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禍の書

見える者3

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「なるほどねぇ。こいつは立派な【禍】だ」


悠山の呟きは、静かな家の中で大きく響いた。

そう、祖父の大切にしていた掛け軸の書かれているのは【禍】という一文字。
字だけでも不吉だというのに、紙の上半分にのみ、という非常にアンバランスな形で書かれたこの書を、家族が不気味がるのも仕方のないことだった。

だが伊知郎の目にはただただきれいな字にしか映らなかったし、たぶん祖父にとってもまったく別のものに見えていたのではないかと思っている。


『今日もお前のおかげで幸せだよ』


何度か祖父がこの掛け軸に向かって語りかけている姿を盗み見た。

あるときは茶を、あるときは酒を飲み掛け軸と向き合っていた祖父。
まるであの掛け軸が、祖父のかけがえのない友のように伊知郎には見えたのだ。

もしかして、あの足に向かって祖父は語りかけていたのだろうか。

そこまで考え、さすがの祖父もそこまで変人ではないはずだと頭を振る。


「し、紫倉先生? 大丈夫なんですか?」

「大丈夫、とは?」

「だって、そ、そこに、あ、足が……」

「足?」


悠山にはあの男の足が見えていないのか。

もしかして、さっきは見まちがえたのかもしれない。
そう思い、伊知郎は震えながらもう一度床の間に目をやった。


だめだ! やっぱり足がある!


声にならない悲鳴をあげながら、再び廊下の壁に隠れた。
全身より足だけのほうが怖い気がするのはなぜだ。


「伊知郎くん?」


そうだ、悠山になら。
剣道場で悠山の作品を見たとき、同じく光る字を書く書道家になら、わかってもらえるのではないかと直感で思ったのだ。


「せ、先生。どうなんですか、祖父の掛け軸は。先生にはどう見えてますか? 光って見えますか?」

「そうですねぇ。光っては見えませんが、もっと怖ろしいものが見えてます」


悠山をうかがうと、彼は何かを見通すような目をしていた。
飄々とした雰囲気から一転、ピリリとした空気を纏っている。


「お、怖ろしいものって、先生にもあの足が見えてるんですか!? やっぱりあの掛け軸、何かまずいものなんですか?」


もしや、祖父は呪われていたのだろうか。
だからあの掛け軸を友のように大事にし、守っていたのか。


「まずいと言えば、とてもまずいですね。よくこんな代物、長年飾っておけたもんだ」


そんなにか、と伊知郎はうすら寒いものを感じ震えた。


「先生にはこの掛け軸がどう見えてるんですか? まずいというのはどういう風に? このまま飾っておいてはいけないんでしょうか?」

「落ち着きなさい。とりあえず、ここを離れましょう」


あまり近づきすぎると良くないと言われ、泣きたい気持ちになった。

部屋から離れ、廊下を歩きながら、この家に出入りする人について聞かれ答える。

さっき会った滝は、母屋の裏にある蔵を掃除していて、腰にケガを負った。

小さい蔵だが、古くて電気がないうえ、高く物が積み上げられている。
棚の上にあった箱が突然落ちてきて、強く腰を打ちつけたそうだ。

そして庭師も、先週庭木の剪定中に梯子が折れて、落下しケガをした。
左腕にヒビが入ったが、いまもできる範囲で仕事をしてくれている。

聞いていた悠山は難しい顔をしてうなずいた。


「その人たちには、しばらく休んでもらったほうがいいでしょう」

「休むって、どれくらいですか」

「もちろん、あの掛け軸をどうにかするまでです。それまでこのお家には誰も近づけさせないほうがいい。当然ご家族も。お前さんは……まあ、少し様子を見るくらいなら問題なさそうですがね」

「……え? 俺はいいんですか?」

「良かないですが、他の方よりは影響は少ないでしょうから」


なぜ、俺だけ?

あの掛け軸が人とはちがって見えるからだろうか。
だがあの足を見てしまっては、いままで通り近づく勇気は持てそうになかった。

お茶でもいれましょうかと言ったが、それより家を出たほうがいいと言われ、そろって祖父の家をあとにする。
慣れ親しんだ祖父の家が、急に得体のしれない怖ろしい場所になってしまったようで悲しかった。


「あの。この家に近づかなければ安全なんですか?」

「そうとも言い切れません。会長さんの縁者と認識されれば、家には近づかなくても後々何か起こることはありえます」

「それってつまり、あの掛け軸は呪われているとか、そういうことなんでしょうか……」


しおれた声で伊知郎がたずねると、悠山は苦笑した。
かわいそうな子どもを見るような目を向けられて、決まりが悪い。


「別に呪われてるわけじゃありませんよ。ただ、あの書自体がそういう性質だというだけです」

「性質って、人を危険な目に遭わせたりするのがですか?でもどうして先生に――」

「そんなことがわかるのか?」
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