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魔法の中のクリスマス
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そしてクリスマスが間近に迫ってきたある日、僕はどうにか仕事を切りのいいところまで片付けて、気分転換も兼ねてドリンクcafeに行ってみることにした。色々な店に鮮やかに飾られたLEDライトの原色の輝きを見ながら、どうもそのノリについていけない自分に苦笑いを漏らし、人混みに紛れながら歩いた。行き交う恋人たちは楽しそうで、若者たちは表面的には明るく、この世は何の問題もないように見える。でも実際は、未来はクエスチョンマークで覆いつくされているのだ。僕の将来も、世界の行く末も――。
僕はトランス状態のまま、気が付くとドリンクcafeに着いていた。そしてそこで意外な人物を発見した。
「店はやっていないよ。」
僕はあかりの背中に声をかけた。あかりは大きな目をくりくりさせながら、ゆっくりと僕の方へ振り返り、優しげな笑みを浮かべた。僕が彼女のすぐ側まで行くと、不思議そうに話しかけてきた。
「このお店、ここのところずっとやっていないの。」
「店長兼オーナーに、少しごたごたがあってね、今は休業中なんだ。しばらくしたら再開すると思うけれど。」
「そう、よかった。私このお店を、とても気に入っていたの。」
「もし店長がその言葉を聞いたら、大泣きして喜ぶと思うよ。」
そう言ってから、改めてあかりの姿をまじまじと眺めた。彼女は深緑のショートコートに、白くてごわごわしたマフラーを首にぐるぐると巻き、赤いチェックの短いスカートを着て、ブラウンの長いブーツを履いていた。僕は少し考えてから、思いついたことを言った。
「今日の君の格好、まるでクリスマスツリーみたいだね。」
「それをイメージしたの。」
「ツリーを?」
「そう。もうすぐクリスマス、だから。」
「うんと……、確かにそうなんだけれども。」
「光、クリスマスの予定は?」
「家のパン屋の手伝いで大忙しだよ。」
「でもできたらクリスマスらしいこともしてみたいでしょう?」
「まあね。でも無理だし。」
「そんなことはない。私と一緒ならどこへでも行けるわ。」
「あの扉を使って? もしかしてこれからどこかへ行くつもり?」
あかりは僕の腕をさっと掴むと、ぐいぐいとドリンクcafeの入り口の扉の前へ連れていった。かといってその扉が開くはずがない。でもあかりは少し使える魔法とやらを使った。ドアノブに手をかけ、扉を大きく開け放ったのだ。
… … …
「光。……光。目を開けて。」
「……う、ううん? うわあ。」
僕はあかりに促されて、思わず閉じていた目を開けると、驚きとともに歓声を上げた。行き交う大勢の人、人、人。そのほとんどが欧米人だ。そして広い道の脇にはこれでもかと、様々な出店が並んでいた。僕は挙動不審になりながら言った。
「ここはどこ? それにこのお祭りみたいなものは何?」
「ここは東欧のある国。これからクリスマスカウントダウンが始まるところなのよ。」
「……。今クリスマスカウントダウンって言った? まだイブにもなっていないのに?」
「前に言ったでしょう、扉の向こうは完全なる自由の世界だって。ここではもう、クリスマス目前よ。」
「う~ん、頭が混乱してきそう。あと、僕ヨーロッパに来たのは生まれて初めてだし、東洋人なんて見当たらないからさ、自然と緊張してきちゃった。」
「みんな人間同士なんだから、何とか分かり合えるわよ。恐れる必要はないわ。」
「とはいっても……。」
「とにかくちょっとそこら辺をぶらついてみましょうよ。」
そう言ってあかりはためらいも見せず、スタスタと暖かい色の明かりがともる出店の方へ歩いていくので、僕も慌ててその後を追うことになった。
立ち並ぶ店では、何でも売っていたと言っても過言ではない。食べ物や飲み物、本やアンティーク、アクセサリーや雑貨に花など、下手な日本のショッピングモールよりも品揃えがいいくらいだ。しかも売られている物がどれも素敵だった。どこかノーブルなのに、それでいて可愛げがあるものばかりだ。僕はぼそっと呟いた。
「これを見たら、奈々が泣いて喜ぶな。」
「奈々? それって光の彼女?」
「いや、女友達なんだけれどね、とにかくこんな風な可愛いものが大好きなの。」
「そう。それなら、奈々さんに何か買ってあげたら?」
「そんなこと言ったって、言葉は通じないし、お金もないよ。」
「心配ないわ。私に任せて。」
「また少し使える魔法を使うのか?」
「ええ。大丈夫、別に悪いことはしていないから。」
「いや、君を疑っているわけじゃあないんだけれど……。なら、あかりだったらどんな物が欲しい? 女子の視点が知りたいんだ。」
「そうね、私の好みでいいのだったら……。」
そう言ってあかりは、出店に首を突っ込みながら、先へ先へと人を掻き分けて進んでいった。彼女の求めるものは何だろうと思いながら後についていくと、古本や雑誌を屋台から溢れだしたまま山積みにして売っている、雰囲気のあるお店の前で、ピタリと足をとめた。そして店番をやっている、赤い帽子を取ったサンタクロースのようなおじいさんと会話を交わしながら、僕に向かって手招きをする。僕はいそいそとあかりの元へ近づいていくと、おじいさんは僕を見、理解不能の言葉で何かをまくしたて、豪快にアッハッハッハと笑った。困惑して愛想笑いを浮かべる僕を尻目に、あかりは熱心に本を一冊ずつ手に取り、パラパラと中身を捲りながら僕に話しかけた。
「光、ここの本屋って、中世の古本も扱っているんだわ。」
「そんなものを買ってどうするんだ。第一に読めないでしょ。」
「これを見て。」
そう言ってあかりは一冊の雑誌をばさりと、僕の目の前で広げてみせた。本を覗き込んだ僕は、心の中でほう、と思った。雑誌のページは文章とイラストでおしゃれに構成されていて、乙女チックなセンスをびんびん感じ、これなら言葉が分からなくても、女の子だったら十分に楽しめそうだ。
「なかなかキュートじゃないか。」
自然にそんな言葉が出た僕に対し、おじいさんは言葉の壁を無視してワーワーと話しかけ、どうやら説明をしてくれているらしい。意味も分からないまま、ウンウンと必死に相槌を打っていると、あかりはおじいさんに話しかけてコインをいくつか渡し、その古雑誌を手にした。すると柔らかくて何ともいえない笑みを浮かべて、
「メリークリスマス!」
とやっと僕にも分かる言葉を大声で発し、去り際に僕たちに向かって大きく手を振ってくれた。僕らも手をパタパタと振りながら店を出て、再び人混みの中へ戻っていこうとしたとき、あかりはその本をすっと僕に手渡して、
「クリスマスプレゼントよ。」
と囁いて笑顔を見せた。その時、大人になってからずっと忘れていた、子供のころよく感じた、どこか古臭くて暖かい感情が胸の中に流れ込んできて、僕は、
(幸せだ。)
と心から思った。そしてあかりを見つめ、言った。
「ありがとう。」
すると彼女は水晶のように澄んだ目で、じっと僕を見つめ返した。
それから僕らはもっと混み合った群衆の中を、あかりの導きに従いながら中へ中へと進んでいった。その頃になると僕も、欧米人がどうのといったことがほぼ気にならなくなっていた。彼らは僕を人間として扱うし、それなら僕の方もそう扱えばいいのだということに気付いたのだ。この国の人たちは心から幸福そうにこの特別な時間を楽しんでいて、東洋人がどうのなんて、ほとんど誰も気にしていないことも段々分かってきた。そして気付いた時にはもう、僕もこの幸せな空気に酔いしれていた。あかりは僕の手を引いて、ピョンピョンと飛び跳ねながら言った。
「光には、前方にある舞台が見える?」
「え、舞台?」
「今、オペラをやっているはずなの。キリストの生誕を描いたミュージカルみたいなものよ。」
「そんなものが……。あ、声は聞こえないけれど、舞台は少し見えるよ。衣装を着た大人と子供が何かをやっているみたい。」
「それよ! ぜひ見ましょうよ。そのためにはもっと前に行かないと……。」
「人でぎっしり詰まっているけれど、行けるかな。」
「行ってみせるわ。その劇を、私は光に見せたいんだから。」
そう言うとあかりは、理解できない言葉を叫びながらさらに前方へ進んでいき、こっちへ来いと何度も振り返っては手招きをする。たぶんこの国の言葉で、どいてどいてと言っているのだろうと思いながらあかりの後を追い、僕らはどうにか舞台が中央に見えるわりといい場所へ陣取ることができた。
壇上では、頭に光輪をつけて鮮やかなロープを着た子供たちが点々と立ち、中央に数人の地味な衣装を着た大人たちがたむろして、深刻な顔をしていた。僕らの周りでは、温かい空気を持つ家族連れやカップル、老夫婦や友達同士の若者でいっぱいで、生真面目な舞台の様子とは対照的に、茶目っ気を交えつつ楽しげにお喋りをしながら観劇をしているのだった。
「子供たちがキリストを見守るために降臨した天使の役で、中央にいる大人たちが、聖母マリアとその出産を見守る人たちを演じているの。」
あかりは素早く僕の耳元で解説を加えた。僕は頷きながら劇に見入っていると、やがて天使役の子供たちが、本当に天使かとまがうほどの澄み切った歌声で、歌を歌い始めた。そのあまりの美しさにボーッとなってしまった僕に、あかりはさらに囁いた。
「讃美歌が始まったわ。いよいよこれからキリストが誕生するの。」
いつしか僕の周囲の人たちも、神聖な何かに包まれたみたいに、黙って真剣な眼差しで舞台を見つめ始めた。子供たちだけで始まった賛美歌に、今では大人たちも加わり、迫力のあるハーモニーが生み出されていた。僕はその時、人々の心、いや、世界の人々の心が一つになった幻を見た気がした。たとえひと時であったとしても、ここにいる人たちはみな楽しく、幸せで、心からの平和を感じていたのではないだろうか。気が付くと舞台では、大人たちの間から白いシンプルな衣装をまとった小さな子供が姿を現して、光り輝いて舞台の中央に立っていた。讃美歌はさらに荘厳さを増し、この劇がいよいよクライマックスを迎えることを感じさせた。
そして次の瞬間。舞台の明かりがすべて消えた。
ドーン。ドドーン。ドドドドーン。
地鳴りのように響いてきた爆発音を聞いて、僕は空を見上げた。そこにはきらめきながら散ってゆく、いくつもの花火の華が咲いていた。人々は歓声を上げ、お互いに抱き合ったり、体を叩きあったりしながら、にぎやかに声を掛け合い始めた。僕は感動してその場で固まっていると、いきなり側にいた若い女性が、
「チャイニーズ?」
と声をかけてきたので、僕は慌てて、
「ノー。アイムジャパニーズ。」
と訂正すると、彼女は軽くきゅっと僕を抱きしめ、
「メリークリスマス!」
と言うと、軽やかにどこかへ去っていった。嬉しさでほんのり赤くなった僕の顔を、あかりがにやにやして見つめているので、わざと不機嫌な表情を装い、むっつりして空を眺めながら、語り出した。
「なあ、あかり。」
「何?」
「世界はこの場所みたいに、幸福に満ちていていいはずなのに、その一方でどうしても幸せになれない人たちがいるんだ。」
「うん。」
「太一は……、あいつは何も悪くないのに、ひとりで、不幸を背負って……。」
「太一?」
「ドリンクcafeの店長だよ。僕の友達でもあるんだけれど、今色々あって。でもあいつは、……あいつには、幸せになってほしい。こんな風にたくさんの温かさに包まれて、本当の幸せを感じてほしいんだ。」
気付いた時には、僕の目から次から次へと涙が零れ出していた。太一の顔を思い出すだけで、いくらだって泣けてきた。何とか止めようと思っても、涙は一向に止まらない。あかりはそんな僕の肩に優しく手をのせ、何も言わず、ただ僕の側にいてくれた。
… … …
僕とあかりはドアをくぐり、再びドリンクcafeの扉の前へ立っていた。静かでどこか落ち着いた日本の空気……。さっきいた場所の華々しさに比べると、町のネオンやクリスマスを意識した大胆な電飾さえ、しんみりと見えるのが不思議だった。
「あかり、ありがとう。」
「何が?」
「素敵なクリスマスを体験させてくれて。僕は今、幸せな夢の中を漂っているみたいだ。」
「私もそうよ。そうそう光、これを忘れないでね。」
そう言ってあかりは、扉の向こうで手に入れた古雑誌を僕に手渡した。僕はそれを丁寧に受け取ってから、彼女に訊ねた。
「君にちょっと聞いてみたかったんだけどさ。」
「何でしょう。」
「僕が、……僕が太一にできることって、何かあるかな。」
「悩み多き、ドリンクcafeのオーナーね? そうね、詳しい事情は知らないけれど、光が普通でいること、平常心を保ってその人と接することが、きっと一番大事じゃないかしら。」
「エ、それだけでいいの?」
「彼にとっては光がぶれないでいてくれることが、何よりも救いになると思うの。それに平常心でい続けることは、決して簡単なことではなく、とても難しいことよ。」
「……うん、分かった。いいことを聞いたよ。あかりって凄いね。魔法も使えて人生相談もできる人なんて、そういるもんじゃない。」
そう言うと僕とあかりはしばらく真剣に見つめ合った。あかりの綺麗な瞳は、その奥を知ろうとすればするほど、すべてを切り離していくような容赦ない冷たさがある。この人は完全に独立した人なのだと感じると共に、いつか彼女を友達と呼べる日が来るのだろうかという思いが、寂しさと共に僕の心をよぎっていった。あかりは僕から目を逸らし、紺青の空を見つめ、言った。
「今日は私、これで帰るわね。」
「また、ドリンクcafeに来てよ。君ともっと色々な話をしてみたいんだ。」
「ええ、そうする。私も光に会いたいし、おいしい飲み物も飲みたいから。それじゃあね。」
あかりはふんわりと笑みを浮かべて、軽やかにそう言うと、くるりと背を向けて、スタスタと足早に道を歩いていく。小さなクリスマスツリーがとことこと歩いているような後姿が何とも可愛くて、思わず吹き出しながら僕は、小さく囁いた。
「さよなら。」
そして僕も駅に向かって歩き始め、心の中で、
(もしかしたらこれは、生まれて以来の僕にとって最高のクリスマスだったかもしれない。)
と深い感動に満たされながら思ったのである。
僕はトランス状態のまま、気が付くとドリンクcafeに着いていた。そしてそこで意外な人物を発見した。
「店はやっていないよ。」
僕はあかりの背中に声をかけた。あかりは大きな目をくりくりさせながら、ゆっくりと僕の方へ振り返り、優しげな笑みを浮かべた。僕が彼女のすぐ側まで行くと、不思議そうに話しかけてきた。
「このお店、ここのところずっとやっていないの。」
「店長兼オーナーに、少しごたごたがあってね、今は休業中なんだ。しばらくしたら再開すると思うけれど。」
「そう、よかった。私このお店を、とても気に入っていたの。」
「もし店長がその言葉を聞いたら、大泣きして喜ぶと思うよ。」
そう言ってから、改めてあかりの姿をまじまじと眺めた。彼女は深緑のショートコートに、白くてごわごわしたマフラーを首にぐるぐると巻き、赤いチェックの短いスカートを着て、ブラウンの長いブーツを履いていた。僕は少し考えてから、思いついたことを言った。
「今日の君の格好、まるでクリスマスツリーみたいだね。」
「それをイメージしたの。」
「ツリーを?」
「そう。もうすぐクリスマス、だから。」
「うんと……、確かにそうなんだけれども。」
「光、クリスマスの予定は?」
「家のパン屋の手伝いで大忙しだよ。」
「でもできたらクリスマスらしいこともしてみたいでしょう?」
「まあね。でも無理だし。」
「そんなことはない。私と一緒ならどこへでも行けるわ。」
「あの扉を使って? もしかしてこれからどこかへ行くつもり?」
あかりは僕の腕をさっと掴むと、ぐいぐいとドリンクcafeの入り口の扉の前へ連れていった。かといってその扉が開くはずがない。でもあかりは少し使える魔法とやらを使った。ドアノブに手をかけ、扉を大きく開け放ったのだ。
… … …
「光。……光。目を開けて。」
「……う、ううん? うわあ。」
僕はあかりに促されて、思わず閉じていた目を開けると、驚きとともに歓声を上げた。行き交う大勢の人、人、人。そのほとんどが欧米人だ。そして広い道の脇にはこれでもかと、様々な出店が並んでいた。僕は挙動不審になりながら言った。
「ここはどこ? それにこのお祭りみたいなものは何?」
「ここは東欧のある国。これからクリスマスカウントダウンが始まるところなのよ。」
「……。今クリスマスカウントダウンって言った? まだイブにもなっていないのに?」
「前に言ったでしょう、扉の向こうは完全なる自由の世界だって。ここではもう、クリスマス目前よ。」
「う~ん、頭が混乱してきそう。あと、僕ヨーロッパに来たのは生まれて初めてだし、東洋人なんて見当たらないからさ、自然と緊張してきちゃった。」
「みんな人間同士なんだから、何とか分かり合えるわよ。恐れる必要はないわ。」
「とはいっても……。」
「とにかくちょっとそこら辺をぶらついてみましょうよ。」
そう言ってあかりはためらいも見せず、スタスタと暖かい色の明かりがともる出店の方へ歩いていくので、僕も慌ててその後を追うことになった。
立ち並ぶ店では、何でも売っていたと言っても過言ではない。食べ物や飲み物、本やアンティーク、アクセサリーや雑貨に花など、下手な日本のショッピングモールよりも品揃えがいいくらいだ。しかも売られている物がどれも素敵だった。どこかノーブルなのに、それでいて可愛げがあるものばかりだ。僕はぼそっと呟いた。
「これを見たら、奈々が泣いて喜ぶな。」
「奈々? それって光の彼女?」
「いや、女友達なんだけれどね、とにかくこんな風な可愛いものが大好きなの。」
「そう。それなら、奈々さんに何か買ってあげたら?」
「そんなこと言ったって、言葉は通じないし、お金もないよ。」
「心配ないわ。私に任せて。」
「また少し使える魔法を使うのか?」
「ええ。大丈夫、別に悪いことはしていないから。」
「いや、君を疑っているわけじゃあないんだけれど……。なら、あかりだったらどんな物が欲しい? 女子の視点が知りたいんだ。」
「そうね、私の好みでいいのだったら……。」
そう言ってあかりは、出店に首を突っ込みながら、先へ先へと人を掻き分けて進んでいった。彼女の求めるものは何だろうと思いながら後についていくと、古本や雑誌を屋台から溢れだしたまま山積みにして売っている、雰囲気のあるお店の前で、ピタリと足をとめた。そして店番をやっている、赤い帽子を取ったサンタクロースのようなおじいさんと会話を交わしながら、僕に向かって手招きをする。僕はいそいそとあかりの元へ近づいていくと、おじいさんは僕を見、理解不能の言葉で何かをまくしたて、豪快にアッハッハッハと笑った。困惑して愛想笑いを浮かべる僕を尻目に、あかりは熱心に本を一冊ずつ手に取り、パラパラと中身を捲りながら僕に話しかけた。
「光、ここの本屋って、中世の古本も扱っているんだわ。」
「そんなものを買ってどうするんだ。第一に読めないでしょ。」
「これを見て。」
そう言ってあかりは一冊の雑誌をばさりと、僕の目の前で広げてみせた。本を覗き込んだ僕は、心の中でほう、と思った。雑誌のページは文章とイラストでおしゃれに構成されていて、乙女チックなセンスをびんびん感じ、これなら言葉が分からなくても、女の子だったら十分に楽しめそうだ。
「なかなかキュートじゃないか。」
自然にそんな言葉が出た僕に対し、おじいさんは言葉の壁を無視してワーワーと話しかけ、どうやら説明をしてくれているらしい。意味も分からないまま、ウンウンと必死に相槌を打っていると、あかりはおじいさんに話しかけてコインをいくつか渡し、その古雑誌を手にした。すると柔らかくて何ともいえない笑みを浮かべて、
「メリークリスマス!」
とやっと僕にも分かる言葉を大声で発し、去り際に僕たちに向かって大きく手を振ってくれた。僕らも手をパタパタと振りながら店を出て、再び人混みの中へ戻っていこうとしたとき、あかりはその本をすっと僕に手渡して、
「クリスマスプレゼントよ。」
と囁いて笑顔を見せた。その時、大人になってからずっと忘れていた、子供のころよく感じた、どこか古臭くて暖かい感情が胸の中に流れ込んできて、僕は、
(幸せだ。)
と心から思った。そしてあかりを見つめ、言った。
「ありがとう。」
すると彼女は水晶のように澄んだ目で、じっと僕を見つめ返した。
それから僕らはもっと混み合った群衆の中を、あかりの導きに従いながら中へ中へと進んでいった。その頃になると僕も、欧米人がどうのといったことがほぼ気にならなくなっていた。彼らは僕を人間として扱うし、それなら僕の方もそう扱えばいいのだということに気付いたのだ。この国の人たちは心から幸福そうにこの特別な時間を楽しんでいて、東洋人がどうのなんて、ほとんど誰も気にしていないことも段々分かってきた。そして気付いた時にはもう、僕もこの幸せな空気に酔いしれていた。あかりは僕の手を引いて、ピョンピョンと飛び跳ねながら言った。
「光には、前方にある舞台が見える?」
「え、舞台?」
「今、オペラをやっているはずなの。キリストの生誕を描いたミュージカルみたいなものよ。」
「そんなものが……。あ、声は聞こえないけれど、舞台は少し見えるよ。衣装を着た大人と子供が何かをやっているみたい。」
「それよ! ぜひ見ましょうよ。そのためにはもっと前に行かないと……。」
「人でぎっしり詰まっているけれど、行けるかな。」
「行ってみせるわ。その劇を、私は光に見せたいんだから。」
そう言うとあかりは、理解できない言葉を叫びながらさらに前方へ進んでいき、こっちへ来いと何度も振り返っては手招きをする。たぶんこの国の言葉で、どいてどいてと言っているのだろうと思いながらあかりの後を追い、僕らはどうにか舞台が中央に見えるわりといい場所へ陣取ることができた。
壇上では、頭に光輪をつけて鮮やかなロープを着た子供たちが点々と立ち、中央に数人の地味な衣装を着た大人たちがたむろして、深刻な顔をしていた。僕らの周りでは、温かい空気を持つ家族連れやカップル、老夫婦や友達同士の若者でいっぱいで、生真面目な舞台の様子とは対照的に、茶目っ気を交えつつ楽しげにお喋りをしながら観劇をしているのだった。
「子供たちがキリストを見守るために降臨した天使の役で、中央にいる大人たちが、聖母マリアとその出産を見守る人たちを演じているの。」
あかりは素早く僕の耳元で解説を加えた。僕は頷きながら劇に見入っていると、やがて天使役の子供たちが、本当に天使かとまがうほどの澄み切った歌声で、歌を歌い始めた。そのあまりの美しさにボーッとなってしまった僕に、あかりはさらに囁いた。
「讃美歌が始まったわ。いよいよこれからキリストが誕生するの。」
いつしか僕の周囲の人たちも、神聖な何かに包まれたみたいに、黙って真剣な眼差しで舞台を見つめ始めた。子供たちだけで始まった賛美歌に、今では大人たちも加わり、迫力のあるハーモニーが生み出されていた。僕はその時、人々の心、いや、世界の人々の心が一つになった幻を見た気がした。たとえひと時であったとしても、ここにいる人たちはみな楽しく、幸せで、心からの平和を感じていたのではないだろうか。気が付くと舞台では、大人たちの間から白いシンプルな衣装をまとった小さな子供が姿を現して、光り輝いて舞台の中央に立っていた。讃美歌はさらに荘厳さを増し、この劇がいよいよクライマックスを迎えることを感じさせた。
そして次の瞬間。舞台の明かりがすべて消えた。
ドーン。ドドーン。ドドドドーン。
地鳴りのように響いてきた爆発音を聞いて、僕は空を見上げた。そこにはきらめきながら散ってゆく、いくつもの花火の華が咲いていた。人々は歓声を上げ、お互いに抱き合ったり、体を叩きあったりしながら、にぎやかに声を掛け合い始めた。僕は感動してその場で固まっていると、いきなり側にいた若い女性が、
「チャイニーズ?」
と声をかけてきたので、僕は慌てて、
「ノー。アイムジャパニーズ。」
と訂正すると、彼女は軽くきゅっと僕を抱きしめ、
「メリークリスマス!」
と言うと、軽やかにどこかへ去っていった。嬉しさでほんのり赤くなった僕の顔を、あかりがにやにやして見つめているので、わざと不機嫌な表情を装い、むっつりして空を眺めながら、語り出した。
「なあ、あかり。」
「何?」
「世界はこの場所みたいに、幸福に満ちていていいはずなのに、その一方でどうしても幸せになれない人たちがいるんだ。」
「うん。」
「太一は……、あいつは何も悪くないのに、ひとりで、不幸を背負って……。」
「太一?」
「ドリンクcafeの店長だよ。僕の友達でもあるんだけれど、今色々あって。でもあいつは、……あいつには、幸せになってほしい。こんな風にたくさんの温かさに包まれて、本当の幸せを感じてほしいんだ。」
気付いた時には、僕の目から次から次へと涙が零れ出していた。太一の顔を思い出すだけで、いくらだって泣けてきた。何とか止めようと思っても、涙は一向に止まらない。あかりはそんな僕の肩に優しく手をのせ、何も言わず、ただ僕の側にいてくれた。
… … …
僕とあかりはドアをくぐり、再びドリンクcafeの扉の前へ立っていた。静かでどこか落ち着いた日本の空気……。さっきいた場所の華々しさに比べると、町のネオンやクリスマスを意識した大胆な電飾さえ、しんみりと見えるのが不思議だった。
「あかり、ありがとう。」
「何が?」
「素敵なクリスマスを体験させてくれて。僕は今、幸せな夢の中を漂っているみたいだ。」
「私もそうよ。そうそう光、これを忘れないでね。」
そう言ってあかりは、扉の向こうで手に入れた古雑誌を僕に手渡した。僕はそれを丁寧に受け取ってから、彼女に訊ねた。
「君にちょっと聞いてみたかったんだけどさ。」
「何でしょう。」
「僕が、……僕が太一にできることって、何かあるかな。」
「悩み多き、ドリンクcafeのオーナーね? そうね、詳しい事情は知らないけれど、光が普通でいること、平常心を保ってその人と接することが、きっと一番大事じゃないかしら。」
「エ、それだけでいいの?」
「彼にとっては光がぶれないでいてくれることが、何よりも救いになると思うの。それに平常心でい続けることは、決して簡単なことではなく、とても難しいことよ。」
「……うん、分かった。いいことを聞いたよ。あかりって凄いね。魔法も使えて人生相談もできる人なんて、そういるもんじゃない。」
そう言うと僕とあかりはしばらく真剣に見つめ合った。あかりの綺麗な瞳は、その奥を知ろうとすればするほど、すべてを切り離していくような容赦ない冷たさがある。この人は完全に独立した人なのだと感じると共に、いつか彼女を友達と呼べる日が来るのだろうかという思いが、寂しさと共に僕の心をよぎっていった。あかりは僕から目を逸らし、紺青の空を見つめ、言った。
「今日は私、これで帰るわね。」
「また、ドリンクcafeに来てよ。君ともっと色々な話をしてみたいんだ。」
「ええ、そうする。私も光に会いたいし、おいしい飲み物も飲みたいから。それじゃあね。」
あかりはふんわりと笑みを浮かべて、軽やかにそう言うと、くるりと背を向けて、スタスタと足早に道を歩いていく。小さなクリスマスツリーがとことこと歩いているような後姿が何とも可愛くて、思わず吹き出しながら僕は、小さく囁いた。
「さよなら。」
そして僕も駅に向かって歩き始め、心の中で、
(もしかしたらこれは、生まれて以来の僕にとって最高のクリスマスだったかもしれない。)
と深い感動に満たされながら思ったのである。
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