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花の書
求めるもの1
しおりを挟む硯の陸と呼ばれる平らな部分に水滴を落とし、墨を構える。
そして心を落ち着け、深呼吸。
だが墨を磨った瞬間、煙管で頭のてっぺんを叩かれた。
「いたっ」
「バカみたいに力こめてるんじゃないよ。墨そのものの重さで磨るくらいの気持ちで力を抜くんだ」
厳しい書道家の助言に、伊知郎は肩を上下させ、自分なりに力を抜いてみる。
「難しいな……こんな感じ?」
「まだ力んでる。手首から力抜いて」
「ええ……こうか?」
「ダメダメ。磨る、って意識しない。無心になんなさい。剣道でもそういう、瞑想的なことするんだろ」
確かに、と思いつつも、だが瞑想しながら墨は磨ったことないしなあ、と悩む。
剣道でも、無心になれ、とよく使われる言葉だ。
無心で剣を構え、試合相手と対峙する。
実際、何も考えずに試合に臨むなんてことは、なかなかできるものではない。
容易にできれば、それはもう達人の域に達しているということだ。
剣道歴の長い伊知郎でも、そういった本当の無心で剣を持てた試合は数えるほどしかない。
だが無心で剣を振ること以上に、無心で墨を磨るのは伊知郎にとっては更に難関だと感じた。
休日の午後。
伊知郎は紫倉邸のちゃぶ台ではじめて墨を磨っている。
小学校の授業で書道を習ったときは、墨汁を使っていた。
習字セットに固形の墨も入っていたが、いつのまにか失くしていたので使ったことはない。
「俺にも書道を教えてくれないか」
習字教室のアルバイトのあと、伊知郎から悠山にそう頼んだ。
助手としてまったくの素人というのもどうなのか、というのは建前で、本音はただ、筆を操る悠山の姿に憧れを抱いたからだった。
剣道しかやってこなかった伊知郎は、悠山と出会い、何かを生み出すという行為の美しさを知り衝撃を受けた。
自分には無理だと思いつつも、あんな風に描けたら、と考えずにはいられなかったのだ。
授業料を払えと言われるのを覚悟していたのだが、悠山はあっさりと「まあいいでしょう」と了承してくれた。
おまけに書道の道具まで、以前悠山が使っていたものをくれたりと、やけに気前が良い。
あとで何を言われるか……などと余計なことを考えていたのがわかったのか、再びカツンと煙管で喝をいれられる。
「お前さんはしばらく墨磨りだね。まともな墨を磨れるようになったら筆を持たせてあげましょ」
「まじか……。俺、一生墨磨ってる気がしてきたぞ」
「勘弁しとくれ。一生なんて付き合いきれるかい」
嫌そうに言うと、悠山はふと庭先に目をやった。
つられて伊知郎もそちらを見ると、麦わら帽子をかぶった朔が、熱心に花に水やりをしている。
花壇には以前より花の種類が増えていた。
水谷の家の庭の花をわけてもらったのだ。
時期の過ぎた花の株分けもしてもらい、朔は以前にも増して花壇の手入れに力を入れている。
「……あのあとさ、水谷さんとあの庭の花を持って、高天ノ山に行ったんだ」
「へえ。デートですか」
「そ、そんなんじゃなくて。小夜さんの結婚式で飾ってもらいたいなって、水谷さんが言うからさ。運ぶのを手伝っただけだよ」
悠山はいじわるく笑いながら「会えたのかい?」と聞いた。
「いや。でも、ご神木の前に鳥居があってさ。そこに花束を置いたんだ。目をつぶって手を合わせて。それで次に目を開けたとき、花束がなくなってた」
目を閉じていたのはほんの短い時間だった。
鳥の羽ばたきのような音が聞こえた気がしたが、確かなことはわからない。
「それは彼女も驚いただろうね」
「うん。でも、嬉しそうだったよ」
きっと花は、あやかし夫婦の式を華やかに飾ったことだろう。
神木にとまったカラスがずっと伊知郎たちを見ていたが、あれは山の神の遣いだったのだろうか。
「最近、カラスがかわいく見えるんだよね」
そう言って、カラスに手を振っていた水谷の笑顔が印象的だった。
水谷家は無事取り壊しの日が決まり、水谷もすでにマンションに引っ越しを終えたらしい。
彼女の目の下に居座っていたクマはすっきりと消え去り、以前より明るく溌剌としたように思う。
その辺は、あまり言うと悠山にからかわれそうなので黙っておいた。
悠山は煙管に火をつけ、庭に向けて煙を吐くと伊知郎を見た。
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