buroguのセカイ

桃青

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14.

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「ブログは私のはけ口として、使っていると思う。やらずにいられないんだ。やらないと、便秘になりそう」
「それって、芸術的衝動、って感じ? 」
「そうなのかなあ。私はアーティストじゃなくて、アラサーのOLだけれど、ふつふつ湧き上がってくるものを、だーんと出している。単に欲求不満なのか、それとも創造的な作業なのか、自分でもよく分かっていないんだ」
「とりあえずブログが、今の美里にとって必要だってことだよね。それだけは分かったわ。じゃあ、私、そろそろ帰るね。写真ありがと」
「こ、こちらこそ、ありがとう」
 友ちんは写真を大切そうに鞄にしまい込むと、軽やかな足どりで自宅へ帰っていった。

「私はなぜ、ブログをやるのか」
 最終的に、五冊の大容量のアルバムにまとめられた秘蔵の写真を眺めながら、私は呟いた。選び抜かれた写真だけあって、どの写真を見ても思わずにんまりとして、幸せな気持ちになれてしまう。
「まるでブログの私とは別人格みたいよ」
 そう言うと、自分のブログの世界に思いを馳せた。平凡で幸せな日常をたたき切るようなことばかりアップロードすることに、どんな意味があるのか。見ている人達は、私と一緒に残酷な気持ちになり、その非日常感を楽しんでいるのだろうか。あのブログは私にとって、どんな意味を持つのだろう。そのことについて、今まで具体的に、深く考えたことがなかったことに気付いた。

 ブログで見せびらかしている世界は、確かに私の中から生まれたものだし、周りの人からどう非難されても、どう否定されようと、
『私は私だから(変わることはない)』
 と言い切るつもりでいた。でも何故私は、それを誰かに見せようとするのだろうか?

 人気があるブログでもないし、お金を儲けようと強く思っているわけでもないから、それほど真摯に、自分の行いについて考えたことはなかった。でも、何故? 自分をさらけ出すような、ある意味恥さらしみたいなことを、私はやり続けるのか。屈折した自己承認欲求のようなものだろうか。自分の中に、とらえ所のないぬえが、ふと、存在している気がしたのだった。

 今の私にとって、確かにブログは楽しみの一つだ。でも友ちんの言っていた『写真が不幸』という言葉が、矢のように私の心に刺さり、考え続けずにはいられなかった。何か、もしくは誰か、を幸せにするためには、私の行いは正しいのだろうか。シニカルな私が生み出した視点は、他人に対してだけではなく、自分自身にも向けられている気がした。

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