ドリンクカフェと僕

桃青

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序章といいわけ

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☆序章

 ジリリリリリッ! 目覚ましベルの音で僕は叩き起こされた。そしてむくりと起き上がると、無造作に時計のボタンを叩いてベルの音を止めてから、表示板を眺めて呟いた。
「朝の……、七時半か。」
 それから自分の部屋を出て階段を降りていくと、辺りに甘い香りが漂い、焼き立てのパンを店内で丁寧に並べている母が、僕に向かって明るく声を掛けた。
「光、おはよう。」
「母さん、おはよ。」
「あと三十分で開店だからね。光もレジに立つ準備をしてよ。」
「分かった。」
 僕は寝ぼけた頭のまま母にそう返事をすると、台所へ向かった。テーブルの側にある椅子に腰掛け、コーヒーメーカーからマグカップにコーヒーを注いで一口啜った後、大皿にこんもり盛りつけてある昨日の売れ残りのパンを眺めて、ふうと息を吐くと言った。
「今日の朝食もまたパンか……。」
 毎朝繰り返されるパン攻撃にうんざりしたものの、何かを食べておかないと体が持たない。僕はあっさりしていそうなたらこバターを塗ったフランスパンに手を伸ばし、もぐもぐと食べながら呟いた。
「うん、味はいいんだけどな。」
 ふと顔を上げると、台所の前のカーテンは開け放たれていて、外の光が部屋の中に明るく、優しく射しこんでいる。いい天気だ。今日も新しい一日が始まる。

 僕こと新川光は大学を出た後、会社勤めをせずに、家のパン屋の手伝いをすることにした。本心を言えば店を継ぐ気はさらさらないのだが、僕はある程度の自由が利く仕事に就く必要があった。なぜなら。……こんなことを言うと、大抵の人に「無理だね。」と一言であっさり返されることが分かっているので、あまり他人に話したことがないのだが、僕は小説家になりたいのだ。

 僕は少し特別な体験をしていた。それは人生の流れの中でごく自然に訪れたもので、ある日から突然、〈自分が自分であること〉ができなくなってしまったのだ。
 僕が生きていくこと、僕が考えること、僕が行動すること。何もかもがずれ始めた。普通の人だったら呼吸と同じくらいに意識せずできることなのに、僕が何かしようとするとその全てに、〈意識〉の横槍が入り込むようになった。これは若さが生み出す自意識過剰かと始めのころは考えていたのだが、何かが違う。精神病かとも思い、病院に行って診察も受けたが、先生方は口を揃えてあなたは正常で薬の必要はないというのだった。
自分が自分の思考を意識するより先に、他者の視点、いや、大風呂敷を広げるなら世界の視点が差し込んできて、僕はいつも大なり小なりのパニックを起こすようになった。奇行に出るほど異常ではなかったが、僕はいつも自分のことで手一杯になり、ただ生きていくことがとてつもなく大変になっていた。その頃の僕に自分の心はなかった。感動も楽しみも、悲しみも喜びもなかった。顔は次第に無表情になり、他人と触れ合うと混乱を起こすので、人と交流することが何よりも大きな苦しみになっていた。
 生きることが苦しかった。存在することが苦痛だった。そしてこうなってしまった僕を、誰かのせいにしたかった。しかし誰のせいでもないことは、僕にも一応分かっていたのだ。だが、根源的に自分であることを否定された行き場のない悲しみはどこへ向かえばいいのだ? その頃から僕は、自然に文章を書くようになった。誰のためでもない内向的な物書きだったが、その時生まれて初めて創作の快感を知った。自分が書き出した文章の世界は、誰の横槍も入ることのない僕だけのサンクチュアリだ。どれだけ書くことに僕は救われただろうか。だから書くことを仕事にできたらと思うようになったのは、単純かつ自然な成り行きだったのだと思う。

 パン屋の仕事というと、一見呑気に見えるかもしれないが、実際はどの仕事にもひけをとらないほど苛酷である。父と母は毎朝三時起きで仕込みを始め、店を午前八時にオープンして、大抵ほとんどのパンが売り切れる午後四時ごろには店仕舞いをする。だがそれで全ての仕事が終わるわけではなく、その後明日のパンの下準備をしたりするので、二人の一日のサイクルはパンと共に回り、まるでパンのために生きているかのように僕には見えた。僕は小説を書くことを理由にして、レジの手伝いだけしている。朝はよく寝られて、午後は遅くても四時に仕事が終わる。それから就寝するまでの時間はフリータイムになり、今の僕にとって勝手のきく実にいい仕事なのだ。

 その日、午後の四時に仕事を終えて、僕は自分の部屋に戻って身支度を済ませると家を出た。夕暮れの街を歩くと人々はオレンジの光を身にまとい、今日が無事終わってゆくことに安堵しているかのように見える。駅に着くと電車に乗って三駅ほど行き、ある店を目指して僕は歩き始めた。そして「ドリンクcafe」と可愛い文字で書かれた看板を見つけると、その店の中へ入っていった。
「いらっしゃ……、なんだ光か。」
 小さな店内の中で、店長と思しき人物が熱心に洗い物をしながらぼそりと言った。僕は店内を見渡しながらカウンター席に腰を下ろし、彼に話しかけた。
「今日は客がいないね。」
「もう店仕舞いをするところだったんだよ。客が来ないのはむしろありがたいくらいだ。」
「えっ、なんで?」
「昼間に大量の女の子たちがやってきてさ、マンゴーミルクだの、カフェオレだの、チャイだの、山のようにミルクの入ったドリンクを注文するわけ。で、牛乳が全部なくなっちゃったの。だから今日はこれでおしまい。」
「でも僕は太一と話をしたくて来たんだよ。」
「それじゃ、外の看板をクローズにしてくるから、光、お前のためだけに店を開けよう。」
「まことかたじけない。あ、家の店の残り物のパン、持ってきたんだけど食べる?」
「うん、ありがたく頂いておく。お礼に何か軽食でも作ろうか。」
「米……、米を食わせてくれ。あと野菜と肉も食いたい。」
「分かった。」
 太一は微かに僕に笑いかけると、黙々と料理を作りはじめた。
 このドリンクcafeのオーナー兼店長の堺太一は、大学時代の友人だった。僕と太一は友達ができないわけじゃないけれども、たくさんの人と付き合う気軽さや器用さがなく、何となくお互いに似た性質であることが分かった後、それ以上の付き合いを避けるかのように、二人だけで深く、密に付き合い、今まで色々なことを話し合った。
 大学生時代の僕の心はかなり大変で、暗くて閉じている付き合いにくい人間だったのではないかと思う。そのころ僕は虐待でも受けたかのように、とても深く傷ついていた。でもなぜだろう、そんな救いのない他人からは見捨てられるような僕を、太一は決して見捨てはしなかった。辛いときに誰かが側にいてくれる。そのことがどれほど嬉しく、勇気づけられることだろうか。太一が与えてくれた優しさに、一生をかけても恩返しができる気がしない。そして僕はこう心に決めている、これから先何があったとしても、彼を見捨てはしないし、彼のそばに居続けるようにしようと。
 
 僕はしばらく黙って、太一がトントンと野菜を刻んだり、冷ご飯を手早くおにぎりにするさまを眺めていた。彼の男らしくないきれいな手は、繊細な性格と賢さの表れであるような気がしてならない。手がきれいな人は、ずる賢さなどの悪い意味も含めて賢い人だという僕の思い込みは、いつごろから生まれたのだろう? 太一は僕に訊ねた。
「飲み物は何がいい?」
「お前に任せる。なんたって飲み物専門店の店長だろう?」
「分かった。」
 そう言うと僕の目の前に、真ん丸に握ったご飯にベタッと海苔を張り付けた男らしいおむすびと、丁寧に刻んだキャベツの千切りに生姜醤油でソテーした焼肉をトントンと並べ、残り物で悪いけどと言いながら、ブラックコーヒーの入ったマグカップを差し出した。僕はコーヒーを受け取り、口をつけると、驚きに満ちて言った。
「これ、普通のコーヒーなの? まるでスープみたいな味がするよ。」
「ドリップしたコーヒーに、パラパラと塩を振り入れただけだ。辺見庸さんが本で書いていたのを真似したんだけど、うまいだろ?」
「うまいな。じゃあ料理もいただきます。」
「どうぞ。」
 僕はしばらく黙々とおむすびやら肉やらを頬張っていたが、ふと箸を止めると、一人静かに考えに耽っている太一に、さりげなく聞いてみた。
「実家には帰ったりしているの?」
 少しの間があったが、彼は冷静に答えた。
「帰っていない。」
「相変わらず、親と仲が悪いんだな。」
「俺は父親も母親も、親として認めていないからな。」
 太一の肝を冷やすような冷たい言葉に一瞬僕はぎょっとしたが、気を取り直すと少し踏み込んだ話をした。
「僕には、……お前の両親は普通に思えるんだけれど、今まで話を聞いた限りでは。」
「それは俺も認める。俺の親は普通の親だ。」
「それじゃ、何で?」
「あの二人には人間として最も尊いものが欠けている。しかもそれは彼らが生まれ持った欠陥で、直す術がない。そんな人間が親になるべきじゃなかったんだ。俺はそう思っているよ。彼らが持ち合わせていない、とても大切な〈親の責任〉について議論を吹きかけたって、得るものは皆無さ。そこにはただの絶望しかない。」
「でも太一は立派な大人に育っただろ? こうやって店を持ち、自立して……、」
「そして放浪し続けている。たぶんこれから一生ね。俺はろくでなしです、まあ、こういう人間も何人かなら世の中にいていいと思うけれど。」
 そう遠い目をして語った太一は、ふと僕と目を合わせると、孤独の影を消すように笑ってみせた。

 二時間話し込んでから、太一が明日の店の準備があるというので、僕は彼に別れを告げ、店を出て、駅を一駅分歩くことにした。そして自分が小説家になろうとしていることについて、思いを馳せた。
 小説家はそうそうお金が稼げる商売じゃない。仮に作家になれなかったとしよう。でも文章の何でも屋でも、最悪ゴーストライターでも構わないから、書く仕事に就けたらと僕は願っている。そして食べていけるならそれでいい。
 でも僕は何のために書くのだろう?自分のため、他人のため、社会のため、……それとも金のため? だが理由ははっきりしなくても、書かずにはいられない自分の性を知っているし、結局物書きの夢を諦めて、ほかの仕事に就いたとしても、僕は書くことをやめない気がする。
 売れるかどうかという人の評価を気にしないで、一生好き勝手に書いていくのも、それはそれで面白そうだ。だがもし自分の書いたものが読んだ人の心に触れて、閉ざされていた心のドアを開き、新しい何かを見せることができたなら――。僕は心の底から感動する。
人は感動するために生まれてきたのですと、スピリチュアルカウンセラーの江原啓之さんは著書で書いていた。だとしたら、小説家になって、本を人読んでもらえるというのは、他にないほど素晴らしい仕事ではないだろうか。

だが今僕は小説書きが単純な理由で行き詰っているところだった。ネタが思いつかないのだ。恋愛小説、SF小説、純文学、ライトノベル。お話には色々なジャンルがあるが、僕が書くものはどれにも当てはまらない気がした。文学賞に応募するなら、その賞に見合った話を書くべきだと一応分かっているのだが、でもそれが僕にはできない。何を書いたらいいんだろう、どうやって書けばいいんだろう。そのことについて今、僕は必死に模索している最中だった。
ふと足をとめて空を見た。雲で霞んだ三日月が空で頼りなく光を放っている。線路沿いを歩いていたため、ガッシャンガッシャンと電車の行き交う音が絶え間なく聞こえてくる。この夜景は今の僕の心をよく表していた。一本道を迷わず進んでいるはずなのに、行き先に見える希望の光は、霞がかかった頼りない薄明かりだけだ。

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