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家族風景1
しおりを挟む「星子、星子」
母がドンドンとドアを叩く。私は開いただけで全く読んでいなかった本を閉じてから、ドアを開けた。
「何?」
「今から買い物に行くの。だからあなたも来て」
「いやだ。お父さんと行けばいい」
「お父さんがどこかに出かけちゃったから、こうやってあなたに頼んでいるのよ。それに買い物をすれば、あなたにも家事手伝いっていう名目がつくじゃない」
「そう。……分かった」
「なあに、あなたの格好。そのままの格好でこないでよ、うらぶれた感じがしていやだわ。ちゃんと着替えて」
「……」
「分かったんでしょうね」
「ちょっと待ってて」
私はそう言うとドアをばたんと閉め、五年もはき続けているジーンズとオーバーサイズのパーカーを着て、再び出ていった。母はそんな私をちらりと見て、無言のまま玄関へ行き、私も黙って母の後についていった。
外に出ると、色づき始めた木の葉が鮮やかだ。秋だ、と私は小さく心で叫んだ。もうすぐ私の誕生日が来る。この高い空と実りの季節に生まれたんだ。私はなんの実りももたらさない人間だけど……。
「あら、森さん? 森さんなの?」
通りすがりの女性が立ち止まって、眼鏡を押し上げながら私たちに声を掛けた。母は大げさに驚き、声を上げた。
「まあ、竹山さ~ん! お久しぶりぃ」
「ほんと久しぶりね。こちらはお嬢さん?」
「そうなのよ。ちょっと買い物に付き合ってもらおうと思って」
「いいわねえ。うちの息子なんか家を出てからろくに顔も見せやしないわ。一緒にお出かけなんてやっぱり女の子はいいわよね」
「そんなことないわよ。いつ結婚するのかって気が気じゃないもの。早くお嫁に行ってほしいわあ」
「あら、そうなの。ならうちの息子と見合いでも……」
「それがねえ、この子恋人がいるのよ」
「まあ、いいわねえ」
「でもなかなかゴールインしてくれなくって。やきもきしているんだけどお、親としては」
それから竹山さんとの会話は、私の存在を無視してしばらく続いたが、ようやく話が終わってから私は言った。
「お母さん」
「何よ、そんな暗い声で話しかけないで」
「私と順くんの関係を、そんな風に言い広めないでほしい」
「私が嘘でもついたっていうの。付き合っているのは隠し立てするようなことじゃないでしょう。別にいいじゃない」
「私たちの微妙な関係を、お母さんの見栄を張るために利用しないで。そういう風に思いやれないところが、とてもイヤなの」
「……。あなた、今どうして生きていられるの」
「?」
「私が家事をして、お金を出してご飯を食べさせているから、生きているのよ」
「まるで囚人みたいに」
「囚人だか何だか知らないけどね、あなたは私にものを言える立場でないのよ。悔しかったら働いてみなさいよ。……私がイヤですって? それはこっちのセリフよ、私だってあなたにうんざりしているわ! あなたがこねる理屈なんて全部絵空事。そんなもの聞く気もないし、従う必要もないわ」
「お母さんも今までの人生を絵空事の中で生きてきたんだよ。親子だから似ちゃったんだね」
「ああ、もうたくさん。やめましょう。本当に早くあなたが家から出ていってくれればいいのに。行くわよ」
「……」
それから私たちはひび割れた関係のまま、スーパーマーケットへ向かった。
買い物をして家へ帰ってくると、私は食材を一通り見てから夕食の支度を始めた。母は料理が大の苦手だったが、私は料理が大好きで、今の私が家庭で唯一平和に両親と向き合い、交流できるのが、私の手料理で食事をするときだった。母は料理をしなくて済むので、あえて文句を言わなかったし、仕事を定年退職して、居場所を失くしたようにあちこちをぶらぶらしている父も、崩壊しかけた家庭に穏やかな時間が流れる食事の時だけは、顔を出して団らんに加わった。
「……今日は麦ご飯を炊いて、それに合うおかずを作ってみるか」
私はぼそぼそ独り言を言いつつ、野菜を台に並べ、肉を冷蔵庫から取り出して料理を始めた。
何かを焼いたり、煮たりする間に少し生まれる空白な時間に、私の頭の中では様々な思いがよみがえってくる。子供のころ、私は自分のまっとうな将来を、疑うことなんてなかった。結婚して子供を作り、幸せな家庭を築き上げ、幸せに生きて人生に満足し、そっと死んでゆく。そう生きていくのだと思っていた。それがどうだ。大人になった私は毎日母と殺し合うような会話をしては、ずたずたに傷つき、自分の未来を否定し、幸せなんて分かるはずがないと思っている。己の人生とは認めたくない道を、いつしか歩んでいた。こんなの、人が生きる道じゃない。人生ってこういうものじゃない。じっと見つめていた鍋が涙で霞んだ。誰にも見られないように台所の片隅で私はひっそり泣いた。この涙は自分のためだけのものじゃなかった。世界を覆いつつある悲劇と連鎖して、その重みにうずくまりながら、溢れ出る涙はとどまることを知らない。
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