女装メイドは奪われる

aki

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2巻 1章 グレイス

二巻 第一話

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 眼光。
 霧が、真剣を包み込む。
 朝露が草木を湿らせていた。
 帝国の、それも王国との国境線近くの領地内。
 帝国内で流行っているモダンな屋敷の庭で、グレイスは、刃引きのされていない剣を、正眼の構えから一刀のもとに霧を切断した。胡散する霧。じんわりと肌を水分量の多い熱気が支配しはじめる。身体の奥から湧き出る、運動によって生じる熱量。しかしその炎を内へ。内へ、内へ。ため込んでいく。己を理性的な獣のごとく。無駄がないように、剣の熱を全力で解き放つために。
 グレイス・ホワイトは帝国騎士の家柄の、二十八歳の男だ。垂れ目であり、長めの茶髪を後ろで無造作に結んだ上に無精ひげの生えた不摂生な顔。不摂生といえども、目鼻立ちのはっきりとしている整った顔立ちのために、不快感はほとんどない。さらにそこからは想像ができないほどに鍛え上げられ引き締まった筋肉は、身長百八十cmの大柄の肉体をより精錬とさせている。顔と身体の不整合で対照的な見た目から、エロティシズムを感じさせる男だ。
 上段。両腕を、ぎりぎりと上げる。
 静かに息を吸った。「ハァッ!」 地を踏みしめる。靴。草を踏んでいるにも関わらず、大地が湿っているのがわかった。跳躍。飛ぶ。空に。空に。高く、飛ぶ。頂点。そして一閃。体重の乗った、全てを絶ち斬る剣撃。朝日が剣を濡らした。
 戦いにおいて跳躍することは非常に難しい行為だ。一見、威力が増して強そうに思えるが、隙が大きく、空中にいるときに相手は剣で軽くグレイスをひと撫でするだけ対処できてしまうからだ。諸刃の剣。素人の剣。しかし、戦いにおいて機先を制し、相手を、場を支配することができれば、この技は逆に必殺必中の一撃となり得る。グレイスの特徴を良くあらわした、支配という繊細な技術の上の、跳躍という大胆な技術の結晶だ。
 後ろから拍手が聞こえた。
 このキザったらしい音の出どころの主が誰なのか、後ろを振り向かなくてもグレイスにはわかった。一振り。剣に付いている露を払い、腰の鞘に剣を指す。

「タクリオ様。朝からお暇なようで」

 振り向くと、やはり想像した通りの人物が、朗らかに笑っていた。
 タクリオ・マーチス。グレイスの護衛対象の男で、二十七歳の帝国伯爵だ。幼いころから共に育ち、共に笑い、共に泣き、共に戦った、親友のようで、親友とは言ってはならない雇い主。腐れ縁の、お互いに嫌なところもいいところも知っている仲である。

「さすがは女遊びで夜が忙しいグレイスだ。言うことが違うね」

 女。
 もう、習慣のようなものになってしまっていた。イイ女だと思えば、抱く。無節操に。何かが違うと思えば、抱き捨てた。宝石を探しているかのように、さらに夜をさ迷い歩くのだ。タクリオに関連する女は抱かないように心がけているが、あてがわれた女はもちろんのこと、そうでない女も抱いた。その気がない女も、声をかければ股を開いた。帝国は自由主義なのだ。抱こうが抱くまいが、自由。だから抱く。それだけの話だった。

「タクリオ様も似たようなものでしょう」
「私の場合は違う。務めだよ。子どもは死産もあれば、産まれても大人まで育つかどうかもわからない。妻たちも子を産むときに死ぬことだってよくある話だ。帝国自由主義の弊害だな。グレイス、キミのようにね」
「オレは別に困っちゃいないですよ」

 子どもの出産後の生存率は、帝国においてはだいたい六十%だ。四人産んでも育つのが二人。六人産めば、育つのが三人から四人という計算になる。主な理由は病、貧困。ゆえに、多重婚をしなければ貴族であっても家が生き残れない。たった一人に愛を貫くというのは、とても危険で、あり得ない話なのだ。
 対して王国の出産後の乳幼児が大人になるまでの生存率は八十%を超える。別世界だ。といえども、これは決して国力の問題ではない。帝国が『親である神から人が自立する権利』、人権を主張しているためである。
 人は、職業スキルに縛られずに、自由に職業を選択することができる。聞こえ心地が良く、とても良いことのように思える。が、そうしてしまうと、人は職業スキルに関係のない職業に従事しても、当たり前のことに職業スキルによる恩恵を得られることができない。剣士が事務仕事をするにしても、≪垂直斬り≫や≪二段斬り≫が書類を書く際に全く役に立たないということだ。ゆえに、出産後の生存率に関して言えば、医術系などのスキル補正が働かないケースがあるために、王国に比べて出生率が大幅に下がってしまうのだ。つまり神は偉大だということだ。
 もちろん、技術面や補助器具などの技術面が発達すれば、産業革命が起これば、また違った結果を生み出すことだろう。しかしながら、現時点ではそれは未だに起こっていない。自由は素晴らしい。だが、大きな責任もまた、同時に負ってしまうものなのだ。
 そうした背景から、親友であり主でもあるタクリオにはすで三人の妻がいる。何度か身ごもったが、いずれも死産や、流産、病気で亡くなってしまったために、子どもはいない。

「そうか? 漁り続けるのはある意味困っているのと同じ意味だよ。一人で満足できていないからいろんな女性と遊ぶのだからね。私はいつも思うよ。キミは結婚をするべきだ、と。キミを縛り付ける女性が必要だとね。もうグレイスは良い歳だろう。ホワイト家もそれを望んでいるはずじゃないのか?」
「まぁ、家からはそうせっつかれていますがね。オレは長男じゃないですから自由にやらせてもらいますよ」
「やれやれ、まったく。キミこそ帝国自由主義の弊害だね。親友には落ち着いて、私の警護をして欲しいものだけど。この調子では難しいようだ」
「すみませんね」
「いや……。キミの修行僧のような剣との向き合い方を見ているとね。悲しくなるんだよ。それだけだ」
「よく言いますよね、それ。オレはそんな人間じゃありませんよ」

 悲しくなる。結婚しろ。よく、タクリオから言われる言葉だった。
 タリオはオレのことを買いかぶり過ぎている、とグレイスは自嘲した。
 剣を極めようとするのはただの危機感からで、女に手当たり次第なのはただ気持ちが良いだけだ。真っ直ぐ道を突き進むような、一本気な性格じゃない。親友ならばわかるだろうに。いいや、そうであってほしいという願望もあるのかもしれないが。

「ふっ。そういうことにしておこう。でもそうだね。一つだけ、親友として尋ねることにしよう。キミのスキルがあれば、剣の鍛錬など不要だろう。それなのに、なぜこうして毎日剣と向き合おうとするんだい?」
「それこそ明快です。オレのスキルは、本来は戦闘的でないからです」
「……そうか。まぁ……、それはそうだけどね……。そういえば、神託が下ったときは私も驚いた記憶があるよ」
「オレは悪夢かと思いましたね。心の底から神を呪いました。そして職業選択の自由が認められている帝国自由主義に、心の底から感謝しました」

 そうだ。あれほど最悪な経験は他にはない。絶望し、何もかもする気が起きなかった。そこから這い上がれたのはタクリオのおかげで、今、こうして有数の剣の使い手として数えられているのも、タクリオのおかげだった。
 ゆえに、グレイスは剣に誓っている。
 タクリオに忠誠を、と。
 帝国貴族のマーチス家ではない。タクリオ個人に対してだ。伯爵など護衛などどうでもいい。そういった雑音は関係なかった。ただただ、タクリオの剣として。そう誓った。だからこそ、グレイスは苛烈に剣を振るい続ける。賊も、モンスターも。全ての敵に対して。タクリオの剣として、斬り捨てるのだ。敵は多い。剣は鋭ければ鋭い方が良いのだ。
 敵。帝国は内外の敵に囲まれていた。モンスターは当然のことながら、賊や、周辺国、さらには前王家が主な相手だった。
 帝国は革命によって作られた国だ。神を絶対視する王家を内乱によって排除し、徹底的に自由な新たな国を興した。だがしかし、逃げ延びた王家の子は未だに生きている。虎視眈々と復讐の機会を狙っていることは容易に想像ができた。それだけならまだよかったのだが、徹底的な自由主義は、思わぬ敵を作り出してしまった。
 自由主義は、神からの自立を促している。長い歴史を経て、多くのヒトは、親である神から自立して、自らの足で歩きたくなった。そうした背景から、何もわからないヒトは、まずは、ごくごく小さな政府によって政治活動を行うことにした。帝国もその一つだった。『小さな政府』の誕生である。
 帝国の行った『小さな政府』は、永遠とも思える神による加護からの解放がそうさせたのか、他国の例に漏れずかなり極端だった。経済的な面においても短期的に効果のある公共事業も行わない。国営事業もほとんどが民営化。国防も最小限だ。そうした自由主義によって、帝国民は極端に開かれた経済状態となっている。素晴らしいほどの自由、そして自立であった。
 だがその過激な一歩は、恐ろしいまでの貧富の差を生み出した。貴族や大商人が栄華を極めるのとは対照的に、搾取される側の人間は貧困にあえぎ、年に数千以上の餓死者や、憎しみに満たされた賊などを生み出した。農奴が増えたために食糧自給率自体は上昇したものの、肝心の食糧は富める者に集まり、帝国民全てに行き渡らないのだ。犯罪率は上昇してしまい、治安が悪化してしまった。
 金銭を作ることは、すなわち経済活動は自由に活発に行われているのだから、帝国の行った『小さな政府』には非常に良い面もある。ただ、富が強者に集まりすぎてしまっていることが問題で、そのことは自由主義を掲げるどの国も抱える問題であった。かくも、神は偉大だということだ。

「神を呪った、か。今でもそうか? 神のおかげで、今のグレイスがあるのに。私は、神は素晴らしいのだと、今になって実感しているよ」

 タクリオが空を見上げていた。
 何を思っているのだろうか。領民の怨嗟の声だろうか。それとも水子の産声だろうか。だがタクリオの耳には、同時に、自由を尊ぶ歓喜の領民の声も少なからず聞こえているはずだ。
 グレイスは自身を振り返る。
 神のおかげ?
 今のオレがいることが?
 あり得ない。そう結論付けた。なぜなら、今のグレイスがいるのは、自由のおかげだからだ。自由だから、剣の道に進めている。自由だから、女を抱くことができている。自由だから、前を向くことができている。決して、神のおかげではない。

「ふん。そうですね。タクリオ様のおっしゃる、オレが一生を捧げたいほどの運命の女性とやらがいるのであれば。オレは、神を敬愛することができるのかもしれませんね」

 まぁ。
 一生、そんなことはないだろうがな。
 湿り気のある風が、グレイスの頬を撫でた。
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