離縁の脅威、恐怖の日々

月食ぱんな

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012 君は、あなたは、もっと美しい

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 気を利かせてくれたのか、アンネがカミルの散歩を引き継いでくれた。そして残された私とフェリクス様は、我が家の庭をゆっくりと二人で散歩中。

 先程は突然の再会という事もあり、感情のおもむくまま「会いたかった」と本音を告げてしまった。けれど冷静に考えてみれば、私は四年も子どもができず領地に戻された妻である。

 しかし、私はフェリクス様が好きだ。となると、離縁されるよりは愛人の存在を許す。そして愛人と彼の間に産まれた子を我が子として育てる。

 フェリクス様のそばにいたい。その気持ちに正直になった今。
 それがベストな選択であるように、思い始めていた。

「そういえば、今日はどうしてこちらへ?」

 領地の穏やかな風に吹かれながら、私は隣を歩くフェリクス様にたずねる。

「王都での仕事が片付いたから。それにここをそろそろ訪ねてもいいだろうと、トニーに言われて。本当はすぐにでも君に会いに訪れたかったのだけれど、すぐに会ってしまっては意味がないからと、君の父上やトニーに告げられていたから……って、今更言い訳は格好悪いな」

 フェリクス様はやつれた顔で、苦笑しながら教えてくれる。どうやら父や兄が、彼の足止めをしていたようだ。

 確かに私は一ヶ月をかけ、王都で負った心の傷を修復できた。だからきっと、フェリクス様と会えなかったこの時間は私にとって必要なものだったのだろう。

「……そうだったんですね」
「君は元気そうに見えるけれど」
「ええ。おかげさまで、色々と、その、太ってしまいましたの」

 私は王都にいる時は、絶対に隠し通したであろう秘密を打ち明ける。

「そうか。だから健康そうに、溌剌はつらつとして見えるのかも」

 彼は優しい眼差しを向けながら、私の頭を撫でる。その大きな手に、懐かしさを感じた。

「フィル様を放置しておいたのに、私だけ太ってしまって、ごめんなさい」

 私が謝罪すると、フェリクス様は顔を曇らせる。

「またそうやって、自分を責める。だけどそうさせているのは僕なんだよな……」

 彼が自分を責めるように呟く。

「フィル様のせいじゃありません」

 これは私が至らないせいだと、強く主張する気持ちで訂正する。

「気にしないで。君と二度と会えないんじゃないかと不安になり、食欲がなくなってやる気もなくなったとしても、君が幸せそうなら僕は嬉しいんだから……ってこういう言い方も君を傷つけてしまう原因だな」

 フェリクス様は申し訳なさそうな、困ったような顔になる。私はそんな彼の優しさに触れ、胸がきゅっと締め付けられた。

「あ……あの!」
「ん? どうかしたか?」

 思わず立ち止まってしまった私を見て、彼もまた歩みを止める。

「その……わ、私が居なくなった後、どうなりましたか?」
「どうなったとは?」
「いえ、その、離縁を陛下に申し出たとか、愛人を見つけたとか。あの、私は覚悟が出来ていますから。もう教えて下さっても大丈夫です!」

 私はありのままに近い自分でいられる、完璧な妻という呪縛から逃れる事が可能な領地にいるこの機会に、ずっと隠していた思いをぶつける事にした。

「離縁?愛人?」

 フェリクス様は不思議そうに首を傾げる。それから何か思い出したのか、ひらめいたという表情になった。

「確かに、僕には愛している女性が居るよ」
「えっ、もう!?」

 自分で覚悟していると口にしながら、まさかの言葉に驚きの声を上げてしまう。

「こ、これは、私の我儘わがままなのですが、せめて私と離縁なさらないで下さい。もちろん、フィル様と、フィル様が愛する方の邪魔はしませんので」

 泣きそうな気分になりながらも、必死に涙を堪える。とても惨めな気分だ。けれどここで意地を張っても仕方ない。

 フェリクス様のいない人生を送るくらいなら、惨めな女になった方がずっとマシだから。

 私は彼を失うくらいなら、手放すくらいならば、他人からいつまでも妻の座を譲らない、悪妻だとののしられてもいいと覚悟を決める。

 どうせ、子を残さない完璧が無理な私だ。
 いまさら世間にも、フェリクス様にも自分にも。誰かに見栄を張っても仕方がない。

 私は吹っ切れた気持ちで、フェリクス様に懇願こんがんする顔を向ける。すると、彼はふっと微笑んだ。

「僕が愛している人。それは、君なんだけどな」
「え?」
「僕は君が願っても離縁なんて絶対しないし、君がそばにいてくれるなら愛人もいらない」

 フェリクス様は私の腕を引き、大きな胸の中に抱きしめてくれた。

 突然の抱擁ほうように戸惑いつつも、私は嬉しさが勝り泣きそうになる。それから、これだけは伝えなくてはと涙を堪えた。そしてフェリクス様の腕の中から、彼の少しヒゲの残る顔を見上げる。

「フィル様は、いじわるだわ」

 文句をしっかりと告げたあと、私はフェリクス様のシャツを握りしめ、久しぶりに彼の温もりを堪能する。

「すまない。君の困った顔も愛しくて、つい」

 フェリクス様の飾らぬ本音を聞きながら、毎朝包まれていた懐かしい彼の匂いを存分に吸い込む。

 私の心は幸せな気分でいっぱいになる。けれど、あと一つ。私にはどうしても彼に告げなければならない事が残されている。

「あのっ」

 私はフェリクス様の胸に頬を当て、一呼吸おく。

「どうしたの?何でも言ってごらん」

 彼が優しくうながしてくれる。

「いくら愛を頂いても、私はフィル様の完璧な妻にはなれません。こんな子どもが産めないような体ではご迷惑をかけてしまいます。だからおそばには置いて欲しいのですが、あ、愛人を、どうかお持ちになって下さい」

 今までずっと言えなかった言葉。それを口にして、私の心は軽くなった気がする。けれど、やっぱり嫌われてしまうのではと不安にも襲われ、一気に涙があふれ出る。

「僕は一度たりとも君の事を迷惑だと思った事はないよ。むしろ、僕の方が君の負担になっているのではないかと悩んでいたくらいだ。それに子が出来ないこと。それは君だけの問題ではない。僕たち夫婦の問題だ。って、いまさら、君に言うのは遅いかもしれないけれど」

 フェリクス様は優しくさとすように語りかけてくれる。

「僕がこの問題を先送りにしてしまったのは、子が出来るかどうか。それは神のみぞ知る事だし、君にプレッシャーをかけたくはなかったから」

「何より、子どもがいようといまいと、僕は君を世界で一番愛している自信がある。だから、別れるだなんて思った事はない」

 私はフェリクス様に抱きつき、まるで子どものように、わんわん泣いた。彼はそんな私をあやすかのように背中をさすってくれる。

「だけどそれは、離縁を言い渡す側である僕の傲慢ごうまんさだ。夫からそういった事を理由に、離縁を言い渡される側である妻からすれば、不安に思って当然だったんだ。そんな事にも気付いてあげられなくて、ごめん」

 フェリクス様の言葉を聞きながら、私はしばらくの間、泣き続けた。

「それにさ、僕は君が完璧だから好きなんじゃない」
「だけど、私は公爵家の妻です」

 私は涙を袖口で拭いながら、顔をあげる。

「それでもだ。もちろん僕の為を思い、頑張ってくれるのは嬉しい。けれどもし君が何か失敗して、その事についてあれこれ騒ぎ立てるやつがいたら、僕がそいつのあることないこと言いふらしてやる。それこそ、社交新聞のゴシップ欄をそいつの噂で埋まってしまうくらいに」

 私はつい、くすっと笑ってしまう。

「君は、笑顔が一番似合う」

 フェリクス様は私を覗き込むようにして告げる。

「フィル様も、ですよ」
「そうか。そうだな。お互い、自分の欠点を責めるのはやめよう。きっとこれからも、二人の間に壁はあるだろうし、君が完璧でないと嫌だという気持ちも変わらないと思う。けれど、そういうどうしようもない気持ちを一緒に乗り越えていけたらと、僕は思っているよ」

 彼の瞳には私が映っていた。そのことに気が付いた時、私は幸せで満たされた気持ちになった。

「それに子どもを産むだけが夫婦の営みなわけじゃないだろ?」
「でも、子どもは欲しいです」
「うん、そうだね。どうしても無理な時は、養子を取ればいい。そうだ、トニー達に頑張ってもらえばいいさ。産みの親は彼らかも知れないけれど、育ての親は僕たちだ。それだって子どもにきちんと愛情をそそげば、僕たちは親だと、そう世間に胸を張れると思うんだ」

 フェリクス様のその提案がとても嬉しくて、私は彼の胸に顔を擦り寄せた。

 カミルと過ごしたこの一ヶ月。未熟ではあったし、実の母には到底敵わないだろうけれど、彼にとって大切な人の一人には、なれていたような気がする。

 そもそも子どもにとって重要なのは、産みの親と育ての親のどちらについても、愛情や支援、安全な環境を提供してくれることだろう。

 私は子が出来ないと悲観していた。けれど、必ずしもお腹を痛めた子だけが我が子になるわけではない。子どもにとって一番良い方法が提供できれば、家族になれる可能性があるのだ。

 現に私は最初こそ、我儘で苦手だと思っていたカミルを今は我が子のように、とても大好きに思えている。その気持ちは私が親になれる可能性をしっかりと示してくれている気がした。

 私はフェリクス様の腕の中で、かつてないほど気持ちが軽くなるのを感じた。

「君は、よだれを垂らすし、僕がベッドに引き込むせいで寝癖もすごい。それからパン屑をつけちゃう所もあるけど、だからこそ僕には君が愛おしく美しく思える」

 フェリクス様は私の髪を撫でながら、穏やかな口調で言う。

「それは、流石に愛おしくで片付く問題ではないと思いますけど」

 すっかり忘れていた件を蒸し返され、私はムッとした表情で彼の顔を見上げる。

「夫婦だから、無防備な君を知れる。それは何より幸せなことだ。そして、家の中の事も全てやってくれる君に、僕は感謝しかない。いつもありがとう」

 フェリクス様は私を抱きしめる腕に力をいれる。

「フェリクス様も、いつもお仕事を。家族のために、みんなのために頑張って下さって、ありがとうございます」

 完璧な妻という呪縛じゅばくから逃れた私は、涙でお化粧がぐちゃぐちゃになった、完璧ではない顔の私をフェリクス様にさらす。

 するとフェリクス様がハッと息をのむ。
 それから少し頬を赤らめ私を見つめた。

「結婚する前。いつだって僕は君を美しいと思っていた。でもまさか結婚して、更に君を美しいと思うだなんて。僕は、本当に幸せだ」
「こんな、涙でぐしゃぐしゃの顔でもですか?」
「あぁ。今の君は世界で一番美しいよ」

 フェリクス様は照れたように告げると、私の頭に優しくキスを落としてくれた。そんな彼の甘さにとろけそうになりながら、確かにその通りだと私は頷く。

 自分のよだれ姿が美しいだなんて、私はそこまで自惚れたりはしない。それでも、私がいなくなり、少しやつれてしまい、髭の剃り残しがあるフェリクス様は世界で一番素敵な人だ。

「フィル様の髭の剃り残しも、美しいですわ」

 私は顔をあげ、彼の顎のあたりを指先でなぞってみる。すると彼はくすぐったかったのか、私の手を取り、自分の頬に押し当てた。

「君のよだれには負けるけどね」

 フェリクス様は私の耳元に唇を寄せ、囁く。

「まぁ、ひどいですわ」

 私は彼を笑いながら睨みつける。

「愛してる、リディ。帰ってきてくれるよね?」
「えぇ、もちろん」

 私達はどちらともなく目を閉じ、そっと唇を重ねる。

 マーガレットの甘い花の香りが漂う中、フェリクス様の温もりを感じ、私は心から幸せな気分に浸っていた。

 私は、自分が完璧ではないことをずっと嘆いていた。
 けれど、完璧な人間なんていないのかもしれない。

 少なくとも私は完璧ではないし、フェリクス様だってそうだ。

 しかしそれでいいのだと思う。私達は完璧ではない。お互いに補う部分があるからこそ、夫婦として、家族として結びつく。

 そして完璧ではない私はいつか、フェリクス様の前でうっかりオナラをしてしまうかも知れない。もちろん今はそんな自分が想像出来ないし、恥ずかしいのでしたくもない。

 でも、今のフェリクス様と私ならばきっと、万が一の時があっても笑い流せるだろう。私は密かに確信し、その事をとても幸せに思うのであった。


 ――おしまい――
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