ドリンクカフェと僕

桃青

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5.

険しい現実

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 辿り着いたドリンクcafeは、営業時間内なのに、「closed」の札が無造作に扉にぶら下げてあった。僕と奈々はガラス窓に顔を押し付け、なんとか中の様子を知ろうとしたが、店内は陰気に暗くて、何も見えない。
「あいつ、こんなに早く店を閉めて、どうしたんだろう?」
「そうよね。とりあえず扉をノックしてみましょう。」
 僕と奈々はそう言い合うと、奈々がこん、こんと、かなり強めにドアを叩いて、しばらく様子を窺っていると、キイイイイイイ、とドアがゆっくりと開いていき、中から疲れた感じの太一が顔を覗かせた。
「なんだ、おまえらか。」
 そう言った太一は、暗い瞳で僕らを眺めた。
「おまえ、どうしちゃったの? 何をそんなに、落ち込んでいるんだ。」
「ああ、やっぱり今の俺って、そんな風に見える?」
「見えるよ。第一店が閉まっているのだって、おかしいしさ。」
 太一の豹変ぶりに驚きながら僕がそう言うと、太一は、
「入って。」
 と言い残して店の奥へ戻っていった。僕と奈々は何事だろうと思いつつ、思わず顔を見合わせたが、とにかく太一の後に続いて店の中に入ると、手近なテーブル席に腰を落ち着けた。そこへ太一がお茶の入ったコップを二つ持ってやってきた。そしてトン、トンと、僕らの前に置いてから、無言のまま僕の隣の席に、静かに座り込んだ。そして重い沈黙を打ち破り、ことの事情を話し始めた。
「今、俺の実家が大変なことになっていてさ。」
「太一の両親に何かあったの?」
 奈々の問いに少しの間を置いて、太一は心を決めた様子で答えた。
「実は、母が発狂しちゃって。」
「えっ。」
「エッ。」
僕と奈々は口々に叫んだ。
「父親に家に帰って来いって、さっき電話口で散々頼まれたところでさ。」
「発狂って……、お母さんはどんな感じなの?」
 僕が問うと、太一は怜悧な様子で淡々と語った。
「日常生活は、何とかできるらしい。でも一人でいつまでも独り言を言い続けたり、理屈の通らない話を父にずっと聞かせたりするらしいんだ。話を聞いていると、こっちの気まで狂いそうだって、追い詰められた感じで言っていた。」
「何かきっかけとか、原因で思い当たることはあるのか?」
「それはたぶん……、俺が家を出たからだ。」
 僕と奈々は黙り込んだ。子供が無事独り立ちを終えたことで、発狂する親なんてものがいるのだろうか。外の闇は一層暗さを増し、僕らの孤立感がますます深まったような気がした。すると太一にしてはめずらしく、自ら進んで自分のことを語った。
「とにかく俺の母は、俺に対する依存が半端なくてさ。行動力に関してすべて俺に頼っていて、俺がいないと何もできないと言っても言い過ぎじゃないくらいだ……、子供のころからずっとね。それがとにかく重くて。思春期になったあたりから、家を出ることが俺の第一の人生の目標になっていた。何もかも束縛しようとする母から、なんとしても離れたかったんだ。」
「つまり太一が家からいなくなったことで、お母さんは頼れる存在を失くして、それと同時に心の拠り所も失くしてしまい、発狂してしまったと――。太一はそう考えているわけ?」
「大雑把に言うなら、光の言う通りだと思う。」
「どうしよう。どうしたらいいんだろう。太一が家に帰るしかないの?」
 奈々は戸惑いながらそう言い、目を潤ませて太一を見つめた。太一はそんな奈々を見つめ返し、少し目を伏せてから言った。
「お医者さんは、一か月から二か月くらい入院させたらどうかと、父に勧めているらしい。でも父は迷っていてね。それほど悪い状態じゃないんじゃないかというんだけれど、それは実際に僕も会ってみないと、何とも言えない。」
 僕らの間に沈黙が訪れた。僕は太一が心の中で、ずっと親の存在を殺して生きてきたことを、彼から聞いた話で知っていた。学生のころ太一が、あくまで比喩だが、俺は親殺しをして大人になったんだと、冷たい顔をして僕に語ったことを今でも憶えている。それなのに、その親の存在感がゾンビのように復活して、自己主張を始め、今の太一を苦しめているのだ。太一はもう両親の存在から逃げることはできない。家族の一員であることを認め、現実と向き合う、それしか方法がない。理知的で根が真面目な太一のことだから、そのことは十分に分かっているだろうと思った。僕は訊ねた。
「家に、帰るつもりなのか?」
「一旦はね。」
 奈々が問うた。
「このお店は……、どうするの?」
「しばらくはお休みだな。ま、実家から帰ってきたら、また店を開けるよ。大体一週間くらいしたら、ここへ戻ってくるつもりでいる、店の家賃ももったいないし。正直母のことが可哀相だという気持ちより、憎々しく思う気持ちの方が強いね。あの人はいつも俺が自力で作り上げた大切な世界を、悪気もなく、軽々しくぶち壊していくんだ。」
「頑張れよ、太一。」
 僕の言葉に太一は苦笑いで答えた。
「何を頑張ればいいのかね。」
「ね、太一。」
「何、奈々。」
「これ、少しは役に立つんじゃないかな? このお店に飾ってもらおうと思って買ってきたんだけれど、もしお母さんを入院させるのなら、病室に飾るといいかもしれないわ。」
 奈々はそう言って、小さなクリスマスツリーを紙袋から取り出し、太一に手渡した。太一はツリーを受け取り、ためすがめつ眺めると微かに笑みを浮かべて、どこか遠い目をして言った。
「クリスマスか。もうそんな時期なんだな、存在自体を忘れていたよ。ありがとう、奈々。凄く可愛い。」
「いえ、どういたしまして。」
 … … …
 そして僕と奈々は暗く沈んだまま、ドリンクcafeを後にした。僕らの前では時折笑顔を見せた太一だったが、今思い出すとその表情はどこか造作めいたものがあった。やはり無理をしていたのだろうか。駅までの道のりをゆっくりと歩きながら、僕は太一の未来を思った。前向きに確実に前進していたはずなのに、ある日突然道が途絶えてしまう。存在すると信じていた道がなくなってしまう。今の太一の現状はきっとそうなのではないかと思った。別の言葉で表現すると、気配を消してじわじわと自分に染み込んでくる、黒い〈絶望〉……。
「太一、暗かったね。」
 奈々の言葉で現実に引き戻された。彼女は考え深げな横顔を見せて、哲人のような風情で僕の隣を歩いていた。
「あいつはもともと明るいタイプではないけれどね。」
「そうね、大学生だったころも、いつもどこか陰のある人だった。」
「うん。あのさ、前から一度は聞いてみたいと思っていたんだけれど、奈々は何で暗くてひねくれた僕と太一の友達になってくれたんだろうか?」
「光はそんな風に思っていたの? そうだなあ、それはたぶん、二人ともとても真面目な人だから。あと、面白みもある人だから。」
「まじめで面白い。それが奈々の人を好きになる理由?」
「そう。それが私にとってはとても大切な条件。そういう人じゃないと、尊敬する気持ちが起きないのよね。」
「……もしかすると奈々は、太一のことが好きなんじゃないの?」
「え。」
「奈々を見ていると、そんな気がしてくるんだ。」
 僕が初めて、ずっと心の秘めていた疑問を吐露すると、奈々は下を向き、考えに沈みながら黙々と歩いていたが、しばらくしてからあっさりと言った。
「うん、好き。」
 そして僕の顔を真っ向から見つめ、包み隠すことなく言った。
「私は太一が好き。」
 いざそういわれてみると、なぜか僕は胸に、鈍い痛みを感じた。
 … … …
 世間がときめきとともになぜかバタバタしてしまう十二月の日々は飛ぶように過ぎていった。家のパン屋もホームパーティやクリスマスの予約で、作らなければならないものが格段に増え、僕みたいなパン作りのできない人間が厨房に立ち入るのは、はっきり言って邪魔であると両親は僕に言い渡し、その代わりにと、経営に関する事務的なことは一切僕に任され、小説がどうのこうのなんて言っている暇は全くなくなってしまって、僕は毎日忙しくしていた。太一は結局一週間を過ぎても、実家から帰ることはできなかった。僕は一日に一回だけ短いメールを彼に送ることにしていたが、返事は返ってきたり、返ってこなかったりと不安定で、時たま返ってくる短い文面では、今何がどうなって太一がこれからどうなるのか、ほとんど読み取ることができなかった。ならば奈々は、太一とどうなっているのだろうと思い、僕は奈々に電話をかけてみることにした。彼女はいつも通り、元気いっぱいで電話に出た。
「はい。」
「あ、奈々、元気にしてる?」
「相変わらずよ。光は?」
「僕も似たようなものだね。ねえ、太一と連絡は取っている?」
「メールは時々送っているわ。でも電話はしていない。大変な所に電話をかけて邪魔するのも悪いと思うし。」
「そうだね、僕も同じ考えだ。」
「太一と、光と私とで、クリスマスをはじけて過ごしてみたかったわね。」
「君はさ、毎年そんなことを言っているけれども、実際に僕が『聖なる夜に集って、シャンパンを傾けながら、人生について語りあかそうじゃないか。』……なんて言ったとしても、誘いを断るでしょ。」
「うん。クリスマスにそんな重いテーマで深刻になりたくないし、もう女友達との約束もあるし。彼氏のいない女子だけが集まって、どんな男が理想的で、どういうクリスマスプランだったら最高か? というテーマについて、プレゼント交換をしながら延々と語り合うのよ。女子の妄想炸裂で、とっても楽しいんだから。」
「何だか後ろ向きな話し合い。」
「私たちのことを夢見る乙女と呼んでほしいわ。光は何かクリスマスの予定はないの?」
「きっと家のパン屋でシュトーレンの叩き売りをしていると思う。」
「地味~。」
「太一がいたら、二人でなにかしていたかもしれないけど。それもクリスマスとあまり関係のないことを。」
「そういえば、ドリンクcafe。どうなっちゃうのかな。」
「きっとやめるつもりはないと思うよ、太一は。常連客もいるし、あいつの城みたいになっている大切な場所だから。」
「そうね、そうよね。」
「近いうちに様子を見に行ってみるよ。」
「うん。」
 そこで僕らはお互いの幸せを祈って、電話を切った。
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