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旅に出よう
しおりを挟む「ただいま」
そう言い玄関の扉を開くと、母は真っ向からずんずんと近づいてきて言った。
「星子っ」
「何」
「リビングに来て座りなさい!」
「何かあったの」
「何かあったのはあなたの方でしょ。そうじゃないと困るわ。占いについて話を、お母さんに聞かせてちょうだい」
「その話ね。分かった」
私はケタケタしている母を見て、自分との温度差を感じつつも、言われた通りにリビングに行き、ソファーに腰を下ろして、望み通りに話し始めた。
「占ってもらったよ」
「分かっているわよ、そんなこと。で、で、なんて言われたの」
「うんと、……順くんと結婚することが、私にとって一番の幸せらしいよ」
「そうでしょ、そうでしょう」
「でも私が努力をしなければ、彼の方からあっさりと離れていくらしい」
「ああ、それは困るわ。星子には二度と家に帰ってきてもらいたくないのよ」
「……で、自分を磨くためには旅に出ろって」
「……。たび?」
「そう」
「旅? 旅行ってこと?」
「うん」
「あなた一人で行くの?」
「そうらしい」
「旅にかかるお金はどうするのよ」
「お願い、私に嫁に行ってもらいたいなら、費用を出して。無職の私にお金はないもの」
「星子」
「うん?」
「親にたかるなんて、あなたやっぱり最低ね」
「自覚はしている」
「どういう旅をするつもりなのよ。占い師さんにはなんて言われたの」
「順くんとの旅も勧められたけれど、最初は一人でふらっと行ってみるつもり。これから色々調べるよ。行ってもいい?」
「そう言われたなら、こっちも行きなさいとしか言えなくなるわ。仕方ない、一万」
「え」
「一万円だけ出してあげる。それでどうにかなさい」
「一万円でできる旅なんてあるの?」
「お母さんは知らないけれど、それ以上はびた一文出さないわよ」
「分かった。何とかしてみる」
私は母が目をつむったまま大きく頷くのを見てから、自分の部屋へ帰っていった。
それからネットで熱心に情報を漁りながら、私は一万円という予算で何ができるのかを知ろうとした。
(自力で観光地に行くこともできるけれど、効率よく回るならツアーがいいみたい。値段がかなり安いのもあるし)
旅行会社のサイトに飛んで、ツアーにポイントを絞って調べていると、日帰りで、紅葉とアウトレットのショッピング、あと湖を見にいくという魅力的なバスツアーを見つけ出した。
(このツアーの代金は七千九百円。お小遣いも含めて、ぎりぎり一万円ってところだな。自力でこの三つを回ろうとしたら、絶対にこんな値段ではいけないはず。お買い得だよね)
私はしばしの間、その旅の日程を読み返してから、申し込み画面とにらめっこしたあと、気付くと最後まで手続きを済ませていた。
その日の夜、心の落ち着きを失くして彷徨った私は、すがるように順に電話をかけた。
「あの、順くん?」
「おお星子。どうした」
「う~ん、ちょっと色々あって、それで私は……、日帰りのバスツアーに参加することにしたの」
「ツアーって、星子一人で?」
「うん」
「凄いね。進歩だ、進歩。社会復帰のための第一歩になるよ、きっと」
「でも母からは親の金で旅に行くなんて最低だって……」
「星子は最低だと思うの?」
「うん。私なんか存在しない方が」
「星子」
「はい」
「俺は君が、付き合い始めたころからずっと、自分で自分を苛めるのを見続けてきた」
「苛めてはいない―」
「言い方を変えれば、自己肯定ができていないんだ。そこが君の最大のビョーキなんだよ」
「……」
「泣いているのか」
「……」
「……だから、自己肯定できるようになるため、旅という選択肢を選んだ。それのどこが罪なんだろう。罪どころか、小さいながらも革命じゃないか」
「順くんは優しすぎるよ」
「……」
「私なんかと別れて、……他の人と付き合った方が」
「あのね、俺がそうしたかったらいつでもそうする。でも今はまだ君と別れたくない」
「同情して……?」
「同情なんかじゃなく、もっとピュアなものだ」
「ピュア」
「ピュアで、とても大切なもの。俺にとってはね。なんて呼べばいいのかよく分からないけれど」
「私、旅に出ようと思う」
「おっ、急に前向きになった」
「いつも迷惑をかけてごめんね」
「また後ろ向きになったぞ」
「ははは」
「ハハハハ」
私と順は笑い合って電話を切った。
それまでの私の生活は、図書館で借りてきた本を読んだり、CDを聴いたり、テレビを見たり、寝たりすることで成り立っていたが、今では家事をこなし、さらに残りの時間の多くを旅のために捧げるようになった。自分が出掛ける場所の情報をネットやガイドブックで調べるのは、本当に楽しかったし、今回申し込んだバスツアーについての妄想は、頭の中でパカパカと花が咲いたような、ロマンの塊のようなものになり、同時に緊張感も徐々に募っていった。
(旅を前にして、すごく緊張してきちゃったけれど、大丈夫かな、私。ちゃんと旅を楽しむことができるだろうか。こんなに旅することが楽しみになるなんて、申し込んだときは思いもしなかったけれど)
旅の準備で嫌になることは、何ひとつなかった。何を着ていくのか考えるのもときめいたし、持っていくカメラをいじるだけでわくわくしたし、旅の案内が郵送で届くと、手持無沙汰なときはそれを眺めて過ごした。そして待ち続けた日はついにやってきた。
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