8 / 73
第1章 新大陸。
檻の中。
しおりを挟む 中島 康太 二十一歳
ゆっくりと目をつむる。鼻から大きく息を吸い込み、拳を強く握る。そして口から長くゆっくりと息を吐き出して、目を開く。
これは儀式だ。心を落ち着かせて集中力を高めるための儀式。意識して呼吸を整えながら、落ち着いた頭で考える。
世界が終わるということの意味を。
と……いうことはだ、来年……オリンピックはない。俺は……今の俺のまま死ぬことになる。
「……くそっ」
思い出す。
それは小学二年生のときだった。
その頃の俺は特撮ヒーローが大好きだった。五人組のヒーローが一人の怪人を倒すやつじゃなくて、ヒーローと悪役がサシで戦うやつが好きだった。
ヒーローごっこもやった。父さんが仕事から帰ってくると悪役をやってもらって、ほとんど毎日のようにやっていた。でもそれは所詮ごっこ遊び。父さんがわざと大げさに負けてくれるのが、いつの頃からか気に食わないと思うようになった。
それで俺は本当に強くなりたいと考えた。ヒーローがやっていた空手が習いたくて、思い立ったその日のうちに父さんにお願いした。しかし近所には空手の道場がなくて、結局俺は柔道を習うことになった。
それが俺と柔道の出会いだった。
柔道は楽しかった。自分より大きい相手を投げたり、押さえ込んだりと、どんどん夢中になっていった。それでも小学五年生になるまで、俺は道場に遊びに通っていた。
柔道に対する意識に変化が訪れたのは、小学五年生のときに見たオリンピックの影響だった。それまで三年間柔道をやっていたが、柔道をテレビで見るのはそれが初めての機会だった。
衝撃的だったのは軽量級の工藤竜司選手。初戦から決勝戦まで全て背負い投げで一本勝ち。このとき工藤選手は二大会連続の金メダルだった。
めちゃくちゃかっこいいと思った。大好きだった特撮ヒーローよりもずっとかっこよかった。その日から俺のヒーローは工藤選手になった。そして俺は柔道でオリンピックを目指すことを決めた。
それからずっと俺は人生の全てを柔道に捧げてきた。
初めて大会で優勝したのは小学五年生の十一月、地元で行われる食品メーカーの名を冠した小さな大会だった。それから俺は十八歳まで、出場した大会で一度も負けたことはなかった。インターハイ、国体はもちろん、年齢制限のない選抜選手権や世界大会であるワールドカップでも優勝した。高校三年生のときには憧れであった工藤選手とも二度対戦し、二度とも一本勝ちで勝利した。
それも二度目の試合はオリンピックの選手選考に大きく影響する、選抜選手権の決勝戦だった。
その試合、開始まもなく組み手を取ったところで、俺は先にポイントを奪われた。工藤選手の戦い方は柔道をかじったことのある者なら誰だって知っていた。彼はひたすらに背負い投げにこだわりを持っていた。もちろん足技も使う。しかしそれは牽制や相手の体勢を崩すためのものか、背負いにつなげるための予備動作でしかなかった。もし相手を背負いで投げて、それが技ありだったなら、彼は寝技を避け、次の背負いで一本を狙っていった。彼が求めるのはただ一つ、背負い投げによる一本勝ちだけだった。誰もが彼の背負いを警戒していた。それでも背負いで投げてしまうのが彼の強みだった。その工藤選手が開始直後の組み手争いの中、足技の小内巻き込みでポイントをとりにきたのだ。俺は完全に虚を突かれ、背中こそつかなかったが倒されてしまった。判定は有効。その後、工藤選手はいつも避けていた寝技で押さえ込みまで狙ってきた。試合は結局内股で俺の一本勝ちだったが、工藤選手は巴投げまでやってきた。必死さこそ伝わってきたが、正直いつものスタイルのほうが恐さがあった。
そして俺はオリンピックの軽量級代表として選ばれた。三大会連続優勝中、三十二歳の工藤竜司選手ではなく、十八歳で高校生の俺がオリンピックの日本代表に選出されたのだ。
それは日本中を騒がす大きなニュースになった。工藤選手は国民的ヒーローだったから。
柔道をよく知っている人たちは俺の選出を好意的に受け止めてくれた。しかしオリンピックくらいでしか柔道を見ないような人たちの中には俺を否定する者が多かった。
経験が足りないとか若すぎるとか……俺のことを何も知らないような奴らが、口々に俺を否定した。
だから俺は取材に対して言ったんだ。
俺は試合で負けたことがない。世界大会で優勝するより工藤選手に勝つほうが難しい。工藤選手に勝てた時点で金メダルは貰ったようなもんだ。だからぐだぐだ文句を言ってないで安心してくれと。
この発言で俺はまた叩かれた。ビッグマウスだとか天狗になっているだとか、いろいろ言われた。
それでも俺は全く気にしなかった。オリンピックで優勝して黙らせてやればいい。そう思っていた。
そしてオリンピック。
初戦だった。相手はデンマーク代表のクリスティアン・エリクセン選手。以前に一度対戦したことのある相手だった。軽量級の割には背が高く力が強い。四肢も長くやりにくい相手ではあるが、恐れるような一発を持っているわけではない。
俺は畳の上で彼と対峙した。
ゆっくりと目をつむる。鼻から大きく息を吸い込みながら拳を強く握る。そして口から長くゆっくりと息を吐き出して、目を開く。相手を真っ直ぐに見据えて、審判の合図で礼をする。
そして試合が始まった。
「せい!」
声を出して組み手争いのために手を構える。
この試合でまず俺を否定する奴を黙らせてやる。一分以内、いや一撃で倒す。そんなことを考えていた。
俺は組み手争いも強い。開始数秒で俺は自分の組み手を取った。そして相手の呼吸に合わせて、軽くこちらに引き寄せる。相手はそれに反発する。そこに一歩踏み込んで足技に行くそぶりを見せる。またそれに合わせて相手の重心が移動する。
そこに内股を仕掛けた。
完璧だった。相手はおもしろいくらい簡単に浮き上がる。俺は自分ごと回転し相手を投げ飛ばした。少し勢いがつきすぎたため相手の背中は畳についていないかもしれない。それでも完全に投げ飛ばした。スーパー一本で問題ないだろう。
そんなふうに考えながら、投げ飛ばした姿勢のままで審判を見上げた。審判の手は水平に上げられていた。技ありだ。目を疑って電光掲示板を見る。技ありが点滅していた。
そのとき視界から電光掲示板が消えた。
あ、やばい……
そう思ったときには、すでに押さえ込まれていた。一本と技ありの違いもわからないヘボ審判が押さえ込みを宣言する。
二十秒で逃げなければ、俺は負ける。
完全な形で押さえ込まれていた。それでも負けるわけにはいかない。必死にブリッジして体を回転させようともがいた。
やばい、やばい、やばい……頭の中がその言葉だけで埋め尽くされていく。焦りが募る。それでも俺は必死に暴れ、押さえ込みから逃れようとした。
そしてやっと逃げ出した。
そう思ったそのとき……相手は座ったまま両拳を天へと突き上げて、歓喜の声を上げていた。そして審判が一本を宣言した……
俺は負けたのだ。相手の選手が次の試合で敗れたため、敗者復活戦もなく一回戦敗退。
帰国するとバッシングの嵐だった。八年間公式戦で負けたことのなかったこの俺が、たった一敗しただけで……これまでどれだけ過酷な練習を重ね、どれだけ多くのものを諦めて俺が柔道だけに取り組んできたのかを知りもしない奴らに、負け犬のレッテルをはられて嘲笑の的にされた。
それでも言い訳は出来なかった。審判の誤審で無理やり負けにされたわけじゃない。あそこで気を抜かなければ、問題なく勝てた試合だったのだ。そもそもあのときの俺は相手選手と対峙しながら、別のものと戦おうとしていた。俺は負けるべくして負けたのだ。
それからの俺は今まで以上に柔道に全てを捧げた。絶望に浸っている暇なんてなかった。全てが終わってしまったわけではない。俺にはまだ四年後があった。次のオリンピックでこの汚名を返上したかった。
そのためだけに生きてきた。毎日、毎日、吐くまで練習した。どれだけ練習しても、次ぎ勝てる確信が持てなくてひたすらに練習を続けた。食事にも気を使い、好物だったチョコレートなどの甘いものも、あの敗戦以来一度も口にしてはいない。
どれだけ勝利を重ねても、どんな大会で優勝しても、オリンピックでの汚名はオリンピックでしか晴らすことが出来なかった。
そのオリンピックが来年だった。すでに選考は始まっている。来月には選考に影響する大会も控えていた。その大会には工藤選手も出場する。
それなのに……それなのにだ。
世界が終わる。オリンピックの前に終わってしまう。俺は負け犬のまま、この人生を終える。汚名を返上するチャンスは訪れなかった。
「ふざけんなよ……」
そんなの許されない……そんなことがあっていいわけがない……
心の中で様々な感情が入り乱れていた。後悔、怒り、悲しみ、絶望……様々な負の感情が溢れ出してくる。その溢れる思いを吐き出そうと、叫び声を上げようとしたそのとき、電話が鳴った。携帯ではなく、家の電話だ。
家の電話なので誰からかはわからないが、俺はつい反射的に電話をとってしまった。
「俺だ……」
それはよく知った声だった。
「新手の詐欺かなんかですか? どうしたんです? 工藤さん。こんなときに」
工藤選手だった。
「はっ、残念だったな。オリンピックどころじゃなくなっちまったな」
少し笑いながら、工藤選手はそう言った。
「ですね……これ、ドッキリとかじゃ、ないんですよね?」
「ああ……もうすぐ世界が滅びるんだってよ。本当……ありえねえよな」
「俺は……俺なんか、大口叩いてたのに、オリンピックで一回戦負けの、負け犬野郎のままエンディングですよ……」
「そうだな……まぁ、でも、俺が知っているさ。お前は誰よりも強いって……」
そう言ってまた少し笑った後、ため息まじりに工藤選手は言葉を続けた。
「俺はな、オリンピックで三回も金メダルを取ってるんだぜ。それなのに、お前には一度も勝てなかった。オリンピック前に二回、後に二回。四戦とも一本負けだ。お前はいっつも、自分は誰よりも練習してるって言うけど、お前はまだ二十一だろ。俺は三十五だ。総合的な練習量じゃあ、圧倒的に俺のほうが多いからな。その俺が十八だったときのお前にすら、手も足も出なかった。どんだけくやしかったかわかってんのか? 俺はもともと前回のオリンピックの後、引退するつもりだったんだ。それなのにまだ続けてるのはな、一度だけでもお前に勝ちたかったからだ。あーー! くっそ! 来月の試合楽しみだったのにな。対お前用の必殺技を用意してたんだぞ。そうだな……お前、ちょっと今から一試合やらねえか? 今どこにいるよ?」
「奈良です」
「くそっ……遠いな。無理か。あー! ちくしょう。もし、あれだぞ。天国みたいなのがあったらそこで勝負すんぞ。勝ち逃げなんて絶対に許さねえからな」
「はは……わかりました。やりましょう。天国で天使が審判なら、あんなヘボい判定しないでしょうしね」
「おい……ちょっと待てよ。あれじゃねえか? 天国だったら俺、全盛期の状態でやれるんじゃねえ?」
「それでも返り討ちにしてやりますよ」
なんだろう……少し楽しくなってきた。
工藤選手と話していたら、負の感情は全部どっかに行ってしまった。やっぱり工藤選手はかっこいい。俺と違って他人の目なんて気にしていなかった。きっと、ただ自分のやりたいようにやっているだけなんだ。
そうだ。俺だって汚名なんて気にする必要なんてない。俺は強い。俺は柔道が大好きだ。
試合がしたくてたまらなくなってきた。
もういい。はやく世界なんて滅びてしまえ。そして俺は天国で工藤選手と戦うんだ。必殺技とやらがどんな技なのか楽しみでしかたがない。工藤選手が必殺技だというくらいだから凄い技に違いない。それでも俺は負けない。絶対に勝つ。
なんせ俺は最強だからな。
誰がなんと言おうと俺はそう信じている。
それで、それだけで充分だったんだ。
ゆっくりと目をつむる。鼻から大きく息を吸い込み、拳を強く握る。そして口から長くゆっくりと息を吐き出して、目を開く。
これは儀式だ。心を落ち着かせて集中力を高めるための儀式。意識して呼吸を整えながら、落ち着いた頭で考える。
世界が終わるということの意味を。
と……いうことはだ、来年……オリンピックはない。俺は……今の俺のまま死ぬことになる。
「……くそっ」
思い出す。
それは小学二年生のときだった。
その頃の俺は特撮ヒーローが大好きだった。五人組のヒーローが一人の怪人を倒すやつじゃなくて、ヒーローと悪役がサシで戦うやつが好きだった。
ヒーローごっこもやった。父さんが仕事から帰ってくると悪役をやってもらって、ほとんど毎日のようにやっていた。でもそれは所詮ごっこ遊び。父さんがわざと大げさに負けてくれるのが、いつの頃からか気に食わないと思うようになった。
それで俺は本当に強くなりたいと考えた。ヒーローがやっていた空手が習いたくて、思い立ったその日のうちに父さんにお願いした。しかし近所には空手の道場がなくて、結局俺は柔道を習うことになった。
それが俺と柔道の出会いだった。
柔道は楽しかった。自分より大きい相手を投げたり、押さえ込んだりと、どんどん夢中になっていった。それでも小学五年生になるまで、俺は道場に遊びに通っていた。
柔道に対する意識に変化が訪れたのは、小学五年生のときに見たオリンピックの影響だった。それまで三年間柔道をやっていたが、柔道をテレビで見るのはそれが初めての機会だった。
衝撃的だったのは軽量級の工藤竜司選手。初戦から決勝戦まで全て背負い投げで一本勝ち。このとき工藤選手は二大会連続の金メダルだった。
めちゃくちゃかっこいいと思った。大好きだった特撮ヒーローよりもずっとかっこよかった。その日から俺のヒーローは工藤選手になった。そして俺は柔道でオリンピックを目指すことを決めた。
それからずっと俺は人生の全てを柔道に捧げてきた。
初めて大会で優勝したのは小学五年生の十一月、地元で行われる食品メーカーの名を冠した小さな大会だった。それから俺は十八歳まで、出場した大会で一度も負けたことはなかった。インターハイ、国体はもちろん、年齢制限のない選抜選手権や世界大会であるワールドカップでも優勝した。高校三年生のときには憧れであった工藤選手とも二度対戦し、二度とも一本勝ちで勝利した。
それも二度目の試合はオリンピックの選手選考に大きく影響する、選抜選手権の決勝戦だった。
その試合、開始まもなく組み手を取ったところで、俺は先にポイントを奪われた。工藤選手の戦い方は柔道をかじったことのある者なら誰だって知っていた。彼はひたすらに背負い投げにこだわりを持っていた。もちろん足技も使う。しかしそれは牽制や相手の体勢を崩すためのものか、背負いにつなげるための予備動作でしかなかった。もし相手を背負いで投げて、それが技ありだったなら、彼は寝技を避け、次の背負いで一本を狙っていった。彼が求めるのはただ一つ、背負い投げによる一本勝ちだけだった。誰もが彼の背負いを警戒していた。それでも背負いで投げてしまうのが彼の強みだった。その工藤選手が開始直後の組み手争いの中、足技の小内巻き込みでポイントをとりにきたのだ。俺は完全に虚を突かれ、背中こそつかなかったが倒されてしまった。判定は有効。その後、工藤選手はいつも避けていた寝技で押さえ込みまで狙ってきた。試合は結局内股で俺の一本勝ちだったが、工藤選手は巴投げまでやってきた。必死さこそ伝わってきたが、正直いつものスタイルのほうが恐さがあった。
そして俺はオリンピックの軽量級代表として選ばれた。三大会連続優勝中、三十二歳の工藤竜司選手ではなく、十八歳で高校生の俺がオリンピックの日本代表に選出されたのだ。
それは日本中を騒がす大きなニュースになった。工藤選手は国民的ヒーローだったから。
柔道をよく知っている人たちは俺の選出を好意的に受け止めてくれた。しかしオリンピックくらいでしか柔道を見ないような人たちの中には俺を否定する者が多かった。
経験が足りないとか若すぎるとか……俺のことを何も知らないような奴らが、口々に俺を否定した。
だから俺は取材に対して言ったんだ。
俺は試合で負けたことがない。世界大会で優勝するより工藤選手に勝つほうが難しい。工藤選手に勝てた時点で金メダルは貰ったようなもんだ。だからぐだぐだ文句を言ってないで安心してくれと。
この発言で俺はまた叩かれた。ビッグマウスだとか天狗になっているだとか、いろいろ言われた。
それでも俺は全く気にしなかった。オリンピックで優勝して黙らせてやればいい。そう思っていた。
そしてオリンピック。
初戦だった。相手はデンマーク代表のクリスティアン・エリクセン選手。以前に一度対戦したことのある相手だった。軽量級の割には背が高く力が強い。四肢も長くやりにくい相手ではあるが、恐れるような一発を持っているわけではない。
俺は畳の上で彼と対峙した。
ゆっくりと目をつむる。鼻から大きく息を吸い込みながら拳を強く握る。そして口から長くゆっくりと息を吐き出して、目を開く。相手を真っ直ぐに見据えて、審判の合図で礼をする。
そして試合が始まった。
「せい!」
声を出して組み手争いのために手を構える。
この試合でまず俺を否定する奴を黙らせてやる。一分以内、いや一撃で倒す。そんなことを考えていた。
俺は組み手争いも強い。開始数秒で俺は自分の組み手を取った。そして相手の呼吸に合わせて、軽くこちらに引き寄せる。相手はそれに反発する。そこに一歩踏み込んで足技に行くそぶりを見せる。またそれに合わせて相手の重心が移動する。
そこに内股を仕掛けた。
完璧だった。相手はおもしろいくらい簡単に浮き上がる。俺は自分ごと回転し相手を投げ飛ばした。少し勢いがつきすぎたため相手の背中は畳についていないかもしれない。それでも完全に投げ飛ばした。スーパー一本で問題ないだろう。
そんなふうに考えながら、投げ飛ばした姿勢のままで審判を見上げた。審判の手は水平に上げられていた。技ありだ。目を疑って電光掲示板を見る。技ありが点滅していた。
そのとき視界から電光掲示板が消えた。
あ、やばい……
そう思ったときには、すでに押さえ込まれていた。一本と技ありの違いもわからないヘボ審判が押さえ込みを宣言する。
二十秒で逃げなければ、俺は負ける。
完全な形で押さえ込まれていた。それでも負けるわけにはいかない。必死にブリッジして体を回転させようともがいた。
やばい、やばい、やばい……頭の中がその言葉だけで埋め尽くされていく。焦りが募る。それでも俺は必死に暴れ、押さえ込みから逃れようとした。
そしてやっと逃げ出した。
そう思ったそのとき……相手は座ったまま両拳を天へと突き上げて、歓喜の声を上げていた。そして審判が一本を宣言した……
俺は負けたのだ。相手の選手が次の試合で敗れたため、敗者復活戦もなく一回戦敗退。
帰国するとバッシングの嵐だった。八年間公式戦で負けたことのなかったこの俺が、たった一敗しただけで……これまでどれだけ過酷な練習を重ね、どれだけ多くのものを諦めて俺が柔道だけに取り組んできたのかを知りもしない奴らに、負け犬のレッテルをはられて嘲笑の的にされた。
それでも言い訳は出来なかった。審判の誤審で無理やり負けにされたわけじゃない。あそこで気を抜かなければ、問題なく勝てた試合だったのだ。そもそもあのときの俺は相手選手と対峙しながら、別のものと戦おうとしていた。俺は負けるべくして負けたのだ。
それからの俺は今まで以上に柔道に全てを捧げた。絶望に浸っている暇なんてなかった。全てが終わってしまったわけではない。俺にはまだ四年後があった。次のオリンピックでこの汚名を返上したかった。
そのためだけに生きてきた。毎日、毎日、吐くまで練習した。どれだけ練習しても、次ぎ勝てる確信が持てなくてひたすらに練習を続けた。食事にも気を使い、好物だったチョコレートなどの甘いものも、あの敗戦以来一度も口にしてはいない。
どれだけ勝利を重ねても、どんな大会で優勝しても、オリンピックでの汚名はオリンピックでしか晴らすことが出来なかった。
そのオリンピックが来年だった。すでに選考は始まっている。来月には選考に影響する大会も控えていた。その大会には工藤選手も出場する。
それなのに……それなのにだ。
世界が終わる。オリンピックの前に終わってしまう。俺は負け犬のまま、この人生を終える。汚名を返上するチャンスは訪れなかった。
「ふざけんなよ……」
そんなの許されない……そんなことがあっていいわけがない……
心の中で様々な感情が入り乱れていた。後悔、怒り、悲しみ、絶望……様々な負の感情が溢れ出してくる。その溢れる思いを吐き出そうと、叫び声を上げようとしたそのとき、電話が鳴った。携帯ではなく、家の電話だ。
家の電話なので誰からかはわからないが、俺はつい反射的に電話をとってしまった。
「俺だ……」
それはよく知った声だった。
「新手の詐欺かなんかですか? どうしたんです? 工藤さん。こんなときに」
工藤選手だった。
「はっ、残念だったな。オリンピックどころじゃなくなっちまったな」
少し笑いながら、工藤選手はそう言った。
「ですね……これ、ドッキリとかじゃ、ないんですよね?」
「ああ……もうすぐ世界が滅びるんだってよ。本当……ありえねえよな」
「俺は……俺なんか、大口叩いてたのに、オリンピックで一回戦負けの、負け犬野郎のままエンディングですよ……」
「そうだな……まぁ、でも、俺が知っているさ。お前は誰よりも強いって……」
そう言ってまた少し笑った後、ため息まじりに工藤選手は言葉を続けた。
「俺はな、オリンピックで三回も金メダルを取ってるんだぜ。それなのに、お前には一度も勝てなかった。オリンピック前に二回、後に二回。四戦とも一本負けだ。お前はいっつも、自分は誰よりも練習してるって言うけど、お前はまだ二十一だろ。俺は三十五だ。総合的な練習量じゃあ、圧倒的に俺のほうが多いからな。その俺が十八だったときのお前にすら、手も足も出なかった。どんだけくやしかったかわかってんのか? 俺はもともと前回のオリンピックの後、引退するつもりだったんだ。それなのにまだ続けてるのはな、一度だけでもお前に勝ちたかったからだ。あーー! くっそ! 来月の試合楽しみだったのにな。対お前用の必殺技を用意してたんだぞ。そうだな……お前、ちょっと今から一試合やらねえか? 今どこにいるよ?」
「奈良です」
「くそっ……遠いな。無理か。あー! ちくしょう。もし、あれだぞ。天国みたいなのがあったらそこで勝負すんぞ。勝ち逃げなんて絶対に許さねえからな」
「はは……わかりました。やりましょう。天国で天使が審判なら、あんなヘボい判定しないでしょうしね」
「おい……ちょっと待てよ。あれじゃねえか? 天国だったら俺、全盛期の状態でやれるんじゃねえ?」
「それでも返り討ちにしてやりますよ」
なんだろう……少し楽しくなってきた。
工藤選手と話していたら、負の感情は全部どっかに行ってしまった。やっぱり工藤選手はかっこいい。俺と違って他人の目なんて気にしていなかった。きっと、ただ自分のやりたいようにやっているだけなんだ。
そうだ。俺だって汚名なんて気にする必要なんてない。俺は強い。俺は柔道が大好きだ。
試合がしたくてたまらなくなってきた。
もういい。はやく世界なんて滅びてしまえ。そして俺は天国で工藤選手と戦うんだ。必殺技とやらがどんな技なのか楽しみでしかたがない。工藤選手が必殺技だというくらいだから凄い技に違いない。それでも俺は負けない。絶対に勝つ。
なんせ俺は最強だからな。
誰がなんと言おうと俺はそう信じている。
それで、それだけで充分だったんだ。
42
お気に入りに追加
46
あなたにおすすめの小説
元剣聖のスケルトンが追放された最弱美少女テイマーのテイムモンスターになって成り上がる
ゆる弥
ファンタジー
転生した体はなんと骨だった。
モンスターに転生してしまった俺は、たまたま助けたテイマーにテイムされる。
実は前世が剣聖の俺。
剣を持てば最強だ。
最弱テイマーにテイムされた最強のスケルトンとの成り上がり物語。

異世界転生ファミリー
くろねこ教授
ファンタジー
辺境のとある家族。その一家には秘密があった?!
辺境の村に住む何の変哲もないマーティン一家。
アリス・マーティンは美人で料理が旨い主婦。
アーサーは元腕利きの冒険者、村の自警団のリーダー格で頼れる男。
長男のナイトはクールで賢い美少年。
ソフィアは産まれて一年の赤ん坊。
何の不思議もない家族と思われたが……
彼等には実は他人に知られる訳にはいかない秘密があったのだ。

ユーヤのお気楽異世界転移
暇野無学
ファンタジー
死因は神様の当て逃げです! 地震による事故で死亡したのだが、原因は神社の扁額が当たっての即死。問題の神様は気まずさから俺を輪廻の輪から外し、異世界の神に俺をゆだねた。異世界への移住を渋る俺に、神様特典付きで異世界へ招待されたが・・・ この神様が超適当な健忘症タイプときた。
異世界召喚に条件を付けたのに、女神様に呼ばれた
りゅう
ファンタジー
異世界召喚。サラリーマンだって、そんな空想をする。
いや、さすがに大人なので空想する内容も大人だ。少年の心が残っていても、現実社会でもまれた人間はまた別の空想をするのだ。
その日の神岡龍二も、日々の生活から離れ異世界を想像して遊んでいるだけのハズだった。そこには何の問題もないハズだった。だが、そんなお気楽な日々は、この日が最後となってしまった。

【書籍化決定】俗世から離れてのんびり暮らしていたおっさんなのに、俺が書の守護者って何かの間違いじゃないですか?
歩く魚
ファンタジー
幼い頃に迫害され、一人孤独に山で暮らすようになったジオ・プライム。
それから数十年が経ち、気づけば38歳。
のんびりとした生活はこの上ない幸せで満たされていた。
しかしーー
「も、もう一度聞いて良いですか? ジオ・プライムさん、あなたはこの死の山に二十五年間も住んでいるんですか?」
突然の来訪者によると、この山は人間が住める山ではなく、彼は世間では「書の守護者」と呼ばれ都市伝説のような存在になっていた。
これは、自分のことを弱いと勘違いしているダジャレ好きのおっさんが、人々を導き、温かさを思い出す物語。
※書籍化のため更新をストップします。

天ぷらで行く!
浜柔
ファンタジー
天ぷら屋を志しているあたし――油上千佳《あぶらあげ ちか》、24歳――は異世界に連れて来られた。
元凶たる女神には邪神の復活を阻止するように言われたけど、あたしにそんな義理なんて無い。
元の世界には戻れないなら、この世界で天ぷら屋を目指すしかないじゃないか。
それ以前に一文無しだから目先の生活をどうにかしなきゃ。
※本作は以前掲載していた作品のタイトルを替え、一人称の表現を少し変更し、少し加筆したリライト作です。
ストーリーは基本的に同じですが、細かい部分で変更があります。
間違い召喚! 追い出されたけど上位互換スキルでらくらく生活
カムイイムカ(神威異夢華)
ファンタジー
僕は20歳独身、名は小日向 連(こひなた れん)うだつの上がらないダメ男だ
ひょんなことから異世界に召喚されてしまいました。
間違いで召喚された為にステータスは最初見えない状態だったけどネットのネタバレ防止のように背景をぼかせば見えるようになりました。
多分不具合だとおもう。
召喚した女と王様っぽいのは何も持っていないと言って僕をポイ捨て、なんて世界だ。それも元の世界には戻せないらしい、というか戻さないみたいだ。
そんな僕はこの世界で苦労すると思ったら大間違い、王シリーズのスキルでウハウハ、製作で人助け生活していきます
◇
四巻が販売されました!
今日から四巻の範囲がレンタルとなります
書籍化に伴い一部ウェブ版と違う箇所がございます
追加場面もあります
よろしくお願いします!
一応191話で終わりとなります
最後まで見ていただきありがとうございました
コミカライズもスタートしています
毎月最初の金曜日に更新です
お楽しみください!

凡人がおまけ召喚されてしまった件
根鳥 泰造
ファンタジー
勇者召喚に巻き込まれて、異世界にきてしまった祐介。最初は勇者の様に大切に扱われていたが、ごく普通の才能しかないので、冷遇されるようになり、ついには王宮から追い出される。
仕方なく冒険者登録することにしたが、この世界では希少なヒーラー適正を持っていた。一年掛けて治癒魔法を習得し、治癒剣士となると、引く手あまたに。しかも、彼は『強欲』という大罪スキルを持っていて、倒した敵のスキルを自分のものにできるのだ。
それらのお蔭で、才能は凡人でも、数多のスキルで能力を補い、熟練度は飛びぬけ、高難度クエストも熟せる有名冒険者となる。そして、裏では気配消去や不可視化スキルを活かして、暗殺という裏の仕事も始めた。
異世界に来て八年後、その暗殺依頼で、召喚勇者の暗殺を受けたのだが、それは祐介を捕まえるための罠だった。祐介が暗殺者になっていると知った勇者が、改心させよう企てたもので、その後は勇者一行に加わり、魔王討伐の旅に同行することに。
最初は脅され渋々同行していた祐介も、勇者や仲間の思いをしり、どんどん勇者が好きになり、勇者から告白までされる。
だが、魔王を討伐を成し遂げるも、魔王戦で勇者は祐介を庇い、障害者になる。
祐介は、勇者の嘘で、病院を作り、医師の道を歩みだすのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる