ドリンクカフェと僕

桃青

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7.

それぞれの戸惑い

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 太一が実家から帰ってきた。僕もクリスマスの嵐のような慌ただしさが終わり、一息ついたところで、世間が楽しげに年末の仕事に追われ、正月の準備をする中、彼と連絡を取り合って、ドリンクcafeで落ち合うことにした。太一に言われた通りに閉店時刻に店を訪れ、コンコンと扉をノックすると、中から太一がのっそりと顔を覗かせて言った。
「入れよ。」
「じゃ、遠慮なく。」
 そう言ってから誰も客のいない店内に足を踏み入れ、この店が持つ独特の雰囲気を懐かしみながら、カウンターの側にあるスツールに腰を落ち着けた。
「ご注文は?」
「コーヒー。おまえの淹れたうまいコーヒーが飲みたい。」
「かしこまりました。」
 そう言葉を交し合うと、僕らは自然に笑みを浮かべた。ドリップの準備を丁寧に整える太一の手元を見ながら、僕は言った。
「この店、続けるんだな。」
「ああ。長く休んでしまったから、稼ぎを取り戻すために、年末年始も休みなく働くつもり。」
「それ、いい案かもよ。ここの近所に割と有名な神社があるじゃない。毎年初詣でかなり賑わうから、その人たちが店に流れてきて、きっとお客さんになってくれると思うよ。」
「それはありがたい。開運ドリンクなんて作ったら、飛ぶように売れていきそうだな。」
「ははは、外に『開運ドリンクやってます』って、ちゃんと張り紙を貼らないと。」
 太一はそっと僕の目の前にコーヒーとミルクポットを置き、食器乾燥機に山積みになっている器をもとの場所へ戻し始めた。僕は少しミルクを落としたコーヒーに口をつけてから、思い切って訊ねた。
「お母さんはどうだった?」
 太一は無表情で淡々と言った。
「うん。とりあえず入院させてきた。」
「そんなに悪かったの?」
「いや、悪いっていうより、とにかく手に負えないんだよ。それで父が完全に参っちゃっていたし……。あとお医者さんが言うには、この症状に関しては、入院が早ければ早いほど効果があるっていうんだ。だから俺が父を説得して、話を決めてきた。」
「入院はどれくらいかかりそうなの?」
「短くて一か月、長いときは二か月を超えるかもしれない。」
「そんなに。」
「正直に言うと、今回の帰省で俺もかなり参ったよ。」
 そう言ってから太一はだんまりを決め込んだので、僕もその静けさにのまれながら、黙ってコーヒーを啜っていると、やがて太一はぽつぽつと語り出した。
「あの、……父がさ。」
「うん。」
「俺がずっと母の側にいれば、こんなことにならなかったのに、と言って……。」
「うん。」
「随分俺を責めるんだ。」
「……。」
「俺には俺の人生がある。だから俺は俺の道を行く。そうはっきり父に伝えてきたんだが、そんな俺を父は悪魔か極悪人のように扱う。親を捨てるなんて人間じゃない、と言った意味のことを、言葉を変えては何回もほざいていた。」
「でも太一は悪くないよ。」
 僕はいきなり、はっきりそう言うと、太一は目を見開いて僕を見た。僕はその目を見据え、さらに言った。
「おまえはおまえの人生を歩くべきだ。それを第一に考えることは、何も間違っていない。」
「……。」
 立ち上るコーヒーの湯気が揺れていた。太一は俯いたまま何かに耐えているように見えた。僕はその姿を見ながら、密やかな怒りを覚えていた。それは誰に対するものではない、行き場のない怒りだ。太一にしっかりしろよ、と言いたい気もしたし、彼の両親にふざけるな、と言いたい気もした。でもこれは太一の問題なのだから、彼が自分で答えを出さなくてはならないし、僕の出る幕じゃない。淹れたコーヒーのおいしさが、今辛うじて彼のプライドを支えている気がした。太一はふと顔を上げると、黒い瞳で僕を見つめて言った。
「俺は罪人かな?」
「人間は誰だってつみびとさ。植物や動物を殺傷してはバクバク食べて、どんなに良心的な人でさえ、弱者を押しのけながら、自分を一番に思って生きている。でも人とはそういう生き物なのであって、みんなそれを前提にして生きているんだ。」
「俺は親を愛していないわけじゃない。でもこれ以上面倒ごとに巻き込まれるのはごめんだと、心の底から思っている。……利己的だよね。」
「人間らしい考えなんじゃないの? そうだ。」
「何?」
「奈々と連絡は取っているか?」
「ああ、……うん。メールのやり取りならしている。」
「気分転換に二人でどこかへ出掛けたら?」
「二人で? おまえは来ないの?」
「うん。まあ、何が言いたいのかというと、奈々とデートでもしてみたらどうだとお勧めしているわけだ。」
「奈々と、デート? あいつと恋人同士になれっていうのか。」
「いや、そこまでは言っていない。けれどあいつとの繋がりが、きっとおまえをいい方へ導いてくれるよ。どこかへ出掛けたら気も晴れるしさ。」
「奈々か。あいつは根が楽天的だもんな。確かに心を明るくするには、ちょうどいい相手かも。」
 そう言うと太一はふっと笑みを浮かべた。僕はさらに言った。
「太一と奈々の間に僕が加わったところを想像してみろ。明るい空気が掻き消えて、また哲学的な論議が始まってしまう。それじゃあちっとも気が晴れないでしょ。」
「特に俺が暗いときにはね。」
「その通り。で、おまえの暗さを救えるのは、奈々のポジティブパワーしかないだろうと、僕は思ったわけだ。」
 そう言って僕はコーヒーを一息に飲み干した。太一は心がどこかへ行ってしまったようなぼんやりした顔をしていたが、自分用に手早く焼酎の水割りを作ると、目をきらりと光らせ、訊ねてきた。
「ね、奈々をどこに連れていったら喜んでくれるかな。」
「ようやく話が明るくなってきたな。これからの話のテーマはそれにしよう。一旦暗い話はやめだ、やめ。」
 それから僕と太一は、夜が深く沈んでいく最中、浮かび上がった浮島のように、どこまでも闇を避けるように漂いながら、たわいのないやりとりを続けたのだった。

 奈々から電話が掛かってきたのは、太一と会ってから数日後のことだった。僕が自宅の机に向かい、ない知恵を振り絞りながら、小説のネタについて神が天啓を与えてくれますようにと祈っているところへ、無遠慮に発信音が鳴り響いた電話に出ると、奈々の弾んだ声がわんわん耳に響いた。
「光、元気?」
「奈々か。まあ、元気だけど。」
「ね、太一が、……太一がね、お出かけに誘ってくれたの!」
「ああそう、よかったね。」
「それでね、どこへ行くの? って聞いたらね。」
「うん。」
「水族館だって!」
「そう。いいんじゃないの。」
 僕は次第に鼻くそでもほじりたい気分になってきたが、奈々はお構いなく、ハイテンションで喋り続けた。
「太一、どうしたんだろう。急に私を誘ってくれるなんて。私のことが好きなのかな? 光はどう思う?」
「分からないよ、そんなこと。僕は太一じゃないんだし。」
「光は太一の親友だから、何か知っているかと思ったの! でも水族館って…、ロマンティックよね。キラキラした小魚やクラゲ、青魚や可愛いラッコを見たりするのよ、二人で!」
「うん。」
「私、光には太一が好きだって言ったじゃない。」
「うん。」
「でも別に恋人になりたいっていう、切実な思いがあったわけではないの。確かになってみたいなとは思ってた。でも気持ちがどこかぼんやりとしていたのよね。本気なのかどうか、自分で自分の心がはかりかねるというのか――。」
「ウン。」
「でもこのデートで、自分の本心をはっきりさせることができるかも。これから私がどうしたいのか、分かる気がするの。」
「ふ~ん。」
「光、もしかして適当に聞いてない? 私がこんなに真剣に話しているのに。」
「だってなんだかんだ言われても、僕にできることなんて何もないから、聞き流すしかないでしょう。」
「まあ、そうかもしれないけど。光のさっぱりした性格は、長所であり、時に短所でもあると私は思うわ。」
「そう言われても、僕の性格が変わることはないと思うけれどね。」
 それから奈々は、どういう態度が男の気を引くとか、どういうメイクが男に好かれるとか、モテるコーデは何だとか、女性誌に書かれている山のような情報を、夢中になって僕に披露していたのだが、僕がいつもの奈々でいいんじゃないの? とあっさり結論を出すと、もういいわよ! と切れて、腹を立てて電話を切ってしまった。その時僕の胸ではなぜか、甘酸っぱい思いがじんわりと広がっていったのだった。

 奈々と太一がデートか、と僕は心の中で呟いた。二人が仲良くなるのはいいことだが、僕の居場所がなくなってしまう気がして、ほんのり寂しい思いがした。太一は頭が良く、奈々はふわふわしているように見えるが、実はしっかりとした女の子だ。二人でタッグを組めば、どんな人生の問題だって乗り越えていける気がした。その一方で僕ときたら……。小説を書くこともできないくせに、小説家になりたいと夢のようなことをほざいて、人生を無為に過ごしている。こんな日々に意味はあるのだろうか。もっと他にやるべきことがあるんじゃないのか、人間として大事なことが。
 僕は自分が社会にとって意味のある何かになりたかった。でも意味のある何かなんて定義自体が、そもそも存在しないことで、すべては幻のように消えていく定めなのかも。
「うたかたの人生か。」
 僕はそう呟きながら、窓の外でぽっかりと浮かんでいる上弦の月を、哀しみの気持ちで眺めていた。
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