の時も誰も不思議に思わなかった。
 あくまで殺傷で、刺傷だ。
 たとえその傷跡が、真一文字になっていたとしても。

 その既視感を覚えたのは俺だけだったに違いない。俺にとっても、それは好都合だった。
 麗華を殺した人間が、河川敷で発見された遺体の容疑者かもしれない。そう思った俺は、上層部やいけすかない相棒には内密に、独自の調査をすることにしたのだ。
 
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