僕の物語

なんぶ

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第1話

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 自分に体があるなんて知らなかった。
 上の階から必死に謝る声が聞こえていたけど、そんなことはどうでもよかった。
 コーヒーが滴っていた。
 何もないはずの空間に、コーヒーを輪郭にして自分の両手があった。
 「大丈夫ですか?」
 様子を見に来た職員が、確かに僕を見た。

 僕はここに存在していることを知った。


 立派な応接間に通されて、ふかふかのタオルで自分の体の何かを拭っていると、小さな男の子が入ってきた。
 「お怪我はありませんか」
 彼はタオルを見ながらこう言った。えらく大人のような話し方だ。
 「あなたのような利用者様もいることを知らなかった自分を恥じたい」
 「利用者なんてものじゃない。僕は空間で、風みたいなもんです」
 「でも、本はお持ちでしょう?」
 「本?」
 応接間の向こうに、棚にぎっしりと詰められた大量の本が見える。
 「あれのことじゃなくて?」
 「……あなた、原本は?」
 「原本?」
 (便宜上)左手が消え、掴んでいたタオルが床に落ちた。
 「あなた、名前は?」
 「名前……あるんでしょうか、僕の名前。今まで自分の名前なんて考えたこともなかった」
 「……ちょっとお待ちください」
 男の子は立ち上がって、人を呼びに行った。
 「紫さん今いる? 休憩入っちゃった?」
 「そろそろ休憩から戻るはずです」
 「そうしたら、利用案内持って応接間に来て欲しいと伝えて。できれば急ぎで。聖徳さんは会議中?」
 「そうです」
 「定例会議だよね? ちょっと誰か聖徳さんと代わってくれませんか」
 バックヤードが慌ただしくなり始めた。
 何かあったのだろうか。

 数分後、髪の短い女性が入ってきた。走ってきたのか、息が上がっている。
 「館長! いらっしゃらないようです」
 「あれ? いるいる! ソファの凹みを見て!」
 「あっ! すみません。大変失礼致しました」
 女性はテーブルにさっと資料を並べた。
 「ええと、規約で確認すべきことがありまして、何点か質問を交えて説明します。私、副責任者の紫式部です」
 名刺を受け取った。
 「そこが手なんですね……」
 「え、まあ、はい」
 「しゃべった!」
 「あ、すみません。分かりづらいですよね」
 タオルを(便宜上)頭上に載せた。
 「いえ、こちらこそ失礼な振る舞いをしてすみません。それで、まず、この場所の説明から。ここはとしょかんと言います。ただ、普通のとしょかんではありません」
 差し出された資料を受け取る。
 ”ようこそ 屠書館へ!”
 「ここ、屠書館というのは、下界で亡くなった方が人生を完結させるために訪れる場所です。下界で亡くなられると体を持った人生は終わりですが、魂がまだ生きています。その魂を完結へ導くための場所です。失礼ですが、お体は……?」
 「気づいた時からなかったんです」
 そもそも気づいたのがついさっきだ。
 「下界の記憶はお持ちですか? 断片的なものでも」
 「…………全く」
 「デリケートな話ですみませんが、性別は分かりますか?」
 「……考えたこともなかった」
 「ご自身の身体的特徴などは?」
 「さっき自分に体があると知ったばかりで、とりあえず両手と頭とお尻があることは知っています」
 急に風が吹き、テーブルの上の資料が僕を通過してソファの背に当たった。
 「……胴体はないようですね」
 「……みたいですね」
 紫式部と名乗る女性はひどく困惑していたが、素早くメモを取っていた。
 「失礼します。責任者の聖徳太子です」
 キリッとした顔の男性が入ってきた。先ほどの男の子も一緒だ。
 「魂認証をさせて頂いてもよろしいでしょうか。機械でピッとするだけです」
 「どうぞ」
 男性の方へ向き直した。
 「では失礼して」
 (便宜上)おでこのあたりを照射された、が。
 光は僕を認識せずソファに着地した。
 「ここにいて、意思疎通もできて、魂があるとわかっているのに、機械がそれを感知してくれないみたいですね」
 「……つまり?」
 「あなたが何者か、天界の誰もわからないということです」
 「紫さん、ちなみに今までこんなことは?」
 「館長に次ぐ特例ですよ、ここ1000年聞いたこともない!」
 「それで、僕はどうしましょう?」
 「今までどうやって過ごされてきたんですか」
 「ずっと自分のことを風だと思っていました。コーヒーをぶちまけられて初めて、自分に体があることを、自分がいることを知りました」
 「コーヒーは知ってるんですね」
 男の子がにやりとした。
 「確かにコーヒーは知ってましたね」
 「聖徳さん、こういうケースって調査に時間がかかるよね?」
 「ええ」
 「せっかくだからゆっくりしてもらおうよ」
 「……そう仰ると思っていました」
 聖徳太子という男性が不思議に見える。子供にも敬語を使うのか、それにしては堅いような。というか紫式部という彼女も男の子に対して敬語だ。
 「ゲスト」と書かれたカード、そしてそれが入ったネックストラップを手渡された。
 「ゲストカードです。このカードがあれば屠書館利用ほか、カフェテリアなども無料でご利用頂けます。お好きに使ってください」
 「だ、大丈夫ですか? ただの風もどきに」
 受け取るのを辞退してしまうぐらいそれは豪華なものでは?
 「いいえ。必要なことです」
 ネックストラップをかけた。自分に首があることが分かった。
 「良かった、首がなかったらどうしようと思ってたんです」
 男の子がいたずらっぽく笑った。
 「ああ、申し遅れました。僕は屠書館の館長の一海現文(ひとみ あらふみ)です。予期せぬ訪問にこそなったでしょうが、楽しんでいってください」
 差し出された彼の手を握った。
 彼の手は見た目相応に小さく、そして自分の手が彼より大きいことが分かった。
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