ドリンクカフェと僕

桃青

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始まりは雨

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 次の日は雨だった。僕はレジの前に立ち、客足の遠のいた店でサーサーという雨の音にずっと耳を傾けていた。世間では多くの人、特に女性が雨を嫌うものだが、僕は雨が大好きだ。雨は様々なもの、道路や自然、あるいは人の心などを浄化していく作用がある気がする。僕の心がひびの入った水晶玉のように、修復不能に壊れてしまったあと、天から降り注ぐ雨はまるで癒しのように僕の心に染み入って、いつも慰めを与えてくれたものだ。どうしたらいいのか分からないときに、傘を差しながら雨の中をさまよい歩くと、不思議と落ち着きを取り戻せた。僕の心をひきつけた女性と会おうと決めた日が雨というのは、高ぶる心を鎮めようとしてくれる、神様の親切な計らいだろうか。
「お客さんが来ないねえ。」
 そう言いながら母は、袋詰めを終えたクッキーの入った籠をレジ台の脇に置きにきた。
「雨、だからね。」
 僕がそう言い返すと、母はお天気を呪うかのようにぐっと窓の外を睨みつけた。そして言った。
「仕方ない、今日はセールをやっちゃう。光、これをドアに掛けてきて。」
 そして『安くしました。雨の日セール、三十パーセントオフ!!』と大きく書いてある札を不機嫌な母から受け取ると、店の外に出ていって、ドアノブに引っ掛けた。そして店に戻ると言った。
「これならきっとお客さんが来るよ。」
「来ないと困るわよ。パン屋の経営なんてね、決して楽なものじゃないんだから。」
「うん。」
「光は……、」
「何?」
「小説の方はどうなの? なんていうか、その道でうまく行けそうな予感というか、確信みたいなものはできてきた?」
「正直なところ全く分からない。それに今は小説に対する心構えが、とてもぶれている気がするんだ。」
「それはちょっと心配ね。あなたの心は決して頑丈にはできていないもの。でも妙に粘り強いところがあるのも事実なんだけどね。」
「うん、きっと母さんの言う通りだと思うよ。」
 すると母は何かを思い出し、フフフッと笑って言った。
「あなたが初めて書いたっていう、小説を見せてくれたことがあったじゃない? なんだったかしら、確か冒険小説……、」
「SFだよ。」
「そう、そう言ってたわね。あれは酷かったわよ。あまりに話の展開が酷いものだから、読んでいるとなぜか笑えてくるのよ。はははは。逆説的な意味で、なかなか面白い話だった。」
「書き上げたときは、自分で最高傑作だと思っていたんだけどな。」
「でも光には才能あるわよ、たぶん。」
「えっ、本当に?」
「売れないかもしれないけどね。」
「うっ、それは困る。多少は売れてくれないと、ご飯が食べていけないことに……、」
「でも、小説を書きたいんでしょ?」
「ウン。」
「なら書けばいい。それでいいのよ、人生なんてそんなものよ。」
「母さんはパンを焼きたいから、焼くの?」
「そうよ。私の場合はそれしかできないからやっている、というのが一番大きな理由だけど。」
「それで幸せ?」
 すると母はアルカイックスマイルみたいな笑顔になって言った。
「分からない。それは神様だけが知っているの。」

 結局、セールのあと看板につられたお客さんが多少訪れはしたが、いつもほぼ売れてしまうパンが、半分は売れ残ることになった。僕は店じまいをした後、母の承諾を得ておいしそうな菓子パンをいくつかと、一番値の張る食パンを袋詰めにして、着替えを済ませ、外出の支度をして、パンを片手に店を出ていった。

 雨の中訪れたドリンクcafeは、やはり家の店と同じように閑散としていた。僕の指定席になっている窓際の席に腰を下ろして店内を見渡したが、思い人である彼女の姿は見当たらなかった。そんなに都合よく会えるはずがないかと思いながら、水滴のついたガラス窓をぼんやりと眺めていると、太一がのこのことやってきて言った。
「ご注文は?」
「バナナミルク。ね、今日雨でしょ? だから家の店の品物が大量に売れ残っちゃってさ。というわけでプレゼント。家で一番値段の高い食パン。はい。」
「お、助かる。じゃあ物々交換ってわけで、おまえのバナナミルクはただでいい。」
「ありがとう。」
 そう言葉を交わすと、太一はそそくさとカウンターへ引っ込んでいってしまった。どうやら何かで忙しいらしい。僕はぼんやりと外に目を走らせながら考えた。
(……小説だって基本は客商売なんだから、売れる話を書かないと意味がないのだろう。だけど人受けばかりを気にしていたら、自分というものがなくなっていくのは確実だ。そんな話を書いていて、何が面白い? 第一読む方だって楽しくなさそうだし。僕はそもそも文学の探求なんて崇高なものを背負う気はないから、だから……、)
 その時何かの気配を感じて、はっとして店の入口を見た。するとそこには、僕の予感通りにあの女の子が、濡れた傘を片手にすくっと立っていた。
 彼女は傘立てに丁寧に傘を入れると、目を見張って彼女を見つめている僕に気付く様子もなく、僕の横を通り過ぎて、すぐ側の席にすっと腰を下ろし、何気なく窓の外を見た。僕はそんな彼女の横顔に思わず見とれてしまった。真摯で、ほのかに優しさの漂う美しい横顔だ。造りも一つ一つ美しいのだが、彼女には姿形を超える、言葉にならない魅力があった。その雰囲気こそが、もしかするとオーラというものなのか? と自問自答していると、太一がスーッとやってきて、彼女に、
「ご注文は?」
 と訊ねた。女の子は無表情で、静かに、
「ホットコーヒー。」
 と言った。そして太一が会釈をするのを見ようともせず、窓の外に目を戻し、するりと自分の世界へ戻ってしまった。太一は僕の背後を通る時に、ゴン、と背中を肘で叩いていき、アクションを起こせと促していった。その時僕の心の中では戸惑いと不安とときめきと喜びが、混じり合った絵の具のように訳の分からない色彩を放っていたのだが、勇気を振り絞ると椅子から立ち上がり、半ばやけくそで彼女の側まで歩いて行って、緊張しながら話しかけた。
「酷い雨ですね。」
 彼女はくるりと振り返って僕を見た。そして、
「ええ。」
 と言い、僕を見つめた。それからしばしの間続く沈黙……。これじゃ会話が続かないと思わず頭を抱え込み、ここで準備してきた小道具を利用することにした。
「あの、パンはお好きですか?」
「パン?」
「その、実は僕の家で、パン屋をやっているんです。」
「はい。」
「でも今日は雨でしょう? 客足が遠のいて、売れ残りが大量に出てしまったんです。それをこの店でドリンクでも飲みながら食べようと思って、いくつか持ってきたのですが――。
 よかったら、一つ。」
 女の子はふと、真顔でパンの入った袋を眺めてから言った。
「どれが、コーヒーに合うかしら。」
 僕は袋の中をガサガサと漁りながら言った。
「そうだなあ……。割とこってりしたものが合う気がするんですよね。例えば……、デニッシュはお好きですか?」
「はい。」
「それじゃ、あんずカスタードデニッシュなんてどうです? 一応店の看板商品なんですが。」
「なら、それにする。」
 そう言うと彼女は初めて自然な表情になり、にっこりと笑った。僕はパンをそっと彼女のテーブルの前へ置いた。すると女の子は僕に手を差し出し、フランス人形のような顔を僕に向けてこう言った。
「私の名前は、あかりと言います。」
 僕は差し出された手をぎゅっと握ると、あかりに言葉を返した。
「僕は光。新川光って言います。」
「私たちって明るい名前なのね。あかりとひかり。」
「確かに名前だけは光り輝いているね。」
 そういうと僕らは自然に微笑みあった。彼女は少し首を傾げて、さらに言った。
「よかったらお話でもしませんか。」
「えっ、ええ、ぜひ。」
 僕は驚きながらも喜びに満ちてそう答えてから、彼女の隣の席に腰を落ち着けた。

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